あなた、見えてるんですよね? ホラー短編集

紙緋 紅紀

ずっとおっさんがいる

カーテンが開き、壇上の幕が上がり、僕の物語は、始まる。

いや、実際には、頭部に被らされていた布袋を脱がされただけだ。

解放されたとは、とても言えない。両手首を拘束する手錠がカチャリカチャリととてもうるさく、冷たく感じた。

自由という言葉がやけに遠い存在になったように思える。

夜のしんとした空気が鼻腔から入り込み、肺を満たし、ああ、外の世界だ。と実感する。

微妙に自分が震えているのは、灰色のスウェット姿だからだと信じたい。

周りには、幾人もの制服警察官が険しい顔で立ち並んでいる。

僕の姿を野次馬群衆に見せない為であろうか。

それにしては、白と黒を基調にした日本の由緒正しきパトカーを幾台も止め、赤いパトランプの光であまりにも、住宅街に不穏を撒き散らし過ぎではないか。

この一帯に住む皆々様方の不安をわざと大いにあおってるとしか思えない。一言で言って、杜撰ずさんだ。警備体制としては、それが正解なのだろうが。

いったい、何を守っているというのだろう。

守られているのは、一般人か。僕か。それとも、社会か。そのいずれかか、そのすべてか、あるいは、どれも当てはまらないのかもしれない。

僕の手錠が外され、僕は、事件現場へと通される。

東京都心では珍しい家賃7万円以下であろうアパートともマンションとも言いきれない微妙な外観のすすき色の建物の一室。言わずもがな、賃貸物件。

六畳の畳部屋たたみべやにキッチンフロアが付き、その狭い領土を無理矢理、奪い合うように備え付けられたトイレとシャワールームがある決して、豊かとは、言えない間取り。

エアコンは、完全に素人の手によって、後づけされた窓嵌め込み型の去年の型落ち商品。価格は、今、買えば、4万円台ぐらいだろうか。大型家電量販店では、売ってないから、商店街の中にでもある小さな電気屋で安く手に入れたのは、間違いない。

その生活臭には、懐かしさを感じる。僕もこうなる前は、似たような生活をしていた。

「よう」と僕がその部屋に入るなり、声を掛けてきたのは、白髪混じりの一昔前の大工を思わせる角刈りの髪型の刑事、五ケいがぐりさん。

五ケ栗さんの階級や部署は知らないが、なんとなく所轄の部長刑事やベテラン刑事を思わせる風体をしている。ほうれい線が深く、どう見積もっても、年齢は、50歳代以上。冬は、いつも牛乳とアンパンが似合いそうなラクダ色のトレンチコートを着ていて、夏場もどう見ても同じスーツを毎回、着続けているようで、体臭がひどい。

仕事漬けでも平気なかわりに、3日風呂に入らなくても平気なようで、足も臭い。自分が平気でも周りが同じように平気ではないということに気づかない鈍感さも兼ね備えている。

「今回も頼むぜ」

と五ケ栗さんは、アゴでしゃくって、僕を促す。

促された僕の前には、いつものように死体が転がっている。

いや、実際に転がっているわけではなく、布団の上でもがき苦しむような表情のまま、寝ている体勢で固まり、沈黙していた。

もの言わぬ若い男女二人の死体だ。

二人とも質素な暮らし向きをしているようには、見えない毎日、洗濯をちゃんとしているだろう清潔なパジャマ姿だった。

男の方は、名を川崎かわさき健治けんじと云い、年齢は、25歳。中・高とサッカー部に所属し、筋肉質でありながら、締まった痩せ型な高身長で、モデルでも通用しそうなルックスをしている。

プロサッカークラブのユースセレクションにも合格したこともあり、将来を有望視されていたが、ヤンキーでもあり、傷害事件を起こし、そっち方面の明るい未来は、閉ざされ、高校も退学。

