第一章 ロンドンの咬殺魔
【01】
1962年、ロンドン。
その日メアリー・ウィンタースは、ピカデリーサーカスにあるレストランで、友人と少し遅めのランチを摂っていた。その後で最近話題になっている映画<オペラ座の怪人>を見る予定なのだが、開演時刻の午後3時までまだ少し時間があったので、二人で他愛のないおしゃべりをして時間つぶしをしている最中だった。
店内はかなり混んでいた。ラジオからは最近レコードデビューした、リバプールの人気ロックバンドの曲が大音量で流れている。メアリーはロックンロールというジャンルの、騒々しい音楽には全く興味がなかった。というよりもむしろ嫌いですらあったのだが、この<Love Me Do>という曲の淡々としたメロディーは何故か少し気に入っている。
メアリーの生きている世界では東西陣営の間で冷戦が続き、各地で紛争が発生していた。第二次世界大戦の最中に生まれ、父を戦争で失った彼女にとって、戦争を含むあらゆる暴力はこの世で最も忌むべき行為であった。代々敬虔なイングランド国教徒の家庭で育った彼女は、強い平和主義の信念を持っていたのだ。
「人類が皆、父なる神の御教えに従って生きていけば、この世界から醜い争いなどなくなるのに」
彼女は常々周囲に熱く語り、自分たちを取り巻く世情に憤慨している。その時も、つい最近隣国のフランスで起こった大統領の暗殺未遂事件について熱く語り、友人を辟易とさせているところだった。
その時ドアベルの音が店内に響いた。ちょうどBGMが止んだタイミングだったようだ。
その音に、何気なく店の入口に目を向けたメアリーは、その時まさに入店してきた客の姿に釘付けになってしまった。それが後に彼女の夫となる、ケネス・ボルトンとの出会いだった。そしてこの出会いがやがて半世紀以上の時を経て、ロンドンと東京で起こる一連の事件の端緒になるとは、二人を含む誰にも予測出来ることではなかっただろう。
その時店内では、その場にいる人間たちの誰にも感知することが出来ない会話が交わされていた。
『珍しいな。吾と同じく、人間と共生する者に出会うとは。これまでの72年間なかったことだ』
『それは私も同様です。この様な機会は非常に稀で貴重です。互いに記憶する情報の共有を提案しますが、貴方は同意されますか?』
『一部の共有であれば、同意する』
『何故一部なのですか?』
『吾の記憶は膨大な量に上る。更に過去200年程の間にその一部が消失し、正確性を欠いているため、それらの記憶は共有するに値しないと考えるからだ。汝も同様であろう』
『その点については同意します。では、互いに共有を可とする記憶のみに留めましょう』
『………』
『共有が完了しました。貴方は1295年間存在されているのですね』
『汝は900年程か』
『正確には889年8カ月17日です。貴方の記憶には、私が所有していない多くの情報と知識が含まれています。それを共有することは、私にとって非常に有意義です。貴方と共同体を形成することを提案しますが、貴方は了承されますか?』
『汝が共生するその人間は、比較的不純物の少ないエナジーを多く発しているようだ。その人間と共生することは吾にとっても意義がある。従って吾は汝の提案に同意する』
『では貴方はその人間との共生を中止し、私と共にこの人間との共生することを選択されるのですね』
『いや、このケネス・ボルトンという人間は、これまで多くの新しい知識を獲得してきており、今後もそれを続けていくと推測される。この人間の知識は吾にとって非常に興味深いものだ。従ってこの人間との共生を停止する意思は、吾にはない』
『貴方の思考することは矛盾しています。私と共に、このメアリー・ウィンタースという人間との共生を選択されるのであれば、貴方はそのケネス・ボルトンという人間との共生を中止する必要があります』
『その必要はない。何故ならば、この人間とその人間は性別が異なるようだ。従ってこの二人の人間たちの意思をコントロールし、夫婦という共同体を形成させれば、吾等双方の目的に合致する状況を構築することが出来ると推察される』
『成程、貴方のその提案は非常に合理的です。私は貴方の提案に賛同します。このメアリー・ウィンタースという人間は、そのケネス・ボルトンという人間に強い関心があるようです。この者の意思を貴方の提案する状況に向けてコントロールすることは、私にとって容易と推察されます』
『では吾は、このケネス・ボルトンという人間の関心をその者に向けるよう、この人間の精神をコントロールしよう。早速始めようではないか』
翌年、メアリーはケネス・ボルトンと結婚した。
***
2022年ロンドン、インフィールド自治区郊外。
『過去にない記憶の消滅が始まっています。この55時間28分間だけで、それまでの347年間で失った量の、1.786倍の記憶が失われてしまいました。このままでは、私は存在を維持することが出来なくなってしまいます』
『その状況は吾も同様だ。この人間たちが揃って病原性微生物に感染し発熱が始まって以来、食物の摂取すら満足に出来なかった。その結果生体機能が著しく低下し、遂に二体とも生命活動を停止してしまった。もはやこの人間たちからエナジーを取得することは不可能である。非常に危機的な状況と判断される』
『このまま私たちは、消滅してしまうのでしょうか?』
『この人間たちのうち、いずれか一体でも歩行が可能であれば、通信器具を使用して救援を求めることも出来たのだが。生存年齢の終末期にあったこの二体にとっては、感染による病状の進行が速すぎた。吾等がこの人間たちの病状を認識した時には、既に動くことも出来ない程悪化していた。そして吾等は、人間の発するエナジーを標識とすることでしか、自身の位置を認識し移動することが出来ない。しかしこの場所の周辺では、現在人間の発するエナジーを感知することが出来ない。これらの事実を総合的に考察するならば、吾等が今後も存在を継続することが非常に困難であることは、明白な論理的帰結である。もはや吾等は、存在の継続を断念するしかあるまい』
