バイバイポケット

トビラバタン

 

 ベンチに座って、池の鯉に餌をやる男の子をぼけっと眺めていた。


 池と遊歩道しかない小さな公園だ。公園という括りに入るかも怪しい。でも名前は公園と付いているから、行政はこれを公園と呼ぶらしい。


 この公園ができることは特にない。ランニングには少し歩道は狭いし、池もさほど大きくない。一周五分か、そこらだ。近道に通って行く人がいるくらいで、それも正午になるとぱたりと消えた。


 僕ももう帰ろうと思ったが、ふと気になった。


 池の前に立つのは十歳くらいの男の子だ。金曜日とはいえ平日の正午だ。僕のように学校をサボったのだろうか。


 ズボンのポケットから直接パン屑を出している。他に荷物はない。


 それにしても、この子はおかしい。僕は小一時間この子の後ろに座っていたのに、まだ餌をやり続けている。


 梅雨の重苦しい曇り空の下、じんわりと汗をかきながら考える。


 鳥に取られない場所に餌袋を隠しているのか。いや、僕は男の子の背中しか見ていない。一度も振り返ることなく、ズボンから餌をやっている。木を模した柵の前で延々と。


 単純にポケットがとても大きいのか。ベージュのハーフパンツはポケットに不自然な膨らみはない。潜っていく手も適切な位置で止まっているように見える。食パンが一斤入っているわけでもない。


 ポケットを二回叩いてから餌を出し、群がる鯉に投げる。観察を始めて五分経ってもパン屑はなくならない。どこからも足されてはいない。


 小さなズボンに小さなポケット。まるで童謡だ。叩くたびにビスケットが増えるポケットが欲しいと願う少年の歌。


 大した計画もなく、少年の隣に立つことにした。もう電車に乗って家に帰り、母親に怒られようと思っていたけれど、その予定を白紙にする。


 手に汗をかいている。小さな羽虫を手で払い、ベンチから離れる。こんなことをするのは生まれてはじめてだ。今のご時世、変質者に間違われても仕方ないし、遥か高いマンションから見下ろした住人に通報されてもおかしくない。