が、当人は、その事をたいして気にしておらず、夜間学校に入り直し、卒業し、普通に大学に入学。

大学入学後は、自慢のルックスを武器にサークル活動と女遊びを充分に楽しみ、三回生の頃には、一部上場企業の営業職の内定を貰い、去年までは、居酒屋チェーン店でバイトリーダーを務めていた。

家賃の安い壁の薄い物件に彼女と共に同棲していたのは、結婚式の資金と将来のマイホーム購入の為の貯金をする為であり、決して貧乏ではなかった。特別、金持ちと言える程、裕福でもなかったが、美人の彼女へのプロポーズも成功し、至って、順風満帆であった。

彼と同じように死んでいる彼女の川上かわかみ絵里えり(二十二歳)にしても、それは、同じだった。

彼氏である健治のサークルが開いたミスコンで優勝した絵里は、誰もが認める美女であり、貧乏な家庭で育ったが、勉学に励み、奨学金で大学に通う性格良好の才女でもあった。健治には、内緒でキャバクラで働いている時期もあったが、発覚後は、激しい言い争いやケンカもすることもなく、冷静に話し合い、二人の将来の為にキャバクラを辞め、絵里は、IT企業のインターンを勤め上げ、今年の春から正式採用が決まったばかりだった。

幸せ絶頂の結婚生活が待っていたはずの二人にいったい、何が起きたのか、事前に渡された捜査資料から素人の僕がわかるのは、二人共、首を締められて、亡くなっているということぐらいだ。

見る限り、もの凄い力で首を締められたようで、手形がくっきりと二人の首に残っている。鑑識の現場所見によると二人共、窒息するより先に首の骨が折れ、絶命したらしい。

とても、人間業にんげんわざとは、思えない。

今のところ、二人を殺した犯人の指紋は、二人の遺体を含めたこの部屋のどこからも、検出されていない。足跡も靴跡もなく、死んだ二人以外の汗の成分も毛髪一本さえ、見つかっていない。

犯人は、頭や手足を含めた全身をビニール袋で覆っていたとでもいうのか。

そして、厄介な事にこの死んだ二人の住んでいた一室の玄関の鍵は、遺体の第一発見者の管理人と川上絵里の母親が訪れた時、施錠され、ちゃんと閉まっていた。

他の侵入経路として考えられる一つしかない外向きの窓は、嵌め込み型のエアコンのせいで、年中、鍵が掛かっていない状態だったが、格安物件である為、ベランダもなく、なんの取っ掛かりもないのに、二人の住んでいる3階の窓まで、よじ登るのは、不可能だった。隣の住人の部屋の窓から足をかけ、手を伸ばしてもギリギリ届かない。屋上から侵入しようにも、そもそもその建物に屋上はなく、瓦屋根だった。屋根の縁の方が窓より外に出ていて、そこから降りて、窓から部屋に侵入しようとするのは、サーカス団員や雑技団でない限り、自殺行為だった。

あとは、侵入方法としては、梯子を使って、窓から侵入するという方法あるが、3階に届く程の長い梯子を使って、窓から侵入するのは、あまりにも人目につくリスクが高く、現実的ではない。指紋を残さない犯人が果たして、そんなことをするだろうか。

それより、もっと簡単な侵入方法がある。

合鍵を使えばいい。

どのような方法で合鍵を犯人が作ったかは、わからないが、合鍵さえ事前に作ってしまえば、いくらでも犯人は、二人の住まいに侵入できたはずで、それで状況的な密室は、簡単に崩れる。鍵穴にピッキングの跡もないし、現場の状況から見て、それしか侵入方法として、可能性がないように思えた。

