記憶喪失の俺、一から始める恩返し生活!

夢笛

第1話 天使との出会い


 目が覚めると、美少女が俺を覗き込んでいた。

 ……誰だ?

 俺はぼやける意識でそう思った。


「あっ、よかった。目が覚めたんだね。体は大丈夫?」 


 俺と目が合うと、少女が尋ねてきた。

 少女は両手を膝について屈み、座っている俺に目線の高さを合わせ、ほっとしたように微笑んでいる。

 ……知らない顔だな。


 チラリと周囲に視線を向けると、日の光の明るさに目が眩んだ。

 俺は右手をかざしてひさしを作り、再び周囲に視線を向ける。

 すると、ぼんやりしていた視界が次第にはっきりしていった。


 周りには緑しかなかった。

 どうやら、ここは森の中らしい。

 森といってもただの森ではない。

 生えている木の高さと太さは尋常ではなく、生い茂る草花もサイズ感がおかしい。

 かなり深い森の奥だ。

 俺は大木の根っこに寄りかかりながら、地べたに座っていた。

 どうして、俺はこんなところにいるんだろう……。

 

「えっと……大丈夫? できる限り体は治したんだけど、まだ辛いよね?」


 俺がきょろきょろしていると、少女が心配そうに尋ねてきた。

 とりあえず、この子に聞いてみるしかないか。

 敵意とかもなさそうだし。


「なあ、俺はどうしてここにいるんだ? あと、君は誰だ?」


「え、どうしてって……。私はたまたまここを通りかかったの。そしたら、あなたが倒れていたんだけど……」


 不思議そうに首を傾げながら、少女が答えた。

 どうやら俺はここで気絶していたらしい。

 そして、この少女とは偶然会っただけで知り合いではないようだ。

 それを聞いた瞬間、俺は眉をひそめた。


(どういうことだ……? 俺は一人だったのか? 一人で、なんでこんな森にいる?)


 状況が理解できず、嫌な焦燥感が胸に広がった。

 すると、少女がおずおずと尋ねてきた。


「あなた、もしかして何も覚えていないの? 自分の名前は言える?」


「自分の、名前……」


 呟いて、俺はハッとした。

 自分の名前がわからない。

 自分が誰なのかがわからない。

 自分の家族も思い出せない。

 自分が記憶喪失だと自覚して、俺は頭を抱えた。


 なんで、どうしてこうなった?

 俺はこれからどうすればいいんだ……?

 自分の服装を見ると、ただのTシャツにダボっとしたズボンを着ている。

 まるで家着のようなラフな格好だ。

 持ち物は何もない。

 こんな状態で森の中を生き残れるはずがない。

 そもそも帰る場所もわからない。

 やばい、やばい、やばい……!


 何もわからないというのが、こんなに怖いと知らなかった。

 うまく説明できないけど、とにかく怖かった。

 心臓が騒ぎ続けていた。


「大丈夫だよ。一人じゃないから、慌てなくても大丈夫」


「え……」


 不意に、少女が柔らかい声を発した。

 俺の両頬に両手を添えて、蹲っていた俺の顔を優しく持ち上げて、視線を合わせてきた。

 その瞬間、これまでぐちゃぐちゃになっていた俺の心が、ぴたりと鎮まった。


 俺は、少女があまりにも美しくて、目を奪われていた。

 いや、少女が美しいのは最初からわかっていた。

 でも、混乱していたせいでちゃんと見ていなかった。


 綺麗な顔立ちだ。

 鎖骨まで伸びた白銀髪。宝石のような真紅の瞳。絹のように白い肌。

 質のいい白い服に身を包んだその姿は、まさに天使のような美しさだった。


 俺は無意識のうちに、頬に添えられた少女の手に自分の手を重ねていた。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 少女の手は温かかった。血が通っていた。

 人肌の温もりが、俺の心をゆっくりと安心させてくれた。

 そして、冷静になって自分の行動にハッとした。


「あっ、勝手に手を握ってごめん……。ちょっと混乱しててさ」


「ううん、大丈夫。もう落ち着いた?」


 俺が謝罪すると、少女は可愛らしく小首を傾げた。

「ああ、おかげさまで」と返事をしながら、俺は立ち上がった。

 すると、体の節々に鈍い痛みが走った。

 特に左腕が痛かった。

 痛みに顔をしかめながら見てみると、左腕には包帯が巻かれていた。


「あっ、勝手に手当てしちゃってごめんね。ひどい怪我だったから、つい……」


 少女が気まずそうに言った。

 なぜ、俺は怪我をしているんだろう。

 そんな疑問が湧いてくるが、記憶がない俺には当然わからない。

 正直、起きたら勝手に体が痛くて、以前の俺に少しイラっとする。

 これからどうすればいいのかもわからないし、色々な不安は拭えない。


 でも、今はそれ以上に、感謝の気持ちで胸がいっぱいだった。

 この少女は、こんな森の奥で倒れていた俺を助けてくれた上に、手当てまでしてくれたのだ。

 混乱する俺に手を添えてくれたのだ。

 この子がいなければ、俺は正気を保っていられなかっただろう。


「……君、名前なんていうの?」


 ふと、俺は尋ねた。


「え? あっ、まだ名乗ってなかったね。私の名前はソラっていうの。よろしくね」


「ソラ……か。じゃあ、ソラ、助けてくれてありがとう」


 俺は真っ直ぐソラを見つめて、感謝を伝えた。

 急なお礼に、彼女はきょとんとした。ややあって、口元を綻ばせた。


「ううん、困ってる時は助け合わないと。どういたしまして」


 こちらを見返してきた、透き通った真紅の瞳。

 その瞳が柔らかく細まった瞬間、俺の心臓が跳ねたのがわかった。


「……ん、どうかした?」


 俺がまじまじとソラを見ていると、彼女は自分のほっぺたを触りながら首を傾げた。

 まずいまずい。

 すっかり見惚れていた。


「いや、本当に幸運だったなと思ってさ。記憶喪失で森で遭難なんてシャレにならないけど、運よく助けてもらえるなんて」


 俺は誤魔化すように、右手で頭を掻いた。


「しかも、その助けてくれた相手が天使みたいな美少女だなんて、なんかの物語みた――」

 

「びしょっ、えぇ!?」


 その時、ソラが急に大声を上げた。

 予想外の声量に、俺は思わず肩を跳ねさせる。


「ももも、もしかして、天使って私のこと……!? そそ、そんな……て、てれりゅ……っ!」


「…………」

 

 びっくりして口が開いてしまった。

 ソラは頬を真っ赤にして、顔の前で両手をぶんぶんと振っていた。

 これまでの慈愛に満ちていた表情が、デレデレと緩み切っていた。

 その、なんだか、あまりにも残念すぎた。 


「……なんだこいつ」


 俺は思わず、命の恩人相手に冷めた視線を送ってしまった。





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