第6話 満たされる健全な夜 ※R-18
最近、調子良さそうじゃん。
大先輩に言われて気がつく。そういえば最近、夜に眠れないということが減った。
「まあ、当たり前だよな……」
思わず口に出た呟きを目敏く聞いた男が身を乗り出す。
首を傾げて言葉の意味を尋ねる姿は無邪気だが、まとわりつくように見上げる瞳はギラギラとしている。
「なんでもないよ」
「そう? ならいいけど、集中してください」
素っ気なく言ったつもりだろうが、感情が全て声に出ている。
役者としては完璧だが、日常生活では大変そうだ。
だが、なかなか察しの悪い俺にはそのくらいがちょうどいいのかもしれない。拗ねたような眉を指でなぞれば、くすぐったそうに眼を細めた川島は、機嫌を直した声で俺を呼ぶ。
「ねえ、れん。シテいいですか?」
「いいけど。お前、朝早いんじゃなかったの」
「早いけど……、無理。我慢できません」
自分からしないと言ったくせに、いつもこうだ。
呆れたふりをするのはもうやめた。
我慢が効かないのはお互い様だし、いくら隠しても反応してしまった身体は隠しようもない。
川島は俺の膝から身を起こすと、放り出していた鞄に手を伸ばした。
彼が職場にも持ち歩いているバッグの中は、いつもごちゃごちゃとしている。
財布、携帯電話、折り畳み傘。
次々と出てくる見慣れた私物を全部広げて、最後に発掘したポーチを拾い上げる。
彼が必要なものを詰め込んでいて、収録現場でもよく見かけるものだ。
何かのゲームのロゴがついた、それでいて上質なもの。
あの中に文房具やマスクなどのケア用品を詰め込んでいるから、彼と一定時間過ごしたことがある者なら誰もが目にしている必需品ポーチだ。
そんな「日常」から、川島はゴムとローションを取り出した。生々しいパッケージが今日も仕事仲間の目に触れる位置にあったのだと思うと、背徳感や罪悪感で背筋がゾクゾクと喜ぶ。
封を切る音。
中身を取り出す音。
彼の興奮と油で濡れた指先が俺に触れて、近づくのを気配だけで感じる。
「シナノ、」
彼の長い指が、俺を探る。
節くれだった指には、血管が何本も浮かんでいる。
彼が動かすのに合わせて、ひと際太い血管が蠢く。まるで蛇のような形になって浮き上がるそれは、俺の気に入っている場所の一つだった。
息遣いが隠さず聞こえる距離だ。
火照った肌も、浮かんだ汗も、産毛まで見えるほど近づいて、互いの鼓動をすり合わせるうちにどこまでが境界線かわからなくなる。
「……ん、ぅあ」
器用な指が俺のいいところに触れて、指にまとわりつかせたローションを押し付ける。
挿れるためだけではない動きに男の頭を殴ると、彼は悪戯を成功させた子供のような顔で笑った。
彼は、笑うと切れ長の瞳が狐のように弧を描く。
薄闇で見るのには妖艶すぎる、色気のある顔だ。
いつもほだされてしまう彼の笑みに、俺は何度目かわからない溜息をつく。
「シナ……、もう、欲しい」
「うん。全部、あげる」
川島の声は、蜂蜜を溶かしたミルクみたいな声だ。
彼の声は味がついていないのに、中を暴けばどこまでも甘くとろける。
興奮したら震えるような繊細さ。
夢中になれば低く響く吐息。
彼の喉にぽっこりと浮かんだ喉仏が上下して、ごちそうを前に舌なめずりするように赤い粘膜が顔を出す。
最後に見上げた瞳がこんなときでも涼しげに俺を見下ろす。
じりじりと燃える青い炎を知るのは、この瞬間は俺だけだ。
そんな優越感にほほ笑むと、あとは濁流のような甘さに翻弄されるだけで、夜は明ける。
そんな夜を繰り返していたら悩むことなんて、知らない間に吐き出されてしまう。
翌日、寝不足の体にカフェインを補給していると、個人用の携帯電話にメッセージが来た。
アプリを開くと、後輩からのメッセージと画像が届いていた。
食事のお誘いだ。
最近買ったという鍋と自撮りをしている姿はお世辞にも決まっていると言い難かったが、自炊への熱意は伝わってくる。
仕事のあとに寄ると返事をすれば、案外簡単な返事で会話は終わる。
彼のそういうところが、俺は気に入っている。