犯人は、二人が寝静まった後、合鍵を使って、部屋に侵入。そして、二人の首に手をかけ、くびり殺した。

そこまでの予想を立てるのは、警察にとって、さほど難しいことではなかった。

が、自分に繋がる痕跡を何も残していない今回の犯人を捕まえるには、情報があまりにも足りな過ぎた。

今回の犯人と思われるような怪しい人物の目撃証言も警察の捜査網には、一切、上がってきていない。

このままでは、この事件は、コールドケース入り。未解決事件になってしまう。

ということで、今回も僕の出番が廻ってきたというわけだ。

僕は、囚人番号610番。

本名は、公開しない。

ある重罪を犯し、投獄されている。

どんな犯罪をしたのか、露悪的に告白するつもりは、僕にはない。

それは、僕の性癖というか生まれながらの因果による犯罪なので、他人には、理解できないし、理解されたくもない。何より犯罪者の言い訳など誰も聞きたくはないだろう。

僕は、判決で服役が決まった時、恩赦を求めたが、認められなかった。

ならば、と僕は、自らの秘密にしていた才能を披露し、それを使用して国に貢献するかわりに、と交渉したが、日本の法律では、詐欺などの知能犯罪以外で司法取引に応じた前列がないので、と却下された。

しかし、それは、おおやけには、ということである。

さすがに僕の才能、天からのギフトとでも言うべき能力の使用で、完全な自由を手にすることは、できなかったが、刑務所での快適な生活が約束された。毎日、一切の労働がなく、午後のティータイムを楽しむ程度の快適さだが、僕は、それで了承した。

犯罪捜査で僕の能力を使い続けて、国に貢献し続ければ、いずれ、特例での恩赦を与えることも考えるとまで言われてしまえば、あとは、それを信じて協力し続けるしかない。

信じずに協力しない選択をしても、僕になんの得も発生しないのだから、当然だろう。信じる者は救われるとは、よく言ったものだ。

だから、僕は、囚人番号610番になってから、馬車馬のように公権力の為に働き続けている。

僕が犯罪捜査に協力する為に使用している能力は、ありきたりな表現で簡単に分類するならば、サイコメトリーだ。

しかし、実際には、僕の保持している能力は、サイコメトリーとは、似て非なるもので、まったく違う。

サイコメトリーは、触れた人物や物の記憶を掘り出し、それを映像的に知覚する能力だが、僕は、触れた人物や物の記憶を、ヴィジョン化して、見ることができない。

僕が触れて見ることができるのは、その触れた人物の記憶ではなく、過去だけだ。

僕が触れた人物が何を記憶し、何を覚えているのか、映像として僕は見れないが、その人が過ごした過去そのものは、その場に一緒にいて、体験したように見ることができる。

つまり、僕がサイコメトリーのような能力を行使し、見れるのは、人や物の記憶ではなく、実際に起きた過去そのものなのだ。

僕が触れた人が記憶していようが、記憶していなかろうが、その人の過ごした過去を正確に覗き見る事ができるのである。

言うなれば、僕の能力は、サイコメトリーではなく、〝過去視〟なのだ。

だが、毎度毎度、正確に説明するのは、大変に面倒なので、公には、〝サイコメトリー〟ということにしている。

そして、僕が触れて過去視できるのは、人の死体に限定される。

物や人間以外の死体や動物、生きている人間は、触れても過去が見えない。

加えて、触れて見れる過去は、最大で一年前までに限定される。

しかも、その一年前までの過去の中で見れるのは、その死んだ人の死に関する事柄だけである。

つまり、僕は、触れた死んだ人の死に関することだけ、総集編やダイジェストのようにまとめて見れるのである。

こんなに犯罪捜査に適した能力は、他にないだろうと我ながら思う。

だから、いかに犯人不明の難事件であろうと、僕一人いれば、いとも簡単に解決してしまうのである。

今日もこの若い男女の死体に触れて、仕事は、さくっと終了。となるはずだった。

が、その前に僕には、どうしても気になることが、一つだけあった。

〝さっきから、ずっといるこのおっさんは、誰?〟

そうなのだ。鑑識の人や五ケ栗さんが、普通にスルーしているから、僕も当然のことのように、一度は、受け入れたが、どう考えてもおかしいのだ。

死んでいる男の布団と死んでいる女の布団の間に、さっきから、ずっとどう見ても警察関係者じゃないおっさんがちょこんと座っているのである。

髪は、ゴキブリのようにテラテラと光った油っぽい乱れた長髪。鼻の下、口元、もみあげや耳からアゴまで繋がった伸びっぱなしの髭、髭、髭。薄汚れて、黒ずんで赤っぽくもある肌。そして、何処で買ったんだかわからない茶色の毛布のような材質の服にズボン。裸足。