 でも今日はかまわない。そう自分に言い聞かせる。


 左側でパン屑を出す少年は、ちらっと僕を見たが、すぐに元の作業に戻る。


 小人の電車切符に不服を唱えそうな、子ども扱いが気に食わない、意味のない自尊心がありそうな鋭い目をした子だった。


 右ポケットを二度叩き、そこに手を入れて握ったパンを池に撒く。撒かれた餌に鯉が群がり、口を開いて池の水と共に飲み込む。それを繰り返す。


 鯉は色とりどりとは言い難い。黒や灰色がほとんどで、白が二匹と淡い黄金色が一匹の、ほぼモノクローム。みんな見事に太っている。


 僕は鞄から弁当箱を取り出す。しゃがんで鞄を横に倒した上で蓋を開け、餌を見繕う。ウィンナーを一本取り出して、右ポケットに入れ、二回ポンポンと叩く。


 やはりウィンナーは一本だった。ポイっとウィンナーを池に投げると、大きな鯉が一飲みで食べた。


 少年の観客を奪う新手のアイドルのように数匹が僕の前に来たが、卵焼きをちぎって投げ終えると、それしか餌が無いと悟り、あっという間にいなくなる。


 弁当箱を仕舞うと、静かに左へ距離を詰める。


 彼の足元にはポケットから出すときにこぼれたパン屑が雪のように積もっている。チキンレースでもやっているのか、ときどき鳩がつまみに来てすぐに逃げていく。


 思い付いた話の切り口が一つしか浮かばない。でも無言で隣にいるよりはマシだと思い、挨拶を省いて言ってみる。


「……学校行かなくていいの?」


「え、それ、あんたが言う?」


 じろっと僕の目をのぞき込み、また視線を池に戻す。


「そうなんだけど……」


 僕は自分の制服を見下ろして口籠る。


 今日、はじめて高校をサボった。三限の休み時間、誰にも言わずに、スマホで適当に見付けたこの公園を目的地として、電車を乗り継いで来た。


 最初は漫画みたいなことをしている高揚感と、誰かに咎められそうな不安があったが、電車に乗っていると、しぼんでいった。


 電子レンジで温めた牛乳におそるおそる口に付けたら大して熱くなく、むしろぬるく物足りない。そんな感じだ。


 街は僕のような凡庸な高校生が平日に電車に乗っていても、歩いていても、みんな日常の一部として受け入れていた。


 体調不良だろうと理由を付けたのか、僕を一瞥した大人たちはスマートフォンの画面に目を落したり、通り過ぎて行った。


 補導されたいわけじゃないけれど、これを日常だと飲み込めないのは僕だけだった。


「……あんたはサボり?」


 と用心深く少年が言うので、軽く頷く。


「向き、不向きがあるのなら、僕には学校は向いてないんだ」


 イジメられているわけではない。友達も少数ながらいる。


「同じ中学の人が誰も行かない学校を選んだんだよ。新しい世界なら、新しい自分になれるんじゃないかと思ったから。最初は上手くいっていると思ったんだ。でも、どうしても大勢で過ごす時間が耐えられないみたい」


 見ず知らずの小学生相手に何を言っているんだと思ったが、そういう相手だから言えるのだろう。


「学校生活十年目なんだけど、もうお腹いっぱいだよ」


「学校生活って腹いっぱいになんの?」


「なるよ」


 もう学校にはたぶん行かない、とはさすがに言えなかった。


 友達がする会話にただ頷き、愛想笑いを自然に見せることに集中しても、「コミュ障だよね」と冗談っぽく言われる。僕の核心を突く言葉が使いやすくなってしまったのは、わりと致命的だと思っている。そんな理由は誰にも言えない。


「鯉みたいに、無限にパン屑を食べられるなら、良かったのにね」


 と少年は言った。なにか事情があると察してくれたような、そんな声音だった。それは十歳くらいの子がするには大人びている。


 そしてポケットからまだパンが出ている。


 サボりの高校生が小学生にこれ以上話しかけても大丈夫だろうか。辺りを見回すが、人気はない。


 そろそろポケットについて聞いても、変質者だと声をあげられないだろうか。そう考えたが、答えは出ない。


 じっとポケットを見ていたからか、少年が言う。


「俺のポケット不思議だろ」


 自慢する雰囲気のない言い方は、やはり大人びていた。


「うん。どうなっているの?」


 食パンを一枚潰して入れたらパンパンになりそうなのに、僕がここにいる時間でその容量ははるかに超えている。


「俺のポケットは二回叩けば中身が倍になるんだ。あの歌みたいに」


 バチャバチャと鯉が餌を求める音、少年が二回ポケットを叩く音。


 靴底で歩道に散ったパン屑を捩じりつぶすように、体の向きを少年に向ける。


「……そんなことあるかな?」


「あるから、ここの鯉は馬鹿でかいんだよ」


「確かに馬鹿でかいけど」


「ハカイビーム出そうだろ?」


「それは……言い過ぎだと思う」


 と正直に言った。

 彼が言っているのはゲームの中のモンスターの技だ。鯉から地道に育て、進化したモンスターが覚えるとても強い攻撃技。そのことを言ったのだろう。しかし池の鯉は鯉のままだ。まだ進化を遂げていない。


 思い切って言ってみる。


「じゃあ、何か増やしてみて」


 彼は右のポケットを二回叩いた後、手に着いたパン粉を太腿で拭い、ぷいっと池に背を向けて遊歩道を横切る。


 僕の発言は疑いから証拠を見せろと言ったのも同じだ。遅ればせながら、そのことに気付く。


 怒らせてしまったかと思ったけれど、彼は垣根にしゃがみ込み何かを探し始めた。やがて右手が何かを素早く掴む。元の場所に戻って来ると、僕の方に摘まんで見せたのは、鮮やかな黄緑色のバッタだった。


