あのお風呂場に沈んでるやつがお母さんです、優しいですよ

寝舟はやせ

お母さんは夜だけ起きています。


 お母さんは日が沈んで三十分くらいして、部屋が真っ暗になるとようやく、バスタブから這い上がってきます。

 ずるずるぴちゃぴちゃ言いながら這いずって、キッチンの電気だけがぱちんとつきます。

 私はソファで寝てるふりをして、でも嬉しくなってにこにこして、にこにこしてると起きてるって分かっちゃうから、隠す為に毛布を被ります。


 お母さんは明日のために朝ごはんと夜ご飯を作ってくれて、土曜日の夜にはりんごのお菓子を作ります。

 買い出しは私の仕事です。買い物をして、どきどきしながらしまったりんごが美味しいお菓子になって帰ってくるのを見ると、お母さんがお母さんでよかった、と思います。


 朝起きて、ご飯を食べて、身支度を全部整えてからランドセルを背負って出掛けます。

 一人でできます。おかあさんがお母さんになる前からずっとずっとずっと一人でしていたので、一人でできます。出来ないと太ももをつねられるから一人でできます。もうすっかり痕も消えました。よかったです。


 ここのアパートはとっても家賃が安くて、それで大家のお婆さんも優しくて、お小遣いをくれます。

 お小遣いでお野菜とか、お肉とか、お米とかを買います。お家のお金は前のおかあさんが払ってるのかな? 振り込み? 引き落とし? なんか自動で払われるみたいです。


 学校はそんなに好きじゃないです。でもお母さんが悲しむので行きます。お母さんは悲しいと足音がぺしょぺしょします。

 別に月曜と水曜がおんなじ服でもいいじゃんね、と思いますけどダメみたいででも何がダメなのかはみんなあんまり説明してくれません。

 たまに買い物をして、しない日は早くお家に戻って、日が沈む前にお風呂に入って、それから宿題をして、晩御飯も食べて、ちゃあんと歯磨きもして、あ、虫歯、それで寝ます。

 幸せです。

 本当に幸せです。

 ずっとずっと幸せで居たいです。



 学校の帰り、変な制服の人に囲まれました。警察?とはちょっと違いました。

 皆村ののかさんだよね、と言われて、怖くなって答えないでいたら、「君のお家にいるもののことなんだけどね」と言われました。


 「あれは危ないものだから、皆村さんには今日から別のお家でくらしてもらうことになるんだ」と言われました。

 意味が分かりません。意味が分かりません。意味が分かりません。

 おかあさんからは私のことを守ってくれなかったのに、お母さんのことは私から奪うんですか? どうして?

 お母さんの方がおかあさんよりずっと優しいです。お母さんはお母さんです。

 昼間はちょっとバスタブから出てこられなくて、皮膚がなくて手足が六本あって、頭が潰れて平べったくなっていて舌が長くて、牙が突き出てるから危ないけど、それでも、りんごのタルトを作るのがとっても上手で、優しいお母さんです。


「お母さんはどうなっちゃうんですか?」


 大人は何にも役に立たないのに変なことばかりするけど、逆らったら怒るので、私はなるべく落ち着いて、それで、頑張って聞きました。


「お母さん?」

「私のお母さんです。どうなるんですか? 危ない目にあいませんか?」


 おじさんの一人が、作ったような優しい声で言いました。


「皆村さんのお母さんは、少し遠いところに行ってしまったんだよ。でも大丈夫、おじさんたちがちゃんとお家を」

「違います」

「うん?」

そいつ・・・じゃない方です」


 私のお母さんの話です。

 繰り返した私に、おじさんはゆっくりと目を合わせると、諭すようにして言いました。


「皆村さん、あれはあなたのお母さんじゃないんだよ」


 何にも分かってないんだな、と思いました。だったら、あいつ・・・が本当のおかあさんなんですか?

 りんごのタルトを食べさせてくれる方が本当のお母さんじゃダメなんですか?

 どうして?

 じゃあおじさんが吸い殻食べてみればいいじゃないですか。


 泣いて喚いて暴れてみたけれど、私は弱くて子供だから、大した抵抗にもなりませんでした。

 おじさんたちは私の家に行って、アパートの中で何かをしていたようでした。

 眠ってしまったのでよく分かりません。ずっと恐ろしかったことだけは、覚えています。

 

 お母さん。死なないで。もう私のお母さんじゃなくなってもいいから。何処かで元気でいて。

 死んだらよかったおかあさんはもういなくなったから、お母さんが死ぬ必要なんて無いのに。


 安全の為だと言われて、よく分からない施設に移りました。

 意味が分かりません。本当に。ほんとうに。私はお母さんと楽しく暮らしていました。

 お母さんは誰も傷つけなかったし、美味しいご飯をくれて、たまに私に毛布をかけ直してくれて、寝てるふりさえ上手くできてたら、頭だって撫でてくれました。

 しっとりしてて、おっきな手で、全然人間じゃないけど、お母さんの手でした。

 あんなに安心して眠れたことはありません。


 院長先生は何週間も私の癇癪に付き合ってから、私が疲れて怒る気もなくなっていた時に、『人間はね、生きるのにお金が掛かるからだよ』というようなことをゆっくり説明してくれました。