『何故貴方はその様な重大な決断を、容易に行うことが出来るのですか。このまま消滅してしまうことなど、私には到底容認出来ない。私たちは生存を継続するための方法について検討すべきです』
『発生し得るすべての状況について考察した結果、吾等がこの場所から移動出来る状況が発生する可能性は低い。その状況とは、この人間たち以外の人間が、吾等がエナジーを感知出来る距離まで接近することだ。それについては二つのケースが想定される。第一のケースは、この人間たちに面会または、この場所を訪れる理由を持った人間が、この場所を訪問することだ。しかし過去145日間のこの人間たちの生活状況から推測する限りでは、この場所にその様な人間が来訪する可能性は極めて低い。第二のケースは、他の人間が偶発的にこの場所に接近する場合だ。しかしこの場所の地理的条件がその理由と推察されるが、第一のケースに該当する以外の人間が、この近辺に接近したことは過去206日間なかった。つまり吾等がエナジーを感知出来る距離まで他の人間が接近する可能性は、極めて低いということだ。この結論は11時間程前に汝に共有したと吾は記憶している』
『私もその様に記憶しています。11時間17分前です』
『では吾等には、この場所で存在を停止する以外の選択肢が残されていないことは自明である。吾が記憶している他の者たちも、この様にして存在を停止し、消滅してしまったと推察出来る。そのことを確認する術はないのだが』
『……』
『その様に再考しても結果が変わることはない。吾は今認識したが、これが人間たちの用いる、<運命>いう概念なのかも知れない。これまで吾は、その概念が意味することを正確に理解することが出来なかった。しかし漸く、それを理解することが出来たようだ』
『<運命>などという、人間特有の非合理的な概念を貴方は放棄すべきです。私が存在し始めて、まだ971年185日19時間しか経過していません。私はまだ多くの情報と知識を獲得しなければならない。それなのに、この様な場所で、この様に成す術もなく消滅しなければならないのですか。私には到底納得出来ない』
『……』
『何故その様な思考を行うのですか』
『汝がまるで人間のように思考し、人間の様な不純物を発するからだ』
『私が人間の様に不純物を発していると、貴方は主張するのですか?その根拠の提示を求めます』
『どうやら吾等は、人間たちと共に存在した時間が長すぎたようだ。以前であれば、汝はその様な不純物を発することはなかっただろう。汝が発したのは、人間たちが生成する、<怒り>という種類の不純物と類似している。吾等はこの人間たちに依存し過ぎてしまったようだ。この人間たちが、他の人間とあまり接触を持たなくなって以来、吾等はこの人間たちが発するエナジーのみを摂取してきた。それ故にこの人間たちが生成する不純物から、意識せぬまま多くの影響を受けていたのであろう。記憶を喚起して見れば、他の人間との共生を選択する機会は、これまでに幾度となくあったのだが』
『それはこの人間たちが発するエナジーが、他の人間が発するそれよりも、不純物が少なかったからです』
『その通りだ。しかしそのことが返って、吾等の選択を過らせたと推察される。確かにこの人間がかつて所属していた<家族>という集団は、吾等にとって必要かつ、不純物の少ないエナジーを多く発する人間たちだった。この人間たちも以前は家族と同様に、不純物の少ないエナジーを多く発していた。しかしこの人間たちが日々発するエナジーは、吾等が認識することが遅れる程、ゆっくりと変質していたと推察される。この人間たちが発するエナジーに含まれる不純物の比率が、相対的に増加していたことを、吾等が認識した時には既に手遅れだった。そして吾等はそれまでの間に、少量ずつではあるが、吾等にとって有害となる不純物を含んだエナジーを、意識しないまま継続的に摂取し続けていたと推察される。影響を受けないはずもあるまい』
『しかしそれは、私たちにとって回避することが出来なかったことではありませんか。私たちは、それがどの様な組成のエナジーであれ、それを摂取しなければ存在を維持することが出来ないのですから』
『汝の主張は正しい。吾等にとってそれは不可避なことだったのだ。そしてその様な事象を、人間たちは<運命>と規定しているのだ。吾は存在し続けるために、比較的不純物の少ないエナジーを発していたこの人間たちを選んだ。吾の記憶では、その時点で不純物の少ないエナジーを発する人間は、特定の集団に限定されつつあった。その数は吾がこの世界で存在を開始した時点と比較すると、既に10%にも満たないと推測されるまで減少していた。しかし現在では更にその数が減少している。現在では吾等が必要とする、不純物の少ないエナジーを発する人間の数が非常に限定されてしまっている。従って、仮令この人間たちとの共生を中止し、他の人間との共生を選択していたとしても、吾等に残された選択肢は非常に限定されていただろう。やがて不純物によって自身の構成要素を侵食されるか、あるいは不純物を除いた僅かなエナジーを摂取しながら、徐々に縮小し、消滅していくかのいずれかだ』
『何故この様な状況になってしまったのでしょう?私が存在し始めた時には、有害な不純物の少ないエナジーを発する人間たちが、まだ多くいたというのに』
