婚約破棄されて自由を手に入れた女伯爵ですが、知識をいかして司書になったら王弟殿下に認められ、専属になりました
畑中希月
第1部 司書と王弟
第1話 有責なのはあなたですが、とりあえず別れてさしあげます
「カルリアナ、君との婚約を破棄する」
元
(……正直、ここまでバカだとは思いませんでしたよ)
今は父――先代アルテンブルク伯爵の葬儀が終わったばかりだというのに。
喪主として会葬者をお見送りし、ようやく一息つけたと思ったらこれだ。許嫁だったオイゲーン・フォン・ヒルシュベルガーは身内同様にカルリアナを助ける立場にあり、帰らずに今まで残っていたのだ。
当然、父は自分亡きあと、オイゲーンがカルリアナと結婚し、伯爵となる娘を支えていくものだと思っていたのだろう。しかし、このオイゲーンという男は、とんでもないろくでなしなのだ。
オイゲーンの要望で人払い済みのがらんとした居間の中で、カルリアナは静かな声を投げかけた。
「理由をお聞きしてもよろしいですか?」
オイゲーンはどこか誇らしげに答える。
「運命の相手と巡り会えたからだ!」
(本格的にアホですね)
侮蔑の視線を投げかけたいのをぐっとこらえて、カルリアナはポーカーフェイスを貫く。
「では、わたしとの婚約を正式に破棄したあとは、その方とご結婚を?」
「そうだ。相変わらず察しだけはいいな。ま、君の長所などその程度だが。彼女はもっと可愛げがあるうえに賢いんだ」
(うわあ……)
許嫁である以上、波風は立てたくないのでずっと口には出さずにいたが、オイゲーンは成人男性であるにもかかわらず失言が多い。いわゆる俺様気質というやつである。
彼がよい夫となるよう誘導しなかった自分にも非はあるのかもしれない。それでも、これはひどすぎる。とても自分から関係を修復したいとは思えなかった。
母を早くに亡くしたカルリアナには兄弟がいない。女伯爵となるカルリアナの将来を慮って、遠縁に当たる子爵家の次男であるオイゲーンとの婚約を決めてくれた父には悪いが、ここは婚約破棄を受け入れよう。
カルリアナは今日初めてにっこり笑った。オイゲーンがただの一度も褒めてくれなかった「小賢しい」笑顔だ。
「どうぞどうぞ。では、本日をもって婚約を解消しましょう。あとでお渡しする書類にあなたの名前を書いていただければ、わたしが処理しておきますので」
オイゲーンの顔がにわかに引きつった。
「や、やけに物分かりがいいうえに、用意もいいな……」
「あらあら……。以前、『君は結婚と同時に離婚届も用意していそうなタイプだよな』とおっしゃったのはどこのどなたでした?」
オイゲーンの目が泳ぐ。カルリアナは彼には構わず、淡々と続けた。
「わたしはすでに事実上のアルテンブルク伯ですが、正式に爵位を継ぐためには、王都におわす国王陛下に謁見する必要があります。これを機に領地を出て、少なくとも数年間は王都に滞在しようと思っています」
オイゲーンは話の展開についていけない様子だ。半ば呆然としている彼を尻目に、カルリアナはソファから立ち上がる。
「七歳のとき、あなたと婚約してから十二年ですか。長いあいだ、お互いお疲れさまでした」
礼ではなく、労いの言葉をかけると、カルリアナは居間をあとにした。
実をいうと、カルリアナは以前からオイゲーンの浮気に気づいていた。
もちろん、証拠も集めており、相手が男爵令嬢であることも知っている。慰謝料は払わなくてもいい、とオイゲーンは思っているようだが、とんでもない。これは貴族の家同士が決めた契約なのだ。
幸いにもオイゲーンの両親は常識的な人たちだ。カルリアナは落とし前として、オイゲーンだけでなく、浮気相手からもしっかり慰謝料をもらう予定である。
元々カルリアナは、病に冒され、もう長くないと医師から告知されていた父が亡くなったあとに、オイゲーンの有責でこちらから婚約破棄をするつもりだったのだ。