 お母さんは私のお世話は出来るけれどお金を稼ぐことは出来ないから、あのままの生活を許容しているとよくないことになってしまうから、だそうです。

 それは意味のない慰めや気味の悪い同情よりも、よっぽどマシな説明でした。

 つまりはお金さえ稼げれば、お母さんと一緒に暮らす理由が出来ます。


 此処はお母さんを連れて行った職員さんたちの会社の系列の施設なので、きっと私が成人して会社の役に立つ人材だと分かれば、正式な手続きさえすればお母さんともう一度暮らすことが可能なはずだ、と先生は言いました。


「本当ですか?」


 院長先生は、一度完全に黙りました。


「それは本当ですか?」


 もしも嘘だったらこの施設に火をつけてやる、と思っているのが分かったからだと思います。私はやっぱりおかあさんの子供で、本当に碌でもなくて、ヒステリーってやつで、人格に何か問題があるんだと思います。お母さんと暮らすには相応しくない娘だと思います。

 でもお母さんが、おかあさんの代わりに一緒にいてくれるなら、私はきっとずっといい子でいられるはずです。


「本当よ。本当。皆村さんのお母さんはね、その、とってもいい人だから。向こうでも手厚く保護されているのよ」


 全く信じていませんでしたが、私はいい子になりました。

 いい子にしていればお母さんともう一度暮らせるかもしれないからです。


 いい子にし始めてから一ヶ月が経って、お母さんとの手紙をやりとりできるようになってから、私はようやく、本当に・・・いい子になりました。

 手紙には写真が同封されていました。お母さんは恥ずかしがってバスタブから出てこなかったけど、元気なことは写真を見れば分かりました。


 真面目にやろう、と思いました。みんなは私が『ごく普通の一般的な幸せな暮らし』を手に入れたら、お母さんのことなんて忘れて普通の暮らしを望むものだと思っているようでした。

 毎日違う洋服を着れて、綺麗に髪を整えてもらって、欲しいものはお小遣いの中で好きに買える生活を続けていれば、私が洗面器の中で息を止めている間にどんな気持ちだったかなんてどうでも良くなると思っているようでした。

 おかあさんは引き摺り込まれたバスタブの中でもがいている時はどんな気持ちだったんでしょう。私と同じかな。同じだと良いな。同じだったよね?


 夢を見た日は不安になって、お母さんに手紙を書きました。

 『私は今もお母さんと一緒に暮らしたいと思っています。お母さんはどうですか?』と締め括った手紙には、毎回、美味しいりんごのタルトが送られてきました。お母さんの味です。

 何も異常な成分は含まれていないと判明しているので、私は自由にりんごのタルトを食べられました。嘘です。施設の子達が取っていくので、七割くらい不自由でした。

 でも、お母さんのお菓子が褒められるのは嬉しいから、私は積極的にタルトを切り分けました。いい子だからです。




 そうして。


 私はいい子のまま中学生になって、高校生になって、ありがたいことに大学まで行かせてもらって、それから、望んだ通りに系列の企業に就職した。

 表向きは、ゴム製品を作る会社ということになっている。


 院長先生は少し呆れていたけれど、申請書類の保証人の欄に記名してくれた。

 多分、私がサインを貰えなければ施設に火をつけようと思っている顔をしていたからだろう。


 お母さんはあのアパートのバスタブそのものが殻になっているようで、私の借りてる部屋には子供の頃のアパートから持ってきたバスタブがそのままついている。不格好で古くて懐かしくて、とても愛しい。


 私は朝にシャワーを浴びることにしている。日が沈む前に家に帰れないからだ。大人って大変だね。


「お母さん、行ってきます」


 バスタブの中でぴちゃぴちゃしているお母さんに告げて、私は今日も仕事に出る。生きていくのにはお金が必要だから。

 お母さんといるためには、やっぱりどこまで行ってもお金が必要なのだ。


 自分が親孝行の為に働くことになるなんて想像もしてなかった。お母さんが来てくれるまで、母親がいてくれてよかったと思ったことなんて一度もなかったから。

 これが生き甲斐というやつなんだろう。頭から沈んでいったおかあさんも持っていたやつだ。生き甲斐。多分、彼女から生まれたはずの私は、そこには一欠片も含まれていなかった。


 空は快晴だ。お母さんは、夜までずっと寝ているだろう。


「うん。今日も頑張るぞ」


 おやつにりんごのタルトが待っているのだ。

 私は気合いを入れて階段を降りた。



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