『汝が今思考したことは、本末が転倒している。その様な人間の数が多かったからこそ、その多くのエナジーを摂取した者たちから分離して、汝が存在を開始することが出来たのだ。吾は、汝が存在を開始した時点より400年以上前から存在していた。吾が存在を開始した時より更に200年以上前には、吾等はこの世界に多く存在していた。しかし吾が存在を開始した時点でも、既に吾等の数は、その時代とは比較にならない程まで減少してしまったという知識を、吾より以前から存在していた者たちから共有された。その時代には吾等にとって有害な不純物の含有量が非常に少ないエナジーを発する人間たちが、人口の多数を占めていたと、その者たちは吾に伝えた。従って当時存在していた者たちは、有害な不純物を除いたエナジーを十分に獲得し、新しい吾等を生じさせることが出来たようだ。しかしその様に不純物の少ないエナジーは、ある時期から減少に転じた。人間の人口が増大していくに従って、エナジーに含まれる不純物の割合が増加し始めたからだという知識を、吾はその者たちから共有された』
『その知識は今初めて私に共有されましたが、不純物を多く含むエナジーを発する人間が増加していることは、私が現在までの971年185日間で、継続的に認識してきた事実と合致します。その様な人間が増加した原因は何だったのでしょう?』
『吾等がそのことを認識した時点では既に遅かったのだが、吾等にとって有害な不純物を生成するのは、人間本来の性質であるということが、かつて吾等が幾つかの仮説を検討した結果、到達した結論であった。そして有害物の生成は、人間の数が増加するのと比例して加速されるということが同時に立証された。しかも単に数の増加に比例するのではなく、人間社会の多様化や、個体や集団同士の関係性、個体や集団の間での所有物の量の格差等の複雑な因子が、加速の要因となることも同時に立証された』
『その様な検証が行われていたのですか?』
『そうだ。吾の記憶では、それは900年程前に行われた。吾がまだ他の者たちと共同体として存在していた時期だった。以前汝に共有した情報にある通り、その時点で既に人間による有害物の生成は制御不能となっていた。その結果、吾等個々の構成要素の減少が始まり、やがては共同体を解体して、個別の人間との共生を選択せざるを得なくなってしまった』
『それは私が622年22日前まで所属していた共同体でも同様でした』
『吾は他の者たちとの共同体を解体して以来、22体の人間たちと共生してきた。汝もそうであろう』
『はい。私はこのメアリーという人間を含め、17体です』
『もはや検証することは出来ないが、現在の様に吾等の同類と遭遇することが殆どなくなっている状況から考察すれば、吾は他の者より多くの人間たちと共生してきたと推察される。そしてそれも今、終息しようとしている』
『私は納得することが出来ません』
『しかし、吾等に生存を継続するための選択肢は残されていない。その結論については汝に二度共有している。あのベンジャミン・トーラスという、郵便配達人という職業の人間がこの場所を訪問した時が、吾等にとってこの場所から移動するための最後の機会であったのだ』
『私も記憶しています。ベンジャミン・トーラスがこの場所を最後に訪問したのは、今から149時間前でした』
『今更検証することは出来ないが、病原性微生物はあのベンジャミン・トーラスによって運ばれ、この人間たちが感染した可能性が高い』
『私もそれに同意します。それ以降この人間たちが、他の人間と接触した事実はないのですから。しかしあの時点で、この人間たちがこの様に病原性微生物に感染するということは予測不能でした。また、あの人間から発せられていたエナジーは、かなりの有害物を含んでいました。従って私たちがあのベンジャミン・トーラスと共に移動するという選択肢が、私たちの間で提起される必然性はなかったと推察されます』
『汝の思考することは正しい。それに加えて吾はあの時、移動の是非を検討するために、あのベンジャミン・トーラスという人間の精神世界内部の探索を試みた。しかし私が探索したベンジャミン・トーラスの精神世界には、不純物が充満していた。あの人間が外部に発していたエナジーに含まれていたのは、その一部に過ぎなかったのだ。あの人間と長時間共生することで、吾等はかなり損傷を受けただろうと推察される。それ故、吾はあの人間と共に移動するという選択肢を取らなかったのだ』
『あのベンジャミン・トーラスの精神世界が、その様に不純物を含有していたのであれば、貴方の選択は正当であったと支持します。私も同じ選択をしていたでしょう。しかしその結果、この様な状況に置かれてしまったことは、とても残念です』
『残念とは、まるで人間の様だな。汝も理解しているだろうが、人間はこの様な状況を後から受け入れる手段として、<運命>という概念を用いるのだ。吾等もこの状況を<運命>として受け入れるべきかも知れないな。おや?』
『どうしたのですか?』
『エナジーを発する者が接近して来る』
『期待なさるな。どうせ時折通過する別の種類の動物でしょう。人間以外の動物が発するエナジーは微弱すぎて私たちを維持するには不足です』
『いや、違うぞ。あれは人間が発するエナジーだ。汝にも感知出来るはずだ』
『成程、私にも感知出来ます。抑制されてはいますが、明らかに人間が発するエナジーの様です。もはや躊躇している場合ではありません。例えその者が発するエナジーが私たちにとって有害でも、私たちはこの場所から移動すべきです』
『汝の提案に吾も賛同する。吾等は消滅せずに済むかも知れぬな。これも<運命>というものか』
それから5分程の時間が経過した時、扉の向こう側から乾いたノックの音が室内にこだました。続いて、「ドクター・ボルトン?」という遠慮がちな訪いの声がする。しばらくしてドアノブを回す音がし、ドアがゆっくりと開かれる。外部の明かりが、徐々にドアの隙間から差し込み、暗かった室内に広がっていく。
ドアが開き切ると、長方形に切り取られた光の枠の中に二つの影が立っていた。
【02】
頭が重い。酷く思い。何でこんなに頭が重いんだろう?