残っている仕事量を確認して、自分の中で目途を決める。そうでもしないといつまでも仕事をしてしまう俺は、いつまでも子供なのだと昔の恋人が言っていた。
子供のままでいられるのなら、それでいい。
老けたおっさんにはなりたくない。
とっさに浮かんだ顔に不誠実だったと謝りながら、昼食のプロテインバーをかみ砕く。
その日、珍しく残業をしなかった俺を、部下は化け物を見るような目で送り出してくれた。
そういえば今日は金曜日だったな、と帰路を歩きながら考える。
普段より混雑している道は騒がしかったが、不思議と喧騒すら心地が良かった。
「
満面の笑みで俺を出迎えた前田は、いつ訪れても広々としたマンションを食事の匂いで充満させていた。
昼間のメッセージのあとにも、何品か作ったらしい。
ずらりと並んだ皿に面喰いつつ、途中で買ったワインを渡す。彼は飛び上がるように喜んだ。
若さのわりに前田は酒豪なのだ。
食べることも、飲むことも好き。
そう言い切る彼は人生を謳歌してそうで時折眩しい。
相伴に預かるようになって久しい。俺は、彼の健康的なところに随分と助けられている。
「今日は一日オフだったんで、はりきっちゃいました。貢木さん、無理して全部食わなくていいですからね」
「ああ……。しかし、こんな量なら川島も呼ぶんだったな」
「俺もそう思ったんスけど、忙しいみたいで。メッセージは送っておいたんで、気づいたら連絡来ると思います」
ハキハキと答える後輩は戸棚からワイングラスを取り出すと、一つを俺に渡した。
早速封を切られたワインは安物だが、ちゃんと葡萄の香りがした。
料理に合わせて選んでもらったものだ。
口をつければ、やっと空腹を思い出す。
広々としたダイニングと、その先に続くリビングと寝室。
風呂も広くて最新の設備が揃っているこの部屋は、元は前田の親戚のものだったという。
出張で家を空ける間、上京してきたばかりの前田が預かっているようだ。彼の普段の風貌からは想像もつかない上質な家具や食器は、どれも親戚の趣味だという。
だが、すっかり自分のもののように扱う手つきが、様になっている。
俺とは違い、ぽっちゃりとした健康的な体躯に、幼い子供のような無邪気な言動。
実際の年齢と職業を知らなければ大学生と見間違うような見かけと、成熟した大人の仕草。
相変わらずアンバランスな男だ。
そのギャップを味わうために俺は、この部屋に足蹴く通っているといっても過言ではない。
近頃は料理に目覚め、こうして手料理をふるまってくれることが増えた。
俺の偏食を心配してのことのようだが、太りにくいのは昔からだ。
特に病気があるわけでもない。
体質は今更詰め込んだところで変えようもないが、純粋な好意は受け止めることに決めている。
言われるがままに、彼の作った料理を口に入れる。
どれもどこか懐かしい味がする。
前田らしい無邪気な料理は、スルスルと胃袋に入る。
俺を眺めながらも俺以上に食う前田の笑みを見ていれば、些細なことはどうでもよくなってしまう。
彼らといれば勝手に満たされていく。
それだけで、人間は簡単に人生に感謝してしまうものなのだと、俺はこの歳になってから気づいた。
料理を半分以上残して、ほろ酔いの体にシャワーを浴びていると前田も入ってきた。
料理をし、それを平らげるときと同じような無邪気さで、前田は俺の身体に触れた。
その指先は不器用そうに見えて、案外繊細だ。
彼がなぞった皮膚が粟立つ。
心地よさに瞼を閉じると、湯があたってバランスを崩した身体は、あっという間に前田の腕の中だ。
「貢木さん」
慈しむような囁きが、高級なホテルさながらの風呂場で反響する。
「すすむ、」
呼び返すと、素直な男はあっという間に体中を火照らした。
彼とこういう関係になったのは、いつからだったか。
共演がきっかけになって、何度か食事に行くうちに、いつの間にか身体を繋げていた。
前田が俺の食生活を心配して自炊をすると言い出し、この部屋に招かれるようになった。
俺は一回りの歳下の男が甲斐甲斐しく世話を焼く姿にすっかりほだされ、それまで奔放に遊んでいた関係を全て切った。