どう考えても、ホームレス。いや、今どき、こんなホームレス然としているホームレスもめったに見かけない。こんな言い方は、ないだろうが、不自然な程、レトロでクラシックなホームレスだ。ある種、作り物めいている。

目は、特に独特でくりくりとして、白目が見えない程、黒目が大きく、テラテラと不気味に光っていて、人間っぽくない動物のような印象を与える。

そのおっさんとまともに目がまっすぐと合い、僕は、瞬間、見てはいけないものを見てしまったおぞましさを感じた。

「あの……」

〝この人、誰ですか?〟

と五ケ栗さんに聞きそうになって、おっさんを指さそうとしたその指を僕は、すっと下げた。

身体中の防衛本能が叫んでいる。

〝このおっさんは、人間じゃない〟と――。

だって、こんなに身体中が汚れまくっている年月を感じる風体なのに、匂いが一切しない。

五ケ栗さんから当然のようにする匂いが、生きている人間の匂いが、この目の前にいるおっさんからは、何もつんと臭ってこない事の不自然さと異常さに僕は、気づいてしまった。

嫌な感じがする。また、僕は、何か新たな能力に目覚めてしまったのかもしれない。

実は、僕には、過去視以外にも目覚めている能力が他にもある。探知や察知、予知。とにかく、僕は、人が知らなくてもいいことを知る能力に長けている。

だから、そういった能力がまた何か開花して、人間以外の得体の知れない者が見えてしまう、知覚してしまう能力が発現してしまったのではないだろうか。

だって、僕以外の人間全員、この場にいる鑑識の人も五ケ栗さんもみんな、このおっさんがまるでいないかのように、スルーしている。

いや、スルーしてるんじゃない。みんなには、おそらく、実際、僕と同じようには、見えていない。

みんなの中では、

この僕にだけ見えるおっさんと死んだ若い二人の男女。何かしらの関係があるのかもしれない。

僕は、身体をぞわりぞわりと這い回る悪寒とねばっこい油汗に負けじと二人の若い男女の死体に手を伸ばした。

「では、始めます」

過去を覗く。



すすき色に染まっているハイツの前に、ベッドを乗せたら、それだけで荷台のスペースが埋まってしまうミニトラックが、キャパオーバーなたくさんの家具を縦に積んで、ゴムチューブバンドで無理矢理、固定した状態で到着する。

運転していたのは、川崎健治。助手席には、川上絵里が座っていた。

年季が入っているオフホワイトのミニトラックは、グッドルッキングガイの健治のマイカーには、不似合いだった。

おそらく、大学の学友かバイト先の先輩に借りてきたものと思われる。もしくは、わざわざ、この日の為に中古車屋で買って来たか。しかし、そうは見えない程のボロ車だ。

健治と絵里の二人は、まず、大きい荷物、上に乗ってる家具などを降ろして、運んでから、ダンボールに入った小物を二人の新居のボロハイツの一室に入れていく。

そのまま、最後まで二人だけで引っ越し作業をやり遂げた時には、窓から覗ける街道に植えられた立派な桜が暗くて、すっかり見えなくなっていた。

絵里と健治の二人は、向かい合って座り、ダンボール箱を机にして、用意したものの、もうすでにぬるくなっているスポーツドリンクを分け合って、飲んだ。

その二人の間には、おっさんがちょこんと座っていた。

虚ろな深淵の底のような目で、何を考えているかわからない無表情で、ダンボール箱の上のスポーツドリンクを正面に、ちょこんと座敷童子ざしきわらしのように正座で座っていた。両の手は、お行儀良く膝の上。そういう置き物のような存在感で、そこにいるのは、あまりにも不自然だった。