「見とけよ」


 と彼はパン屑の入っていない左のポケットを裏返し、マジシャンのように仕掛けが無いことを表明した。僕は頷く。


 彼は裏地を元に戻して、ポケットを大きく開き、右手に摘んだバッタを入れた。ポケットを二回叩く。慎重で優しいやり方だった。


 ポケットの中身をそっと取り出し、僕の足元にしゃがむ。彼が手を開くと、小さなバッタが二匹いた。手から歩道へ降り、ぴょんぴょんと同じ軌跡で生垣に消えて行く。


 僕は生垣の暗闇をしばらく見ていた。


「はあ…………」


 と息の塊を吐く。しばらく息を止めていたことに気付かなかった。


「……なんでも有りなんだ?」


「なんでもアリじゃない。ポケットに入らないとダメ」


 そう少年は言った。


 僕は生命も「有り」に含まれる事実にびっくりしているのだが、当たり前に感じている彼には伝わらないのか。


 二十秒しか温めていない牛乳が馬鹿みたいに熱くなったみたいだ。

 

 とにかく頭の中で話題を探す。


「あのさ、君もサボり?」


 少年が首を傾げてこちらを見た。今それ聞くかよ、と人が僕によくする顔だ。


「違う。今日は行かなくていいんだよ」


「どうして?」


「昨日、十歳になったから」


 僕は彼の言葉が理解できない。


「よくわからないけど、誕生日の次の日は休んでいいの?」


「母さんが迎えに来るはずだった」


「……来なかったの?」


「うん」


 男の子は軽く唇を噛んだ。


 それが意味することに、軽はずみなことが言えなくなる。僕は彼のような悩みを抱えていない。じゃんけんで負けて体育教科委員になったことを不幸に思う僕には異次元の悩みだ。


「でも、別にいいんだ」


 少年は一匹、二匹と遠ざかって行く鯉に向けて、パン屑を投げる。


「その約束は、俺の聞き間違いかもしれないし」


 彼も僕と同じで、見ず知らずの人間だからこそ話せられるのかもしれない。


「どうしてそんな約束をしたか、理由を聞いてもいい?」


 少年のポケットを叩く手が一回で止まる。


「母さんは、俺のポケットでお金を増やしたんだよ。増やしたのは俺だけど」


 ポケットをもう一度叩き、餌を握りしめたあと、両手で丸くこね始めた。


「それを使って、いろんな買い物したり、コンビニの機械で貯金したんだけど、捕まった。番号まで、同じになるから、偽札ができるんだって」


「本物の偽札ってこと?」


 僕の質問を彼は頷いて肯定した。


「俺、怖くて……警察の前でポケット叩かなかったんだ。だからたぶん、それで来ないんだ」


 僕はその話をそのまま信じることにした。返ってきた答案のように、信じるしか無い。


「おばさんち、俺と同い年の従姉妹がいるから、俺は出て行かなくちゃいけないんだよ。それが、今日の一時」


「どこに行くの?」


「名古屋。だから、最後の最後にこいつらに餌やってんの」


 彼はそう言って、パンを丸めたボールを思いきり池に投げた。空中でばらばらになり、ぽちゃんぽちゃんと水面に落ちて波紋をつくる。


 少年はまたポケットを二回叩き、池に餌を撒く。


 僕は降ってわいたような幸運を手にしたことに気付いた。


 彼と交友関係を持てば、じっとりした梅雨空のような心を晴れやかにできるのではないか。


 例えば…………。例えばなんだろう。

 宝石や貴金属を増やしたらどうか。


 僕の持ち物で一番高価なものなら、三万円分の純金のメダルがある。伯父さんが三年間中国に赴任して、渡し損ねた三年分のお年玉の代わりにくれた。換金できない僕にはガラクタだったけれど、彼に頼んで増やしておくのはどうだろうか。


 ……その後、どうなるのだろう。


 たとえどんなに喉が渇いていても、自販機の前に人がいるだけで飲み物を買うことを諦めてしまう。人に何かしら声をかけて飲み物を買うより、ひりつく喉を我慢する。歩行者が広がって歩いていても、自転車のベルさえ鳴らせない。鳴らすくらいなら、気付かれないように降りて、自転車を押して帰る。おそらくそれは変わらない。