いま俺が寝る相手は、二人の後輩だけである。
もう一人である川島も、この部屋の常連だ。男三人が格闘しても落ちないベッドはここでしか味わえない贅沢である。
「ん、」
前田の指が、俺の乳首に触れる。
どんなに触れられても、俺は才能がないらしい。よく演じる役のように腫れて困ることもないし、疼くこともない。
それでも執拗に触れようとする前田が可愛らしくて、させるがままにしている。
泡で出るボディソープを塗りたくり、痩せた男の身体に触れる前田は、本当に愛らしい。
触り心地なんてちっともよくないだろう。
でも、前田は俺の身体が好きらしい。
あちこちを丹念に触れ、隙あらば自分の身体も押し付ける。俺とは反対に柔らかな前田の身体は、くっついているだけで心地がいい。
「すすむ……、もっと、下も」
強請る言葉を口にすれば、前田は従順に手を動かす。
立ち上がり始めている陰茎に触れた彼の指は、俺の好きなところをすっかり熟知している。
甘いしびれが全身を駆け巡って、脳がくらくらと揺れる。
そういえば、身体は寝不足ぎみだった。
急に上がった血糖値も相まって、視界は本格的に歪み始める。
もう気持ちがいいことしか考えられない。
そんな麻薬のようなしびれに、頭の隅が恐怖する。恐怖してもなお追い求めるのをやめられないのは、目の前の身体が、俺を心地よくしてくれるという確信があるからだ。
「あっ、そこ……、すき」
泡か先走りかわからないもので泡立つそこを、前田が翻弄する。
ぐちゅぐちゅと鳴る音も卑猥で、俺は無意識に腰を振っていた。
抜け始めた腰を、前田の安定感のある足が支える。彼のぷっくりとした腹に押し付けるのをやめられなくて、前田の身体も泡だらけになった。
俺が気をやったとき、前田の身体も大きく震えた。
二人分の精液が排水溝に流れるのを眺める。
こんなに汚しても水を弾くタイルは、今日も水垢ひとつ見当たらなかった。
互いの身体を弄って泡だらけにしているところで、脱衣所に置いてきた携帯電話がけたたましい音を立てた。
前田が先に出て、電話に出る。
俺も簡単に洗い流して風呂場を出ると、電話は何やら揉めている様子だった。
「川島?」
スピーカーに耳をつけて苦笑いをしている前田に尋ねると、彼は困ったように頷いた。
電話を取り上げて、ぎゃんぎゃんと吠える後輩に待てと言い渡す。
「なに、不機嫌なのお前」
『貢木さん……、なんで俺も誘ってくれなかったんですか』
「前田が誘っただろ。いまからでも来ればいい」
『さっき気づいたんですよ。飲み会に来ちゃったじゃないですか』
普段より声がでかいのは、背後の喧騒が理由のようだ。
よく聞けば、雑音だらけの電話口には複数の人の気配がある。
タバコの匂いと、安いビールの誘惑。日が暮れれば雰囲気の出る駅近の高級マンションとはかけ離れた大衆的な空気。
耳が痛くなる。
だが、時折少しだけ恋しくなる。
そんなぬくもりに溢れた明るい空気を、スピーカー越しに味わう。
先に寝巻を身に着けた前田は、俺の肩にバスローブをかけて脱衣所を出て行った。
この部屋に泊まるようになったとき、彼がどこかで買ってきたものだ。
洗濯を繰り返すたびに、最初はごわごわしていたバスローブの着心地はどんどんよくなっていった。
川島がそれを羨ましがったら、次の時には彼の分も用意されていた。前田本人だけが頑なに着ようとしないから、お揃いなのは俺たちだけである。
鏡に映った自分の姿をふと見る。
痩せ干せた中年のおっさんが、広々とした洗面所に立っている。
バスローブは似合っているのかどうかわからないが、奔放に生きてきた証拠があちこちに染みついている気がする。
少なくとも、くたびれたおっさんにはまだ見えない。
そんな自画自賛で出た声は、自分でも甘い響きになったと思う。
「先輩に呼び出されたとか言って適当に抜けて来いよ。前田が作った飯、俺じゃ食いきれないんだ」
『……どうせ残ったらあいつが食うでしょう』
「あれ以上食ったら、上には乗せないって言ってる。あいつ前からヤるの好きだから頑張って我慢してたぜ」