二人の死体の間に座っていたあのおっさんと見る限り、同一人物である。

おっさんは、二人が初めてボロハイツの一室に入って来る前から、そこにいた。

二人が、引っ越し作業をしている間中、ずっとそこにいた。

しかし、二人には、おっさんが見えていないようだ。それどころか、おっさんのいる場所をすり抜けて、次々とダンボール箱を運び、引っ越し作業をしていた。

やはり、そうだ。おっさんは、そこに存在しているが、存在していない。

幽霊のようなものなのか、と僕は、過去視しながら、考えてみる。

しかし、何故か、しっくり来ない。納得できるようで、納得できない。

幽霊の存在を信じるか、という話ではない。何か、それだけでは、片付けられない異様な不気味さが、おっさんには、漂っていた。

次に過去視のダイジェスト映像が切り替わった時、場所は、ボロハイツの一室から川辺近くの堤防に変わっていて、健治と絵里の服装は、浴衣のような薄っぺらい和服へと変わっていた。

二人は、夜空を見上げ、瞬く星の銀河ではなく、打ち上げられた人工的な火の大輪の花に目を輝かせいた。

「たぁ~まっや〜!」

と健治がベタに叫ぶ。絵里は、その隣で

「もう、恥ずかしーいっ」と言って、

微笑んでいる。

おっさんは、その二人の後ろに立ち、じっと二人の様子を見ていた。

二人は、この時もおっさんの存在には、気づいていない。周りの花火大会を楽しむ大人達も子供達も誰一人として、おっさんを不気味がる者は、いない。誰もおっさんを見ては、いなかった。

この時もおっさんは、やはり、存在していて、存在していないようだった。

再び、過去視のダイジェスト映像が切り替わり、場所は、健治と絵里の住むボロハイツの部屋へと戻る。

健治と絵里は、長袖長ズボン姿になり、健治は、テレビ画面の方を向き、絵里の方を一切、見ずにコントローラーを握り、

「おっしゃ!バルサ相手に5点目や!どんなもんじゃい!」

とイエローカードが出そうな程のパフォーマンスを六畳間で繰り広げていた。

それを見ながら、絵里は、赤色の高いヒールを履き、「バイト行ってくるね」と言って、「あいよ〜」とこちらを一切、見ずに返事をし、テレビ画面上のサッカーゲームに熱中し続ける健治を残して、鍵を掛けずに部屋を出て行く。

おっさんは、その間もその後も健治の隣にちょこんと座り続け、テレビ画面上のサッカーゲームを見ていた。

「うっし!5人抜き!俺って、やっぱ天才やろ!」

健治は、そんなおっさんには、無反応。

絵里もまるで気づいてないようだった。

おっさんは、ずっとそこにいるのに、二人の世界の中におっさんは、いなかった。

おっさんがいるのは、僕の観ている世界だけだと思うと、背中をぞぞっと蛇が這い上がるような感覚が走った。

次に過去視のダイジェスト映像が切り替わった時、場所は、ボロハイツの部屋のままだった。

健治と絵里の二人は、寒そうにしながら、節電してるのか、暖房を点けずに部屋の中でダウンジャケットを着て、かなり厚着していた。

「冬は、やっぱ鍋にかぎるな!」

「温まるよね〜」

と二人は、ちゃぶ台の上にガスコンロを置き、つみれ団子と白菜だらけの鍋を箸でつついていた。

おっさんは、やっぱり、その時も二人の間にいて、ちょこんと正座して、両の手は膝の上。鍋を覗いているようにも見えたが、何も見ていないようにも見える。

おっさんは、いつも一点を見ているようでいて、見ていないような虚ろな深淵の底のような目をしている。

もしかして、いつも何も見ていないで、そこにいるだけなのか?

