第42話
頭の中で鳴り響いていた音が消えた代わりに、眠れない日が続いた。
眠れたとして一時間くらい。
五日連続ほとんど睡眠をとれていないので、蝶が舞っているような幻覚まで見える日もあった。
寝たい、寝たい、眠りたい。何もかも忘れたい。夜は寝て一度脳をリセットしたい。
でもできない。学校では雪乃に事情を話し、ずっと突っ伏していた。
教師に何度も起こされ注意をされたが、体は重たく、起きていられない。
でも机に突っ伏したところで眠れない。
眠れないせいで頭が酷く鈍っている。大事な時期なのに、常にぼんやりとしている。
予備校ではなんとか話を聞いているが、基本的に頭がくらくらしている。クラスの喧騒さえ、苛々するほどだ。
英語の授業で寝ている梓を教師は指した。
問題を見ると参考書に書いてあったものが、そのままあったので黒板に回答を書く。
すると、英語教師は厭味ったらしく言った。
「こんなの簡単すぎて授業を聞く気すら起きない?」
もう、応える余力さえ起きない。振り絞ってなんとか言う。
「体調が……よくありません」
「毎日寝ているじゃない」
「毎日体調がよくないんです」
心身ともにずっと良くない。
「じゃあ、保健室へ行きなさい」
言われたとおり、保健室へ行き横にならせてもらった。
以前に来た時より微妙に雰囲気が異なっている梓を察して、菊池は心配そうに声をかける。
「どうした? なにがあった。顔色も悪いし頬もこけてる……」
「夜、全然眠れません」
「眠れていないつもりでも眠れているとは思うけど……心配ね」
「寝たいです……」
出る声も細い。心の柔らかい部分が破壊されているような感覚もある。精神状態が酷く悪い。真っ暗な泥沼の中に沈んでいきそうな感覚が襲ってくる。
そのまま六時間目まで横になっていたが、眠れることはなかった。菊池は終始、心配をしてくれていた。
「梓、大丈夫?」
ホームルームと終礼には出られた。雪乃が声をかける。
「あまり大丈夫じゃない」
「なにか悩みがあるなら聞くし、いつでも相談に乗るからね」
背中をさする。だが、もう雪乃に相談したところでどうにもならない気がしていた。
日の光もとても眩しく感じられるし、眠れないのは本当にまずい。
家に帰ると、ご飯も食べずにお風呂に入った。その間も常にぼんやりとしている。なんだか重力に負けて全身が溶けていきそうだ。
お風呂から出て着替え、リビングへ降りると、母に言ってみることにした。
「お母さん、私最近眠れないんだけど」
「じゃあ、起きていればいいじゃない」
カチンとくる。
「もう、五日くらいまともに眠れてない。ちゃんと寝たい」
「でも眠れないんでしょ? 眠れないなら寝なくていいのよ」
この親に、なにを言ってもだめだ。ちゃんと眠って一度頭をすっきりさせたいのに。
梓は二階へ行くと、なんとか勉強をして横になる。でも眠れない。眠れないと、焦りだす。
焦りは良くないと思っても、焦ってしまう。
それから五日経っても、少ししか眠れない。梓の精神はますます真っ黒な泥の中に埋もれていくような状態になった。
眠れず白んでいく朝が怖い。太陽の光も怖い。眠れない夜がくるのが怖い。
深夜に喉が渇いてリビングで水を飲むと、そのまま椅子に座り泣いた。
すると明かりに気づいたのか、母が起きてくる。
「どうしたの。なんで泣いているの」
「もう十日以上、まともに眠れていない!」
苛立ちがピークに達し、思わず叫んでいた。
「じゃあ起きていればいいって言っているでしょ。眠れなかったら寝なくていい、って言ったじゃない!」
「私は寝たいんだよ。眠ってリセットさせたい。一度心を穏やかにさせたい。頭もすっきりさせたい。今が一番大事な時なのに」
「そんなこと言ったってあんたの体が寝たがっていないんだからしょうがないじゃない」
神経が逆なでされる。基本両親は梓が困っていても寄り添ってはくれない。小さな時からだ。自分の考えを押し通す。
お酒でも飲んだら眠れるだろうか。眠りたい一心で、棚から料理酒を出す。
母ははっとしたようにお酒の入った紙パックを見る。
「それでなにをする気?」
「これ飲んで寝る」
「やめなさい!」
母は怒鳴って料理酒を力づくで取り上げる。
「眠りたい。それ飲ませて。そうすれば眠れるかもしれないから」
「お酒飲める年じゃないでしょ!」
眠れるならもうどんな手段も厭わない。
「飲ませて。眠らせて。お願い」
深く眠りたい。ただそれだけ。
料理酒をめぐって母と奪い合いをするが、結局梓が負けた。
「もう、いい!」
八つ当たり気味にそう言って二階へ行くと、パソコンを開いた。
眠れない
そう検索をすると、心療内科のトピックがずらりと並んでいた。
眠れない人には睡眠薬を処方します。そんなことが書いてある。
睡眠薬で眠れるのなら……。そうだ、心療内科へ行ってみよう。
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