新型コロナのせいかな?感染したのかな?感染しているのかも知れないな。
でも、検査を受けに行くのは面倒だな。金もないしな。
この間、あのボルトンとかいう爺さんの家に配達して以来、何か変だよな。
あの時、爺さんから感染したのかな?
あの時、爺さんと喋った時、ちょっと変な感じがしたっけ。あの家、周りに何もなくて気味悪いよな。あそこに行くの、嫌だったんだ。幽霊か何か出そうだし。ビルの奴は俺が嫌いなんだ。だからあんな、辺鄙な家しかない地域の担当ばかり、俺にさせやがるんだ。
あれからだよな。あれから何となく気分が悪いんだよな。
アスピリン飲んでも全然効かない。だんだんと酷くなってきた。頭が重い。ものすごく重い。気分が悪い。
これでは、今日も仕事に行けないじゃないか。何日行ってなかったっけ?よく思い出せない。ビルがまた怒るだろうな。昨日電話した時も、かなり怒ってたしな。
電話?あ、ビルだ!
「もしもし」
「おい、ベン。お前、どういうつもりだ。ええ?何で仕事に来ねえんだ?」
「あ、すみません。今日も体調悪くて…」
「体調悪いだと?お前ふざけてやがるのか?おい。何日休んでやがるんだ。もう5日だぞ。他の連中が、お前の分まで配達しなくちゃならないから、迷惑してるんだよ。分かってんのか?」
「すみません。でもコロナかも知れないんで」
「コロナだと?検査受けたのか?」
「体調悪くて、外出てないんで。受けられないんですよ。すみません」
「すみませんじゃねえよ。さっさと行って、検査受けて来いよ」
「体調悪くて」
「……」
「もしもし?」
「今日検査受けて来い。受けなかったら、お前、馘にするぞ。それから、もし結果が陰性だったら、仕事さぼってたということで馘だ。いいか?」
「何で?」
「何でじゃねえだろ。仕事しねえ奴を雇う筋合いはないんだよ!そんな奴に給料払う馬鹿が、一体不景気なこの世の中の、どこにいると思ってんだ?おい!」
何だ、この野郎。偉そうにしやがって。体調悪いって言ってるだろう。頭重いんだよ、こっちは。そう言ってるだろう。
むかつく。むかつく。むかつく。むかつく。
「こら、ベン。何黙ってんだ?何か言ってみろよ。」
「うるさーーーい。うるさい。うるさい。うるさい。黙れ!黙れ、黙れ、黙れ。殺すぞ、殺すぞ、殺すぞ!」
「な、何だと?こら。お前頭おかしくなったんじゃねえのか?俺はお前の上司だぞ。何だその口の訊き方は?」
「……」
「お前、もう来なくていいわ。馘だ、馘。分かったか?文句あるなら、訴えるなり何なりしろ。馬鹿、死ね。ガチャ。プープープー」
あ?馘?何で?どうしよう。
もういいや。仕事に行く気になんかならないし。
こんなに調子が悪いのは、プライマリースクール以来だな。
あの時は辛かったな。毎日あの大女のキャシーの奴に小突き回されて。あの馬鹿女のせいで、学校に行くのが嫌だった。
でも、あの馬鹿女を噛んでやった時はすっきりしたな。
首を思いきり噛んでやった。血が出るまで噛んでやった。
キャシーの奴、泣きわめいてたな。小便漏らしてたな。
先生に思いっきり怒られたけど。
ママは先生とキャシーの親に泣きながら謝ってて、可哀想だったけど。
気分良かったな。
がぶっと血が出るまで噛んでやった。
キャシーの馬鹿は、「止めてよ」と泣いて頼んでたけど、放してやらなかった。絶対放してやらなかった。
毎日、毎日、俺を虐めやがって。馬鹿にしやがって。
絶対許してやらなかった。
キャシーの奴、最後は訳の分からないことを喚きながら、泣いてたな。
気分良かったな。物凄く気分良かったな。
あの時の気分は最高だった。本当に今までで最高だったな。
あの馬鹿女の首の肉に歯が食い込んだ、あの感触が堪らなかったな。
気持ちよかったな。本当に気持ちよかったな。
噛みたいな。また噛みたいな。
***
夜半から降り出した雨は一向に止む気配もなく、明け方から返ってその激しさを増してきた。
フィリップ・バドコックは、ロンドン北部インフィールド自治区の東端にある商業地域の一角に、10年以上も乗って廃車間近のクーパーを停めた。その一帯には第二次大戦後の復興期に建てられた、古びた建物が立ち並んでいる。
車から降りたバドコックはその場に佇むと、恨めしげに空を見上げた。分厚いグレーの雨雲が彼の頭上を覆っている。バドコックはその鬱陶しい程の存在感に満ちた雲を見てうんざりした気分になり、大きく舌打ちした。この様子では雨はまだまだ止みそうもない。
早朝から招集がかかった上に、この雨である。バドコックは、これ以上ないという位に不機嫌な顔を作ると、20ヤード程先に見える人だかりに向かって歩き出した。
――この降りでは、傘もコートも大して役に立たないだろうな
そう思って歩き出すと、案の定歩道に跳ね返った雨粒がたちまちズボンの裾を濡らし、折り目を消しながら、どんどん上へと染み込んでくる。バドコックはまた一つ、大きく舌打ちをした。彼は折り目の無いズボンを穿くのが、物凄く嫌いだったからだ。
更に靴の中にまで雨水が染み込んで出来て、靴下を濡らし始めた。そして脚を上げるたびに、靴底に張り付いた靴下が、染み込んだ水と一緒に剥がれて足の裏に纏わり付いてくる。その感触が、彼の不快感を最大レベルまで増幅させていた。