「あんたって陰キャだな」


 少年は僕の額にペタンと札を貼るように言った。お返しに大人気なく言ってしまう。


「じゃあ、君は不幸な少年だね」


「それは違う」


 と少年は時計をチラッと見上げた。


「今はそう感じるかもしれないけど、それは違う。先生が言ったんだ。俺のことを不幸だって言う奴がいたら、絶対に違うって言い返せって。殴ってもいい、先生が責任をとる、必ずとる、名古屋で殴っても先生が駆け付ける、って」


「……珍しい先生だね」


「違う。いい先生」


 僕はそんな先生に出会ったことがない。


「その先生にはポケットのこと言ってないの?」


「言うわけないじゃん」


 少年がまた時計を見る。十二時四十分を過ぎたところだ。


「帰らなくていいの?」


 と僕は気遣ったが、少年は無視をした。


「特別に好きなものを増やしてやるよ」


 それは秘密の口封じかなのか、はたまた時間稼ぎか。よくわからないが、僕は少し考える。


「じゃあ、直接入れていいかな?」


「いいよ」


 他の人がいないことを確認して、少年に近寄る。バッタを入れていた左のポケットを開き、彼の太腿に触れないようにそっと手を差し込む。その間も彼は鯉にパン屑を投げ続けていた。


「……ほんとに入れた?」


「入れたよ」


「なに入れた?」


「僕なりのコペルニクス的転回を」


「え、キモ。マジでなに入れたの?」


「……君と僕が少しだけ楽しくなる時間」


 言って恥ずかしくなるが、彼とはもう会わない。旅の恥はかき捨て、とはよく言ったものだ。この場合は恥が旅に出るけれど。これから引っ越す彼が名古屋まで持って行ってくれる。


「ふうん。よくわかんないけど、何回叩けばいいの?」


「じゃあ、百回」


「あんたが数えてよ」


 彼は僕のために、ポケットを叩き出す。

 二十八回目で僕は問う。


「なんで僕に言ったの?」


「あんたは、どうでもいいから」


「誰かに言うかもしれないよ」


「名前は教えないし、一時におじさんが迎えに来るから、ここにはもう戻れない」


 四十一回目でまた問う。


「空っぽのポケットを叩いたらどうなるの?」


「糸くずが増える」


「今は増えている?」


「わかんない」


 六十九回目で、少年は小さな頬に涙を垂らした。彼はそれを拭わない。左手でポケットを叩き、器用に右手でパン屑をやり続けた。


「どうして涙は透明なのに、色が濃くなるんだろ」


 と少年は涙のこぼれた水色のTシャツを見て言った。


 君は愛されている、とか言うべきだろうか。


 名古屋まで駆け付ける赤の他人がいるように、君の悲しみを掬う誰かにまた逢える。そんな言葉を、僕が年上の人間だという理由で言わなくてはならないだろうか。


 まあ、放棄しよう。


 そういう他人が生み出した数多の希望のメッセージを僕が言っても、きっと何の意味もない。


 そのかわり、僕は彼に自分の世界をぶつけてみる。普段、何重にも包んで隠している感情を披露する。


「涙は嫌なことが詰まっているから、本当は黒いんだ」


「感動した時の涙も?」


「うん。嫌なことが洗い流されるから、特に黒いよ」


 純粋をひたひたにした彼の瞳が僕を見たもうあと三回で百回だ。彼とはお別れだ。二度会うことはないだろう。


 あのさ、と僕は少年を見下ろす。


「僕は隠キャじゃない」


「『今はそう感じるかもしれないけど、それは違う』」


「それは……」


 愛想笑いでは使わない頬の筋肉が使われる。顎を親指でなぞる。「なにかいいことあったでしょ」と母親に言われてやめた癖だ。


「そこを僕に言わせて欲しかったんだけどな」


「少しは楽しくなった?」


「時々ここに来て、鯉の餌をやろうと思えるくらいは、楽しくなったよ」


「ふうん。なら、もういっか」


 と言って、少年はポケットを叩くのをやめた。

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