(それが、先を越されてしまうなんて)
よく、こちらも別れるつもりでいたのに相手から別れ話を持ち出されると、とてつもなく悔しいというが、本当にそのとおりだ。
まあ、特にもめることなく別れられたので、よしとすべきなのだろうが。
(お父さま、ごめんなさい……)
オイゲーンのように傲慢なうえ、頭の悪い男となんとか婚約関係を続けてこられたのは、彼との婚約を決めた父を悲しませたくなかったからだ。
母を亡くしたあと、再婚もせずに片親で幼いカルリアナを育て上げてくれた、優しい父だった。
善良な魂が迎えられる楽園は浮遊島で、広大な天界を移動しているという。父はきっと、旅立ったばかりの楽園で「しょうがない娘だ」と苦笑しているだろう。そう思うと、自然に涙があふれてきた。
カルリアナは
王都に行って正式にアルテンブルク伯になったら、仕事を探そう。
そして、誰の思惑にも左右されない、自由な人生を送ろう。結婚なんて二度と考えるものか。
カルリアナは婚約解消の書類を取りに行くために、自分の執務室に向け、再び歩き出した。
***
季節は変わり、冬になった。婚約解消から半年後、二十歳を目前にしたカルリアナは希望どおり王都で働いている。
「カルリアナさま、見当たらない本があるのです! どこにあるか一緒に捜していただけませんか?」
「なんというタイトルの本ですか?」
「ええと……『魔法大解説――全属性について』です」
「その本でしたら、ほら、こちらに。先ほど書架整理中にあちらで見つけたので、正しい位置に戻そうと思って」
カルリアナはずらりと並ぶ自然科学の書架を指差し、そこに紛れ込んでいた厚めの本を掲げてみせた。同僚女性は喜びを顔に浮かべ、捜していた本を受け取る。
「ありがとうございます! さすがカルリアナさまですね。それにしても……利用者の方にも読んだ本は元の位置に戻していただかないと。こちらも別の利用者の方も困ってしまうのに、本当に厄介ですね。うちの利用者はきちんと教育を受けた方たちなのだから、それくらいわかりそうなものなのに」
「仕方ありませんよ。仮にその利用者の方が貴族だとしてもいろいろですから」
元許嫁の顔が頭に浮かんだので、カルリアナはさっさと心の中で忌まわしいイメージの上にバツ印を書いた。
そう、カルリアナ・フォン・アルテンブルク伯爵は、現在、王室図書館の司書として働いているのだ。
王室図書館とはその名のとおり王宮の中にある図書館で、王室メンバーはもちろん、王宮に出入りできる貴族や下働きを含めた職員なら誰でも利用できる。
ただし、国王の蔵書を預かる王室図書館の司書は、高位の官職で貴族しかなれない。
カルリアナが司書として働き始めたのは、婚約解消から一月後のことだ。
無事、爵位の継承が国王に認められたあと、カルリアナはちょうど急募されていた王室図書館の司書の面接を受け、採用された。
伯爵の就職ともなると、採用側にもそれなりの格式が求められるため、自ずと志望先は限られる。王室図書館に就職できたのは幸運といっていいだろう。
この国には女性の有爵者は少ないが、優秀な者は男女の区別なく登用するという国王の施策のおかげで、今では男性の有爵者と同じ官職に就く者も珍しくない。
カルリアナは本や活字はもちろん、手書きの文字でさえ大好きだ。
学生時代から密かに憧れ、資格まで取った職業に就けて、カルリアナは満足していた。
実績を積んで、いずれ司書長となり、王室メンバーと司書長しか入れない中央書庫に入室するのが当面の目標だ。中央書庫には読書家にとっては
ふと、同僚が何気なくカルリアナに尋ねた。
「ところで、なぜ、自然科学の書架整理を?」