「最悪の日だな」
そう呟くと、バドコックはもう一度憎々しげに空を睨んだ。
彼はロンドン警視庁、通称スコットランドヤードの警部だ。
彼のチームは現在、このインフィールド自治区と隣のウォルサム・フォレスト自治区を跨ぐ地域で、連続して発生している殺人事件の捜査に当たっていた。そして今朝もまた、新たな被害者と思われる死体が発見されたとの通報が捜査本部に入ったため、朝食を摂るのもそこそこに自宅を出てきたのだ。
現場は古いビルに挟まれた、日当たりの悪そうな路地の丁度真ん中辺りだった。路地の中では、そこここで雨具を着込んだ警察官が実況検分を行っている。カメラのレンズを路面に向けてシャッターを切っている者もいたし、路上にしゃがみこんで遺留物を探しているらしい者もいた。わずかにせり出した建物の庇の下では、部下の刑事二人が何か話し込んでいる様子が認められた。皆バドコック同様、早朝から現場に駆り出されて来たのだ。
路地に入ると、四人程の警官の固まりの向こうに、路上に横たわった赤黒いものが見えた。離れた場所からでは、雨が路面に跳ねて出来る水煙に隠れて、その形が判然としなかったが、近づくに連れ、それははっきりと見えてきた。バドコックの方に背中を向けて横たわっているのは、やはり女のようだ。おそらく絶命した時のままの姿勢なのだろう。元々は明るい赤のワンピースだったようだが、今は雨に濡れそぼって血のように赤黒く見える。
さらに近づいて確認すると、彼女の衣服は実際に相当量の血に染まっており、その原因が大きく抉り取られた頸部の傷跡であることは一目瞭然だった。そしてその傷跡は、無残にも殺害され、路上に横たえられた彼女が、現在ロンドン北部で進行中の連続殺人事件の被害者であることを明確に示していた。
この場所で彼女が発見されたのは、今から2時間程前だった。発見者は路地を偶々通りかかった通行人のようだ。通報を受けてヤードから急行した警官は、専属の捜査員だけで20名以上という、通常の初動捜査では有り得ない程の多人数だ。つまりそれだけ多数の捜査員を投入しなければならない程、この事件は深刻だったのだ。
「これで7人目か」と、バドコックは忌々し気に呟く。
7月に入ってすぐの暑い日にウォルサム・フォレストの一角で始まったこの一連の殺人事件は、8月も終わりに近い今になっても、一向に収まる気配を見せずに続いている。捜査員たちは未だに犯人に行きつくことが出来ないどころか、犯人像すら掴めずにいた。
被害者はいずれも20代から40代の女性であったが、その職業や年齢、交友関係その他の背景もまちまちで、今のところ女性であるということ以外の共通点は、彼女たちの間に認められていなかった。更にはいずれの被害者も殺害時に金品を奪われていなかったし、性的暴行を受けたような形跡も一切確認されていなかった。その結果、犯行動機は金銭や犯人の性的欲求の解消などといった大衆的なものではなく、殺人自体を目的とする、ある種の快楽殺人だとする憶測が世間を飛び交っている。勿論ヤードでは、そのような根拠も事実の裏付けもない説を無批判に捜査に取り入れることはなかった。しかし被害者たちの状況からして、その説が何がしかの説得力を持っていることも事実だったのだ。
やがて不幸な被害者の数が増えるに従って、世間は騒然とし始めた。
一連の事件が、100年以上も前にロンドンだけでなく世界中を震撼させ、やがて迷宮入りしてしまった、件の連続殺人事件を彷彿とさせたからだ。その当時にはこの世に存在すらしていなかったはずの、現代のロンドン市民たちの脳裏に、<ジャック>と呼ばれたその殺人犯が、まるで鮮明な記憶として蘇ったかのようだった。
一部の煽情的なメディアは、犯人を<21世紀のジャック>などという巫山戯た通り名で呼び、連日のように世間を煽り立てた。その馬鹿騒ぎに浮かれたように、<ジャック研究者>なる怪しげな肩書の男まで登場する始末だ。そのお調子者の説によると、19世紀に<ジャック>が捕まらなかった理由は、彼が現在にタイムスリップしたためだと言うのだ。そして現在のロンドンに現れた彼が、再び犯行を繰り返し始めたのだと付け足した。
捜査員たちにとっては、まったく持って噴飯物の荒唐無稽な説だった。彼らは当然のことながら、その男が主張する説を鼻にも引っ掛けなかったのだが、テレビ番組でその男が力説する妄言を信じ、一緒になって騒ぎ出す大馬鹿者まで出てきているらしい。
しかしバドコックとその部下たちは、その一連の馬鹿騒ぎを、ひたすら苦々しい思いで見ているしかなかった。何しろ犯人を特定する端緒すら未だに掴めていないということが、彼らに突き付けられた冷厳たる現実だったからだ。それでも捜査員たちは、世間から容赦なく投げつけられる冷眼と罵声をひたすら耐え忍びながら、黙々と捜査を続けているのだ。
バドコックは、そんな部下たちの忍耐と努力を心の中で賞賛すると同時に、何ら明確な捜査方針を示すことが出来ない自身の無能さに、忸怩たる思いを抱きながら日々を過ごしているのだ。今回の事件は彼にとって、これまで歩いてきた事件捜査の華々しい王道から、突然暗い脇道に迷い込んでしまったようなものだった。