『……俺は後ろからが好きです』
「知ってる。だからほら、はやく来いよ」
床暖房が効いているとはいえ、流石に裸のままでは冷えてきた。
バスローブの袖を通して、片手でなんとか紐を通す。
タオル地のぬくもりに包まれるとほっとする。俺が寝巻らしい寝巻を身に着けるのはこの部屋にいるときだけだ。
昨日の夜は、服を着る間もなく抱き合った。
朝まで裸で眠っても、寝相のいい川島の体温に包まれていれば風邪知らずだ。
調子のいいはずである。
発散するだけ発散して、朝までぐっすり眠る。そんな生活は子供の頃にだって満足にできていたかどうかわからない。
「シナ、お前がほしいな」
『……十分で行きます』
交渉成立した電話を切って、もうほとんど乾いていた髪を乾かす。
ダイニングに戻ると、前田が残っていた料理をタッパーに詰めているところだった。洗い物も済ませたらしい。
案外器用な彼は、部屋を清潔に保つ才能に溢れている。だから彼の親戚も、こんないい部屋を彼に託したのだろう。
これから寝室で行うことを思うと、少しだけ罪悪感が沸く。
前田の親戚は、俺と同じくらいの男だという。
その情報だけは、いまでも聞かなければよかったと思っている。
せめて彼が帰って来る日が来たら、新品のベッド代くらいは俺に出させてもらおうと決めていた。
いつの日か必ず来る未来は、どんな色をしているのだろう。この部屋にいる間に描く夢はいつだって明るくて、なんてことのないようなものに思えてしまう。
「川島さん、来れるみたいでした? 同期に誘われて、どうしても断りにくかったみたいですよ」
「多分すぐに来る。どうせあいつら、いつもの場所で飲んでるんだろ」
「あー、あの串揚げっすかねえ。あそこうまいっすもんねえ」
「俺、行ったことないんだよな」
「貢木さん、油もの苦手でしょう」
すっかり食の好みを後輩に把握されていることに、今更気恥ずかしさもなにもない。
多くの人間が、俺の偏食を知ると呆れた顔をする。
だが、最初から粘り強く付き合ってくれた彼は、料理人の才能も持ち合わせていたのかもしれない。
「今日のあれ、鴨のやつうまかった」
「ああ。『御神鍋』が大活躍でした。蒸すのも簡単なんですよ」
「へえ。あ、そういえばあれってクレープも焼けるんだってな」
「あ、今度作りましょうか。俺、冷凍の生クリームって一回買ってみたかったんで」
嬉々として次の予定を立てる前田は、残り物を全部冷蔵庫に収めると俺をリビングに誘った。
バカでかいソファと、でかいテレビ。
ラジオ派だという前田が最新機器を活用しているところは見たことがない。仕事のチェックも携帯電話の小さい画面で満足だという男は、豪気なのか謙虚なのかわからないところがある。
こちらに伸びる手は性急なのに、触れる指先は優しい。
最終的には俺の方が我慢が効かなくて、子供のように顔を赤くする男を押し倒した。
唇が触れた瞬間に鳴り響いたインターフォンには、流石の俺も溜息をつきたくなった。
「油ものが来たな」
「っすね。出迎えてきます」
ぺたぺたと玄関まで向かう前田を見送って、乱れたバスローブを羽織りなおす。
何度も過ごした広い部屋を、無意識に見まわす。
何度見ても高級感のある部屋だ。
この部屋で過ごしている間は、時間の感覚がおかしくなる。
夜なのか昼なのかも曖昧な常夜灯の灯る高層階。
俺には手が届きそうのない贅沢な調度品。
これを構築したという男の存在。
これらを日常としてあしらう前田の無邪気な世間知らずのところ。
すべてが、俺にとっては苦手なものだった。
だが、案外食ってみればそうでもなかった。偏食の人間はそんなことの繰り返しで生きている。
いまの日々は、夜ごとに朝日を怯えていた頃より幸福だ。
乾いてしまった唇を舐めると、先ほどのワインの味がまだ残っていた。
何かを言い合いながらこちらに戻ってくる後輩二人を出迎える。
伸ばした腕を片方ずつとった手を引き寄せれば、俺は簡単に満たされてしまった。
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