再び、過去視のダイジェスト映像が切り替わった時、健治と絵里は、かなりオシャレをしていた。タキシードとドレスというわけではなかったが、高級ホテルの中のレストランにいても、おかしくない身綺麗な高級感のある服装をしていた。

実際、窓から眼下に広がる光の運河のような夜景を見れば、そこは、高級ホテルの上層階にあるレストランに違いなかったし、健治が絵里に差し出したのは、婚約指輪に違いなかった。

「これから、どんな辛いことがあっても、悲しいことがあっても、俺は、君がいれば、乗り越えられる。君がいれば、俺は、無敵や。だから、これからもずっと俺と一緒にいてほしい。頼む!結婚してくれ!」

まさに、健治が絵里にプロポーズした場面であった。

「もう超自己中。辛いこととか悲しいこととか縁起、悪いし」

絵里は、指輪を受け取って、左手の薬指にはめた。

「キレイ」

二人は、その時もおっさんが二人の間に立っていることに気づかない。

このまま、おっさんがいることに二人が気づかないまま、終わるのなら、二人の死におっさんは、結局、何も関係ないことになるのではないか。

そうなれば、おっさんは、いよいよ僕に見えてるだけのただの幻だ。

しかし、また過去視の場面が切り替わって、時が流れると、健治と絵里の前におっさんは、現実のものとなって現れた。

健治と絵里の服装が普段着に戻っている。おそらく、プロポーズを行った日とは、別日と思われる夜。二人は、仲良く手を繋いで、ボロハイツに帰っている途中らしかったが、電柱を背にして、ゴミ袋に座っている酒くさいホームレスに話しかけられる。

