007 貞操の指輪、白の書 Ⅰ
「今年の葡萄は出来が良い。去年の今頃だが、都市近郊の丘陵地にワイバーンが巣を作って問題になりかけただろ? でもAランク冒険者パーティー『鉄の牙』が迅速に倒したから何の問題にもならなかった。討伐が遅れてたら、いくらか質が悪くなっただろうな」
俺たちからすれば高価に相当する高級ワインを片手にエレナに説明すると、彼女は可愛らしく小首を傾けた。
そのエレナの仕草は、村では見なかったものだ。隠していたのか、都市に来てから学んだのか。
田舎特有の、素朴という名前の無遠慮さを完璧に隠した表情。
「村じゃ聞かなかった話だよね。エドはどこでそういう情報を仕入れてくるの?」
舌の上で都市で高いと言われるワインを転がし、味を堪能しつつ、俺はエレナの質問に答えてやった。
「こういったホテルなら食堂に新聞が常備されていて、無料で読めるんだよ。ワインの品評もそこに書いてあった」
知らない女を口説くんなら解説などしないが、相手がエレナなら教育のためにネタはバラしていく。
もちろん新聞を全て鵜呑みにするわけではない。読んだうえで同じホテルに泊まっている商人だのと雑談して情報の精査を行うのだ。
ふぅん、とエレナがなるほどといった顔をしながら頷いてみせる。とはいえ、ここで「さすがだね」「しらなかった」「すごい」「センスあるね」「そうなんだ」とか言い出したら即座に会話を打ち切っているが。
ああいうのはエリート層であるギルドの受付嬢なんかにやられるから楽しいのであって、ナンパにおいて、さしすせそは俺がやる側であった。
また新聞は、それなりの額を宿代として払っているから受けられるサービスである。
これが新人冒険者が定宿にするレベルの宿屋なら、新聞なんて読むことはできない。
鼻紙にされるかちり紙にされるか、盗難被害に遭うので置いておけないのだ。
それに、これ自体が文字が読めることが前提のサービスだ。
村出身の冒険者でも、それなりの教養を持っている人間にしか使えないサービスなので、その辺の村人が一念発起したことでなる冒険者にはそもそもが不要なのである。
「新聞、結構面白いぜ。都市で活動するなら読んでおいて損はない」
鴨のローストをナイフで切り分け、果実のソースと絡めて食べているとエレナもおずおずと、だが修練を積んだものの動きで鴨肉を切り分けて小さな口で食べはじめる。
これが元の村だったら、大口開けて品もなく、味わう意味もなく、むしゃむしゃ食っていたことだろう。
会話が落ち着き、お互い無言で料理を味わっていたが、エレナは手元のナプキンで口元を拭い――これが普通の村娘なら袖で口元を拭う――、上目遣いで、遠慮しがちに問いかけてきた。
「エドはもうブレイズに勝てるよね」
へぇ、と俺の口角が自然と釣り上がる。
「……どうしてそう思う?」
沈黙――しかしエレナは何かの決意と共に言葉を重ねた。
「昔、エドは都市の森では生き残れる確信がない限り絶対に活動しないって言ってたけど……今日から活動するようになったでしょ? だからかな」
森での活動の仕方の初歩をエレナの祖母から教わった際に、エレナとは
寝物語にそんな話をした記憶はないわけではないが……ふむ。
「エレナ。今の俺を探るようにブレイズに言われたのか?」
言ってから、違うな、と内心で自分の言葉を否定する。
ブレイズは女を使って情報を探るという経験をしたことがない。
都市に来て覚えたという可能性もなくはないが……奴がまず
それにあいつはまだまだ女を楽しむ時期だ。村にいた頃、村の女を全て俺に独占されていたブレイズから女を使う発想が出るには、もう少し世慣れる必要があった。
その証拠に、エレナは即座に言葉を返してきた。
「違う。ブレイズは関係ない。私の意思。エドがブレイズに勝てるなら、私がエドのパーティーに入っても迷惑にはならないでしょ?」
「『賢者』が? 俺のパーティーに?」
おどけるように問いかければ、エレナは真剣な目をして俺を見てくる。
「エドが望むなら『メイド』になってもいい」
その言葉を出したことに疑問はない。俺がコットンに対して『聖女』から『メイド』になるよう強要していたのは有名な話だ。
「ならなぜ、俺がパーティーを出ていったときについてこなかった? いや、そもそもエレナはブレイズに惹かれていたように見えたが?」
「ブレイズに対してのあれは演技だし。エドを追いかけなかったのはエドが望んでないってわかってたから。私があれこれと余計なことをして、ブレイズを刺激したらエドの迷惑になったはず?」
「はは……その察しの良さがコットンにもあったらな」
そうして再びの無言。
エレナの考えが読めなかった。
昔抱いたとはいえ、そこまで俺に執着するのか?
