楫枕

羊坂冨

楫枕

 漕いでも漕いでも遠い向こう河岸は広く。焦がれ焦がれた逢瀬は卑しい。

 どぶのにおい、人の焼けるにおい。岸にみっちりと咲かれたソメイヨシノがそのにおいにざわつく。雪と見まがう花びらを炎は煌々と照らして、灼かれた空があいまいによれている。桜と炎に、人の心は囚われやすい。安易に狂乱がおこる。女が炎の前で額衝いておる。いや、あれは妻か。

 人を焼く炎が揺らめいて、歓声がおこった。焼かれているのは取りん坊。どれあい夫婦にも愛はあったのかと意外に思う。女に酸漿が投げつけられる。爛熟していた実が潰れ、女の着物が汚れる。舟を漕ぐ手を止めしばらく女の動向を眺めていると、やがてゆらりと立ち上がり、炎の中にその身を投じた。炎は一層揺らめいて、笑い声がおこった。

 うれしや、うれしや。

 ばらばらだった人の声はやがて一つの意味に収斂していく。声はやがて微醺を帯び、人々は炎を囲んで体を揺らし始めた。誰かが水面に向かって何かを投げつけ、波紋が立った。

 波紋は大きな波を呼び、舟を前へと押しのける。笑い声は遠のいていき、やがて失せた。振り返れば炎はもう消えている。狂乱の見る影もなく、ただ桜が冷たく立っている。気づけば櫂も消えていた。棹が手元に残る。試しに川に投げ入れると、細かな波紋が弱弱しい水音と共に生まれたのみで、舟の舵には影響を及ぼさなかった。だが、波紋の中に流れの里の景色を見た気がした。

 気づけば里に戻っていた。つぎはぎの着物を身にまとい、逢瀬に胸を焦がすために香を焚く。男が現れ、唇を差し出す。体が不定形に溶けていくかと思えば、いつまでも固く溶けそうにない。肌は熱いがその奥は冷たく、その境目がはっきりしている。口内が燃えるようだ。熱に浮かされるように、私は泣いた。腹の奥がぐるりと反転したかと思えば、突然ホトトギスが腹を食い破って産まれてくる。

 男はホトトギスに夢中となり、私を突き飛ばし虚空を撫でる。こうなればあとは楽なものだ。ぎいぎいと立てつけの悪い引き戸から夜の街に倒れこみ、白桃の香る夜風に曝される。

 遠くから三味線の音がする。それに誘われたさきに、物の怪たちの宴があった。錆びついた神輿を掲げ、顔の見えない者たちが何かを叫んでいるようだ。けれども私の耳は何の音も認めず、ゆらゆらくにゃくにゃしたものが内耳を這う。うそだらけ。

 やがて視界もぬらつきはじめ、くろぐろ、という四文字が密度を増すが、そのはるか先に、光の滲む気配があった。すがるように踏み出した地面がとろけ、いつの間にか私はまた水辺にいた。

 どうやら水流からは逃れられないようだ。たとえ万里を走ろうとも、大地には水が走っている。流れる血からは逃れられないように。私の血管には死体の浮かぶどぶが数滴ふりかけられている。

 私は着物を身に着けたまま、そっと水面に身を預ける。白波を受け髪が別の生き物のように蠢き、口に入ったものは塩辛い。耳が海水に浸かった。墨で塗りつぶしたように、空がどこまでも広がっている。

 何も聞かず、何も見えず、ただ浮かんで流されていく。この先に何が待つかを知るものはいない。

 自らの意思はなく、体はやがて木材となり果てていく。無人の舟は眠り、香りのある夢を見る。



 洗い立てのカーテンが風に吹かれるたび、爽やかな香りが部屋の中に漂う。頑張って掃除した後の部屋が一番好き。綺麗な自室が一番好き。

ベッドは特に何かをしたわけじゃないけれど、不思議と表面が軽やかな素材に入れ替わったみたい。湿った枕もいずれからりと乾くでしょう。フローリングに感じる裸足。

 汗の気配のない清潔な空間。

 ――なんて夢だろう!



 目覚めた時、私の身体は舟の上にあり。背後では夫婦が燃えている。安酒のにおいと、桜色の唇がうるさくて、もう眠れそうになかった。

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楫枕 羊坂冨 @yosktm

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