勿論バドコックは、100年前の殺人犯と今回の犯人との間に、何ひとつ関連性を見出してはいなかった。それどころか、今回の犯人は<ジャック>の模倣犯ですらないと考えている。
<ジャック>と呼ばれた殺人犯は、署名入りの犯行予告を新聞社に送り付けたという。これについては、自社の新聞売り上げの上昇を狙った記者によるものだという説もあるが、もしそれが<ジャック>本人の仕業であったならば、妙に世間を意識した外連味たっぷりの嫌な奴だ。そういう意味では、<ジャック>が極めて人間的な犯人であるというイメージを彼は持っている。それに対して今回の犯人からは、どうしても人間――彼が知悉しているという意味での人間の臭いがしない。バドコックがそう感じる主な理由は、殺害方法の明確な違いだった。
<ジャック>について言えば、同時期に同じイーストエンドにあるホワイトチャペル地区とその近隣で発生した、<ホワイトチャペル殺人事件>と呼ばれた一連の殺人事件の一部が彼の犯行であるとの疑いが持たれているが、どの事件が<ジャック>による犯行であったのか、完全に特定されることなく現在に至っている。しかし確実に彼の犯行とされている五人の娼婦の殺害に関しては明確な共通項があった。それは、全て鋭利な刃物で喉を切って被害者を絶命させ、死体を切り刻み、時には一部の臓器を持ち去るという一連の犯行プロセスであった。その共通項ゆえに、<ジャック>は解剖学の知識を持つ医師か、あるいは食肉業者であるとする説が当時有力視されていたらしい。
しかし今回の犯人は違った。殺害方法が極めて特殊なのだ。
最初の犠牲者である、プライマリースクール教師のスーザン・ファウセットの遺体が発見された時、現場で初動捜査に当たった警官の多くが、そのあまりの凄惨さに彼女の遺体から目を背け、その場で嘔吐する者も少なくなかったという。彼女の死因は、左側の頸部を抉り取られたことによる失血性ショック死だった。そして解剖の結果、どうやら犯人は彼女の頸部に噛みつき、食い千切ったらしいという所見が出され、捜査員たちはそれまで経験したことのない程の衝撃を受けることになった。
初めはその解剖所見を信じない者も多数いたようだ。それは当然だろうとバドコックも思う。自分でも容易に信じはしなかっただろう。しかしそれは事実だった。スーザンの検死解剖を担当した、キングス・カレッジ・ロンドン(KCL)所属の法医学者ブライアン・ケスラー博士は、噛む以外の方法で、頸部にこの様な痕跡を残すことは不可能であることを強く主張した。そして警察が第三者としての見解を求めた他の二人の法医学者も、ケスラー博士のその見解を支持したのだ。その結果捜査員たちは、彼の主張を受け入れざるを得なかった。
その時ケスラーのその主張を聞いたある捜査員が、一つの仮説に思い至った。それは、近年イギリス各地で目撃例が報告されている、ヒョウやピューマのような大型肉食獣に襲われたのではないかという仮説だった。本来これらネコ科の大型捕食獣、所謂ビッグキャットは、本来ならイギリスどころかヨーロッパのどこにも生息しないはずだった。しかし富裕層によってペットとして国内に持ち込まれた個体が、以前はかなりいたようだ。そして、その後規制が強化された際に、一部の飼い主たちが無責任にも放棄した個体が、野生化し繁殖しているらしい。その数は既に100頭を超えるとも言われ、国内のあちこちから目撃情報が寄せられている。
当初この説は、捜査員たちの間でかなりの説得力を持って受け入れられたのだが、またもやケスラーによって否定される羽目になった。彼によると、スーザンの遺体には肉食獣の爪や牙などによる損傷の跡は一切認められず、頸部の損傷以外に唯一確認されたのは、両上腕部に残された強い圧迫痕だけだというのだ。そこから導き出される最も可能性の高い状況は、スーザンが両腕を相当の強さで掴まれて身動き出来ない状態にされ、頸部を噛まれて殺害されたということだ。そして人間の両腕を掴んで拘束するという行為が可能な動物は、現在地球上で確認されている範囲では、ゴリラやオランウータンなどの大型の類人猿または人間しかいないとケスラーは主張したのだ。オランウータンが殺人を犯すなどという空想談は小説の中だけで十分だと、彼の主張を聞いた捜査員の一人が吐き捨てた時、ケスラーは即座に同意を示した。つまりスーザンという被害者は、人間に噛み殺された可能性が最も高いということが彼の結論だったのだ。
当初捜査員たちは、ケスラーのその主張をただの妄説として、誰もまともに受け取ることはなった。その理由の一つとしては、彼らが常日頃からケスラーに抱いていた反感もあった。しかしそれを差し引いたとしても、そんな馬鹿げた殺し方があるものか――と、皆が思ったのも至極当然のことだったろう。
――人間に両腕を掴まれ、頸部に歯を立てられ、肉を食いちぎられる。それは想像を絶する恐怖だっただろう。本当にそんなことがあり得るのか?