黙っている俺に、エレナは説得の言葉を重ねた。
「ねぇ、エドは『白の書』を持ってるでしょ」
「ふぅん」
そこまでの覚悟があるのか。
――『白の書』というアイテムがある。
『白の書』はゲームにも存在していた職業初期化とレベルリセット用のアイテムだ。これを使うとレベル1の『無職』になることができる。
『無職』――それは職業未設定の空白状態ではなく、神の恩恵を得られないレベル1が最大値の職業だ。
(現実化した今なりたい職業ではないが、状態異常武器とアイテムを駆使して進む無職縛りRTAは俺もやったことはある)
『白の書』はこっちの世界の民衆の間では蛇蝎のごとく嫌われているアイテムであるのだが、犯罪者から職業を失わせるためにも必要だということで国家や教会が必要悪として少数の生産を認めているアイテムでもあった。
「なんでそれを知ってるんだ? いや、俺が『賞金稼ぎ』から転職すると考えて用意してるとでも思ったか?」
違う、とエレナは小さく首を横に振った。
とはいえ俺はそういう理由を建前として、村の司祭様が保管していた『白の書』を一冊だけ譲り受けている。
当然、普通ならば村で犯罪者が出たときに使うものなので譲ってもらえないが、神童ゆえの名声を俺は村内では持っていた。
そのおかげで司祭様は俺に甘く、快く譲ってもらえたのだ。
「エドなら、コットンのために用意すると思ったから……隣に誰も女の人がいないってことは、彼女を待ってたんでしょ?」
俺は言葉を返さず、ワイングラスに口をつけて唇を湿らせた。
そうして『アイテムボックス』から白の書を取り出してテーブルの上に置く。
しばらくの間、俺はそれを眺めてから、すっとエレナに向けて本を押し出した。
「エレナ、お前がこいつを欲しがるとは思わなかったな」
「コットンは
エレナに言われ、俺はきょとんとした顔を返した。
「エド。コットンは諦めたよ」
再度、同じ言葉を繰り返される。
その言葉を俺はゆっくりと飲み込み。
「――……そう、か。そうか」
すとんと、言葉は俺の胸の中に落ちる。
振られたのは、俺の方か。
(嗚呼、やっぱり、やっぱりダメだったか)
あれほどまでにこびりついていた、恋人であったコットンへの執着が、心から消え去っていく。
いや、執着はある。だがあるべき場所に落ち着いた感覚があった。
噛み合わなかった俺たち。噛み合わなかったコットン。
「そうか。諦めたか」
はぁ、と俺は表情を緩めた。エレナへの警戒がなくなった。
理由はわからない。
女に振られてまで女と交渉することが馬鹿らしくなったからか、それともコットンに振られたことでどうでもよくなったのか。
だが、しょうがないな、という気持ちだった。
たぶんそうなるだろうな、とは覚悟していた。
――コットンと俺は、人間として、あまりにも合わない。
「エド。コットンはね――」
エレナはそんな俺に今のコットンの様子を語ってくれた。ブレイズの情婦となっている現状を。
好き勝手にセックスをさせられて、ブレイズがたくさんの新人女冒険者を侍らせているのを一番近くで眺めて、まるで奴隷のように尽くしている。
それは前世的な男女の関係から考えればあまり良いとは思えない状態だった。
だがこの世界の農村は男尊女卑なので、そういう観点から見ればコットンは別に不幸でもなんでもない。
ブレイズと結婚するなら、未来の夫婦生活もそんなものになるだろう。
ただ、ブレイズという確実に成功するだろう男を手に入れたコットンは勝ち組の女に属していると言えた。
だから彼女は不幸ではなく、今から俺があれこれと手を出せば、こじれて不幸になるだけだった。
それに、助けたところで俺とコットンは性格が合わないのだ。最後まで面倒を見るなんてこともできない。
(振られたのは、俺だしな)
過去の男が会いに行くのは迷惑だろう。
何かしてやれるわけでもない。
(金ぐらいは恵んでやれるかもだが、それはコットンも拒否するだろう)
そもそも『聖女』だ。教会の許可でもとって回復魔法で商売をすれば冒険などしなくても金には困らない。
そんな俺を察してか、エレナは俺に忠告をしてくる。
「
子供……子供、か。
(子供、ねぇ……)
だらしなく椅子に背を預けたくなる気持ちを抑える。
子供が生まれるぐらいに時間が経ってるなら俺はこの街にはいないだろう。二度と会うなと同義だろうな。
「そうか。アーシャは?」
エレナが俺のところに来るというなら、同じくパーティーメンバーだった『剣聖』のアーシャはどうなのだろうと問えば、エレナは複雑そうな顔をした。
どんな顔だよ。それは。
「アーシャは、ブレイズ
「
「エドは、凄すぎてわからないから、村娘の自分はわかりやすい『勇者』でいいんだって」
「理解ができない、ね」
俺にとってそれはよくわからない感覚だが――いや、わからないわけではない。村人ではわからないだろうと俺がコットンに対して多くの説明を諦めていた部分のことだろう、おそらくは。
それをアーシャはわからないと言ったのだ。
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