「今日の朝刊にシュテルンバール公爵領ではやっている食中毒について書かれていたのです。興味があるので、休憩時間中にでも調べてみようかと思って、勤務中ですが、その下調べを」
食中毒に関連していると思われるカテゴリーは多岐にわたる。ざっと挙げられるだけでも、微生物学、動物学、魔物学、植物学、医学、薬学、それに食品化学と食品衛生が含まれる衛生学、公衆衛生などだ。
これらはすべて自然科学に包括されるので、食中毒について調べるならこの書架になる。
同僚はおかしそうに笑った。
「まあ、カルリアナさまでもそういうことをなさるのですね。ところで、シュテルンバールの食中毒ですか。わたしもその記事は読みましたが……最初から医学、薬学の書架に絞って探さないのですか?」
「まだ原因がわかっていないでしょう? 食中毒なら動物や植物についても調べたほうがいいと思いまして」
「まあ! 原因まで突き止めるおつもりですか!?」
カルリアナは仕事中や文字を読むときに掛けている眼鏡をずり上げた。
「ちょっとした知的好奇心です」
「カルリアナさまならできるかもしれませんね。何せ、うちの期待の新人ですから。ご存知ですか? カルリアナさまに
「そうですか」
カルリアナは反応に困り、そう返した。
ここに就職してから、やたらと上司や同僚から褒められるのだ。
父はカルリアナが幼いころから褒めて育ててくれたし、次期伯爵として領地経営を手伝うようになると、使用人たちからも「さすがお嬢さまですね」「お嬢さまの時代が訪れるかと思うと感無量でございます」「一生ついていきます」と言われることが増えた。
それでもこうして持ち上げられると、困惑してしまうというか……。オイゲーンには褒められたことがなかったからだろうか。
(まあ、わたしのレファレンスが利用者の方にご満足いただけたようでよかったですが)
レファレンスは司書の大切な業務のひとつで、利用者から問い合わせがあった資料を案内したり、例えば「魔法が使えるのはどうしてですか?」などの質問の答えに該当する資料を調べて提示したりする。自館にその資料がなければ、どこの図書館にあるかを調べ、利用者に伝える。
口で言うのは簡単だが、司書の知識や利用者への適切な質問の仕方、検索技術などが要求される仕事だ。
「アルテンブルク伯、今よろしいですか?」
声のした方を向くと、司書長が歩いてくるところだった。普段は気のいい中年の貴族である彼が、少し緊張した顔をしている。カルリアナは問い返した。
「はい。どうなさいました? 司書長」
「あなたにレファレンスのご指名です。こちらへ」
(指名……そんなにわたしの評判が広まっているのでしょうか)
カルリアナは同僚に会釈し、司書長のうしろについていく。
カウンターのそばに、ずば抜けて背の高い男性が立っていた。服装は成人の貴族男性が着るフロックコートとウェストコートの組み合わせ。長いホワイトブロンドの髪を緩く結び、左肩に垂らしている。こちらに気づいたのか、彼が振り返った。
初めに目に飛び込んできたのは、宝石のような緑がかった青い瞳。かつて絵画で見た、太陽の光が反射してきらめいている南国の海のような色で、瞳そのものが光り輝いているかのようにも見えた。
顔立ちは驚くほど整っていて、生ける彫刻のようだ。繊細な目鼻立ちとサラサラの長い髪が相まって、匂い立つような色気がある。長い手足が、すらりとした長身によく映えている。
今まで目にしたこともないような美麗な青年の姿に、男性に興味のないカルリアナも思わず見入ってしまった。
「君が最近、王宮で評判の司書さんかな?」
歳は二十代半ばを過ぎたあたりだろうか。美しすぎて年齢不詳にも見える青年が、あまりにも気安い口調で問いかけてきたので、カルリアナは少しムッとした。
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