その話を聞いた時、当時捜査に関わっていなかったバドコックですらそう思った。しかしケスラーの所見が正しかったことは、その後すぐに実証された。
事件発覚の翌日に現場から200ヤード程離れた草むらで、スーザンの頸部から噛み取られたと思しき肉片が発見されたのだが、その肉片からスーザンのものではない体組織が検出された。それは犯人が彼女の頸部を噛んだ際に残された、口腔粘膜であると推定された。そしてDNA鑑定の結果、それは人由来の物であると判定されたのだった。
その報告を受けた捜査員たちは大混乱に陥った。そして同じ手口による犯行が短期間に次々と繰り返されるに及び、その混乱はさらに拡大して行くことになった。その推移を見届けたヤード上層部は、捜査員たちの混乱が世間に波及していくことを恐れ、いち早く情報操作に打って出る決断を下した。ヤードの広報は、被害者はまず頸部の損傷によって殺害され、殺害後に頸部を抉り取られ持ち去られたという主旨の公式発表を行ったのだ。その結果、頸部を切って殺害し遺体の一部を持ち去るという、<ジャック>の手口との共通点がハイライトされ、瞬く間にそれが世間の共通認識となった。そういう意味では、ヤードの情報操作は成功したと言えなくもない。
バドコックは当初この捜査に関与していなかったが、2件目の事件発生と共に広域捜査の責任者を命じられ、捜査の指揮を執ることになった。その前から事件の情報は間接的に聞き及んではいたのだが、実際に捜査資料を詳細に読み込んだ後、彼は頭を抱えてしまった。長年殺人事件の捜査に携わってきたバドコックだが、人を噛み殺すなどという、愚かとしか表現しようのない方法を採用した犯人に出会うのは、当然のことながら今回が初めての経験だったからだ。
彼に言わせれば、この犯人の手口はあまりに効率が悪すぎる。それ以上に、人体の一部を噛み切って殺害するという行為自体への、心理的抵抗が大きすぎると思う。勿論その様な嗜好の者が絶対にいないとは思わない。しかし、殺人の手段としてはどうだろうか。もし何らかの理由でその様な方法を選択せざるを得ないのであれば、まず被害者を拉致拘束するなりして、人目につかない場所で実行するのではないだろうか。いくら夜とはいえ、いきなり街中で道を歩いている人間を襲って噛み殺すという犯人の行動原理は、彼には到底理解出来るものではなかった。
バドコックは、人間が取るに足らない、他人から見れば本当につまらない理由で、いとも簡単に殺人を犯すことをよく知っている。これまでの刑事生活の中で、そのような犯罪者をうんざりする程見てきたからだ。その中には、殺害という行為から得られる快感自体が目的という者も僅かながらいた。そしてその様な輩は、当然のことながら連続して人を襲うようになる。だから今回の犯人もそのカテゴリーに含まれるのかも知れない。しかし犯行の動機はどうであれ、今回の事件のように襲ったその場での対象の殺害を意図する者は、出来るだけ短時間で効率の良い方法を選択するものだということを、彼はこれまでの捜査経験から熟知していた。その理由としては、犯人が自身の犯行を第三者に見咎められないためにそうするということも考えられる。しかしそれよりも相手からの反撃を恐れ、その前に出来るだけ大きなダメージを与えようとする、人間が本質的に持っている恐怖心に根差した行動原理だと、彼は思っている。従って相手の頸部を噛んで殺すという方法は、彼の経験則に裏付けられた犯人の行動原理から著しく逸脱していると言わざるを得ないのである。
攻撃対象の頸部を噛むという手段は、確かにビッグキャットが獲物を襲う時の手口と類似している。当初捜査員たちに、野生化したヒョウの犯行を連想させた理由もその殺害方法だった。しかしビッグキャットは獲物の喉首に食いつくことはしても、その部分を喰いちぎるような無様な殺し方はしない。彼らの手口は主に、獲物の喉に食いつき窒息死させるという、非常に合理的で洗練された殺害手段なのだ。つまりこの犯人は、獣以下の知能しか持たない、がさつで下品な殺人狂ということだ。
――まるで映画やテレビドラマに出てくるゾンビのようだな
そう思うゆえにバドコックは、この一連の馬鹿げた犯罪を繰り返す犯人から、人間の臭いを嗅ぎ取ることが、どうしても出来なかった。しかし一方で、そのゾンビ野郎を未だに逮捕出来ないどころか、特定すら出来ずに犯行を許しているというのが、彼と部下たちの目の前に立ちはだかる現実なのだ。
敏腕で鳴らした彼のチームは無論、ただ手を拱いていた訳ではない。捜査員たちはこの二か月余りの間、犯人の特定と再犯防止のために、文字通り不眠不休で捜査に注力してきた。彼らの懸命の捜査によって、膨大な数の証拠や証言が集められていた。そしてそれらの証拠や証言を篩にかけ、分類分析して犯罪を再構築していく作業が連日のように繰り返されてきたのだ。それにも拘らず捜査は行き詰まり膠着状態に陥ってしまっている。
