3-6

 3つの一等星が頭上で輝いている。というか、それくらいしか、人間の土俵では生き残れない。距離が近いから、明度が高いから、それだけで勝ち進めるわけではない。地球との相性を試されているようだ。それは……あんまりロマンチックじゃないので、これ以上頭で退屈しのぎをするのは辞めた。


 夏の残滓を拭い去るような風が吹く。この時期、この時間はそろそろ半袖が厳しくなってくる。これからますます寒くなり、布団の吸引力は高まり、筋肉が極力さぼろうとする。そんな生物にとって絶望的な季節に向かっていくのだから、今から落ち着かない。そう、私はサラミ戦術に晒されている。日々ちょっとずつ確実に冷え込み、そして気付けば冬が来る。まあ、赤道付近から南半球に避難するぐらいしか、対処法がないんですけども。


 冬にはいいことも沢山ある。希望はいっぱいある。そう暗示しながら、健康のために、どちらかと言えば鏡花と張り合うために、三階まで階段を上る。最初のうちは、仕事で損耗した脚に追い打ちをかけるようで、筋肉が張るどころか、痺れるような感覚さえあったけど、今は慣れた。筋肉や体力は増えるものらしい。次は筋トレに目覚めるかもしれない。


 鏡花から夕飯ができたと連絡が来たので、上りながらスマホをポチポチ?して、もう着くと返す。するとすぐに反応がある。普段は文字だけで色味のないメッセージが多いけど、今日は謎の黒い球状の生命体のスタンプが送られてきた。まあ、毎日同じでは飽きてしまう。季節が移ろわなくなったら、私でも意外と四季を希ってしまうのかもしれない。


 さて、自室の鍵を回す。今日も疲れた。お腹も空いた。瞼と肩が重い。ふくらはぎが千切れそう。生きる気力という脆弱な骨格は、働いているだけでぽろぽろ欠けて抜け落ちていく。だけど毎日、この部屋に帰ってきて、ご飯を食べて、お風呂に入って、もちもちして、ぐっすり眠れば、オールモスト元通りになる。だから今日は頑張れたし、明日も頑張れるのだ。私は意気揚々と扉を開いた。


 玄関は照明が点いていて明るく、そしていつも通り鏡花が出迎えてくれる……今日の鏡花は、見ているだけで気温が下がるような、いつかの白装束を纏っていた。手には血の滴る立派な鉈を握り、そういうファンデーションで肌がいつもより青白い。喉がきゅっと締まり、ただいまともうぎゃーとも言えなかった。


「よすがのー、血が飲みたい!」


 鏡花は天衣無縫にそう言い放ち、鉈を前に突き出す。それに合わせて私は操られるように後ろに倒れこむ。尻を強く打ち付け、呼吸が変拍子を刻んでいる。扉が私の脚に引っ掛かり、そこで止まった。


 私の体は今までで一番目まぐるしく変化する。寒気と共に鳥肌が去来したり、でも打ち付けた部位は熱を帯びたり、視界が霞んでいく中で、鮮血の紅だけが強調されたり。隣近所の住人さんが、避けるように通り掛かった気がするけど、身がすくんでそれどころでは無かった。


「うわあーっ、嘘嘘……嘘?だから!確かに確かにぃっ、縁佳の血ならチョコレートに混ざってても構わないっていうか、トマトジュースの代わりに出されても平気っていうか、あっでもそんなに血を抜かれたら縁佳が死んじゃう!」


 声帯が硬直し、口唇が制御不能な痙攣を起こしている私とは対照的に、鏡花はよく舌が回る。そして鉈をその場で投げ捨て、裸足のまま玄関に軽いステップで降り立ち、私に手を差し伸べる。そんな鏡花は、白装束のおかげで天使と見間違えたくもなるが、私が戦慄しているのもそんな天使のせいである。


「ごめんね。驚かせようと思って、でもでも腰を抜かすとは思わなくて……」

「私だってそんなに柔じゃないし平気だよー。……めちゃくちゃびっくりしたけど」

「びっくり、したんだ」

「まあさせられましたし」

「ビビりすぎだし」


 そんなこと言われましても、こっちは殺されると、緊張がほとばしったのである。まあ、もっと鏡花を大切にしようと思った。これ以上に愛を嘘っぽくなく伝える方法を知らないけど、適当に決意する。