「おい、あんた、なんで俺を殺したんだよう」

おっさんだ。もう一年近く健治と絵里が共に過ごしてきたあのおっさんが、二人を前にして、初めて喋りかけてきた。

しかし、おっさんは、健治と絵里の後ろにも一人、立っている。

健治と絵里の後ろに立つおっさんと電柱を背にして、ゴミ袋に座っているおっさんは、全く同一の姿をしている。

おっさんが二人になった。

しかし、健治と絵里に見えているおっさんは、一人だけ。ゴミ袋に座っている方のおっさんだけだ。

「はぁ?何、言ってんねん!おっさん!散れ!」

喧嘩っ早い健治は、シッシッと手で払うジェスチャーをして、歯を剥き出すような表情で威嚇した。メスを守ろうとするオスのそれそのもの。

絵里は、「ちょっとぉ……、やめなよ」

と健治をなだめて、その場を立ち去ろうとうながす。

しかし、ゴミ袋から立ち上がって、おっさんがもう一人の健治と絵里の後ろに立つおっさんを指差す。

「だって、あんたの後ろに俺が立っとるちゅうことは、あんたが俺を殺したっちゅうことやないかあ」

健治に見えているおっさんは、そのまま前進して、よろけて、健治に寄りかかるような形になる。

健治は、絡まれたと思った。

おっさんの年月を経た悪臭が、健治の沸点をより刺激する。

「触んな!ダボが!」

健治は、おっさんを両腕で弾き飛ばして、ファイティングポーズをとる。

「やんのか!ゴラァ!」

「ちょっと、何やってんのよ!」

絵里は、健治の行動に青ざめる。

「大丈夫だよ。こんなおっさん。俺、中学時代、空手の大会で優勝した奴、倒したことあるんだぜ!」

「そうじゃなくて、今、ゴッて、音が……」

「え?」

おっさんは、健治に弾き飛ばされた拍子に後頭部を電柱にぶつけて倒れ、ぴくりとも動かなくなっていた。

「おい、おっさん……!!」

パニックって、おっさんを揺さぶり、目覚めさせようとする健治の手におっさんの後頭部から出た大量の血が付着する。

「嘘やろ」と健治の顔から一気に血の気が引いていく。「どないしよ」と絵里の方を振り返る。

「やばい……早く救急車、呼ばなくちゃ」

言って、絵里は、スマホを取り出す。

「ちょっと待って!ちょっと待ってくれや!絵里!」

健治は、一気に涙声になる。

「何よ!早く、病院、連れてかなくちゃ、死んじゃうでしょ!」

「ちゃうねん。このおっさん、もう心臓、止まってんねん」

健治の目にみるみる涙が溜まっていく。

「どないしよ」

「もう、何やってんの!信じらんない!警察、呼ぶからね!」

「ちょっと待ってくれや!人殺しなんて、シャレならんて!俺、人生、終わってまうやん!」

「そんなこと言ったって、もう死んじゃったもんは、死んじゃったんだから、しょうがないでしょ!」

「ちょっと待て!ちょっと待てって!今、誰にも俺ら、見られてないよな?」

二人の間に沈黙が宿る。

二人の後ろにずっといる方のおっさんは、その様子をずっと見ている。

「俺ら、辛い時も悲しい時もずっと一緒やって、約束したよな?な?な?」

絵里は、健治の言わんとしていることが、だいたいわかったようで、

「富士山樹海までのルート」

とスマホに向け、言った。

その後の展開は、予想通りで二人は、レンタカーを借り、雨ガッパにゴム手袋、ゴム長靴姿でスコップを持ち、殺したおっさんを樹海の奥に埋めた。

その間、ずっと後ろでもう一人のおっさんが、その様子を見ていたことを知らずに――。

そうして、過去視は、ようやく長い旅を終え、川崎健治、川上絵里の二人が死んだ日に辿り着く。

二人は、おっさんを埋めてから、眠りが浅くなり、すっかり健康的な顔つきではなくなってしまった。

その夜も短い間に眠る起きるを繰り返し、脂汗のぎとぎと感にもう眠るを諦めようとしたらしく、健治は、目をカッと見開いた。彼の視界に入ったのは、いつもの天井ではなく、鼻先まで近づいたおっさんの脂ぎった赤ら顔と深淵の底のような黒目だった。

健治が殺したはずのおっさんが健治のすぐ目の前にいて、健治の首を力強く両手で締め上げていく。

そのおっさんが健治と絵里とこの一年間近く生活を共にしていたことなど健治は、知る由もなく、ただ苦しみ、パニクり、隣の布団で眠っているはずの絵里に助けを求めようとした。しかし、彼が横目で見た彼女は、すでにおっさんに首を締められ、首の骨を折られ、白目を剥き、絶命していた。

健治が絶望すると共に彼の首の骨がグキッと乾いた音を立て、弾けた。

現在に戻る。



僕は、川崎健治と川上絵里の二人の死体の間にちょこんと座っているおっさんとしっかりと目が合っている。

その深淵の底のような黒目と見つめ合っていると、何処までも何処までも吸い込まれてしまいそうだ。

「どうだ?もう、何か見えたか?」

後ろから、五ケ栗さんが僕に訊ねる。

現実の時間では、まだ僕が過去視を始めて、15秒程しか経っていない。

僕は、おっさんと目が合ったまま、

「いえ、今日は、何も見えませんでした」と答えた。

すると、目の前のおっさんは、するすると腕を伸ばし、僕の首に手をかけた。

僕は、急いで「いえ、嘘です。全て見えました」と言い、事情を全て話して、健治と絵里がおっさんを埋めた場所を警察に伝えた。

おっさんの僕の首にかけた手は止まり、無事、おっさんの死体が見つかると、ずっといたおっさんは、ふっと姿を消して、見えなくなった。

「こっちが正解だったか……」

僕は、どっとした疲れから、ようやく解放され、パトカーで刑務所まで送ってもらった。

赤毛の深い絨毯じゅうたんが敷いてあり、椅子もあれば、机もあり、川崎健治と川上絵里が住んでいたボロハイツより立派な風呂とトイレが完備してあり、テレビもある僕専用の独房に戻って、明かりを消し、ベッドに潜って、天井を見上げ、一息ついたところで、他人の吐息を隣に感じる。

この独房は、僕の一人部屋のはずなのに、何故?

嫌な予感がして、暗闇の中で目をこらすと、テラテラとした動物じみた黒目がこちらをすぐ隣で覗いていた。

「なんでだよ」

僕は、目を瞑って、現実から逃げる。

首にそっと手の感触が伝わり、ゆっくりと力が込められる。

ああ、この世界は、息が詰まる。

これで僕の物語は、もう終わりにしてしまおう。

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