 手をぎゅっと握られたまま、鏡花が先導して居間に移動する。今日も食卓にはすでに料理が並んでいた。よくえぶりでい一汁n菜も用意できるなぁと感服するばかりであるが、本人の食欲が強力な動機になっているのだろう。


 しかし、体裁を整えるばかりで、笑い飛ばすことを忘れていたため、鏡花がしんみりとし始める。うむむ、とりあえず荷物をその辺に置いて、食卓ではなくソファに腰掛け、隣を二回叩いて鏡花を呼ぶ。


 目に余る速さで擦り寄ってきたかと思えば、鏡花はそそくさと太ももの上に頭を乗せた。向こうが差し出してきたので、私も腕を撫でたり、髪に指を絡ませたりする。いつもより体温が低く感じる。主に服装と肌の色のせいだろうけど。でももう怖くはない、ただの甘えん坊な鏡花だから。鏡花は口元を綻ばせて、至福の時に浸っていた。私も同じ顔になりそうだった。


「なんも変わってないね、縁佳は」


 しばらくすると、私のお腹のほうを向いていた鏡花が、充電が終わったのか仰向けになって、さっきの出来事をそんな風に蒸し返した。


「そう?自分では、別人のように、遺伝情報が書き換わるぐらい変わったと思ってるけど」


 でなければ、鏡花と共に歩んでいこうと決心することは無かっただろうし。


「それは想定外を想定内にしただけだよ。んでも、久々に縁佳の弱点を突けた気がして、うぬぬぬ、かわいかった」

「そうねぇ。それなら鏡花もあんまり変わってないんじゃない」

「うん。縁佳のことは、今も昔もこれからもずっと……大好きだから」


 あ、ちょっと照れた。このように、心の中で人の揚げ足を取ることで、自分の内面に意識が向かないようにしておく。


「それもそうだけど、ねぇ。似合ってるなぁーって」

「お前はもう死んでいるとでも言いたいの」

「そうじゃなくて。あの文化祭の時と変わらず、穢れのない少女の霊っていう役がはまってるなーと」

「褒められてるのか怪しい……」

「褒めてるよ!かわいいよーっ!」


 私が顔を近付けて、頬を手でさすってみても、鏡花は目を逸らしていじける。


「むぅ……子供っぽいかぁ。もうとっくのとうに成人したんですけどー」


 鏡花は口を尖らせて不満そうにしている。しかしかわいいは止まらない。私はにやにやが引っ込まない。


 時々、何一つ変化しないでほしいと願うこともある。だけど、どうせ自分の骨子も変革していくのだから、移ろってしまって良いこともある。今の私は、出会ったばかりの鏡花のままだったら、愛想を尽かしてしまうことだろう。


「まっいいやー。縁佳も吸収できたし、愛が冷めないうちにご飯食べよー」

「それはなかなか時間かかるよ」


 鏡花が立ち上がって食卓につく。私も鏡花の向かいに座った。そして得も言われぬ引っ掛かりを覚える。定番メニューが並んでいるだけなのに、何だか赤い。さっき血を見たから、色覚がバグってるのか?瞬きしてキャリブレーションを試みるも、変化がない。


「あぁ、鉈に食紅ぶっかけたんだけど、ちょびっと余ったから夕食に使ったー」


 鏡花は指でちょびっとを示す。そして味は変わらないと言って、平然と口に運んでいく。


 鏡花は着実に、私に譲歩させることに躊躇いを感じなくなっている。それでいい。恋人とはそういうものだろう。


「鏡花といると、退屈しなくていいね。毎日が刺激的」

「そっかー。じゃあ縁佳の職場まで付いてくね!」

「いや、それは話が違う」

「なんでよ。子供ってことで、許してもらえない?」

「鏡花、最近化粧うまくなったね」

「おー、この青白不健康メイクを見てそう言いますか」


 本当のことだぞ、と馬鹿正直に言いたくもなったけど、ここは赤飯が喉に詰まりまして。笑い合いながら赤い夕食を食べ進める。視覚の情報がなければ、普段通りの夕食だった。

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