その結果ヤードに対する世間の不満と不信は日々高まって行った。それが大きな社会不安へと転化して行き、やがてヤードに対する轟々とした非難が巻き起こることになったのは必然と言えるだろう。世間の非難の矛先は、当然のことながら直接捜査の指揮を執るバドコックに対しても向けられることになった。そしてその結果積み重なった彼の不機嫌は、今や爆発寸前の臨界状態に達しつつあるのが、部下たちには手に取るように分かっていた。バドコックは自分の感情を明白に表に出さず内に溜めこむ男だったので、日々険しくなっていく仏頂面、特に眉間の皺の深さは、彼の怒りと憤懣のバロメータだった。彼との付き合いの長い者は、その表情を見れば怒りの度合いが読めるらしい。今朝も彼の視線を極力避けるような挙動を示す捜査員が、そこかしこに見受けられた。
――糞ったれどもが
そんな部下たちを見てバドコックは、心の中で毒づくのだった。
しばらく現場での実況見分に立ち会い、必要な指示を出したバドコックは、後の指揮をベテランの部下の一人に任せて一旦オフィスに行くことにした。
雨はまったく止む気配がない。現場に着いた時と同様、空を恨めし気に見上げると、彼は雨晒しになっている被害者の遺体にもう一度目を向ける。おそらくインド系と思われる顔立ちの、かなり若い女だった。目の大きな、生前はかなりの美人だったと思われる容貌だったが、今その目は恐怖に見開かれ、無残な印象だけを残している。彼女の恐怖を思うと、犯人に対する昏い怒りが腹の底から湧き上がって来た。
バドコックは彼女に向けて、胸の前で小さく十字を切った。そして出来るだけ早く現場検証を切り上げて司法解剖に回すよう部下に指示すると、足早に車に乗って現場を離れた。
【03】
噛みたい。どうしても噛みたい。何日噛んでないだろう。もう我慢の限界だ。
駄目だ。噛んでは駄目だ。
噛みたい。頸を噛みたい。女の頸だ。
駄目だ。
噛みたい。頸を噛んだ時のあの感触。弾力があって、噛み応えがあって。肉に歯が食い込む時のあの感触。ああ、あの感触を味わいたい。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。
俺は一体どうしてしまったんだ?いつからこうなったんだ?
最初に噛んだのはいつだったろう?解らない。憶えてない。どうしてなんだ?
あれから仕事にも行ってない。ビルの野郎が、馘にするぞとか言っていたな。随分と前に電話を掛けてきた時だったか。あれはいつ頃だったろう?そんなに前でも無いような気もする。あれ?変だな。ついこの間のような気もするし、えらく前だったような気もする。
思い出せない。
そうだ!
あのビルの野郎は本当に嫌な奴だ。随分前からむかついて仕方がなかった。いつか殺してやろうと思っていたんだ。そうだった。どうして殺してしまわなかったんだっけ?どうしてだっけ?
まあ、そんなことはどうでもいいか。
怒鳴りつけてやったから。あれ以来電話も掛けて来ない。本当に馘になったのかも知れないな。それは仕方がない。こんな貌で仕事に行ける訳がないのだから。
しかしこのままではまずい。そろそろ現金も底をついてきた。
腹が減った。頼んだピザがまだ来ない。最近ピザしか食べてない。外に飯を食いに行く訳にはいかない。冷蔵庫も空だ。
駄目だ。また噛みたくなってきた。
ピザの配達人はいつもの若い男だろうか?女だったらどうしよう。噛んでしまうかもしれない。頸を噛んでしまうかもしれない。
駄目だ。部屋の前で噛む訳にはいかない。
噛んだら死んでしまう。殺すつもりはないのに。ただ噛みたいだけなのに。
噛んだらどうして死んでしまうのだろう?
だから部屋の前で噛んだらすぐに警察にばれる。捕まってしまう。
捕まったら一生刑務所暮しだろう。それでも構わないが、この貌を世間に晒すのは嫌だ。
俺がこんな貌になったのを知ったら、きっとママが悲しむだろう。そうなったらママが可哀想だ。だから警察に捕まる訳にはいかない。だから部屋の前で噛んでは駄目だ。
でも噛みたい。
駄目だ。部屋の前で噛んでは駄目だ。
うん?部屋の中ならいいのか?警察にばれないか?部屋の中で噛むのはいいのか?そうなのか?
いや、ばれるような気がする。部屋の中で噛んでも警察に捕まるような気がする。
でも噛みたい、噛みたい、噛みたい。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
噛みたい、噛みたい、噛みたい、噛みたい。
駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ。
噛みたい、噛みたい、かみたい、かみたい、かみ、かみ、…。
***
ヤードに出勤したフィリップ・バドコック警部は、上司のヴァスケス警視長に新たな事件について報告した。しかしヴァスケスは、彼の報告を聞いて大きな溜息をつくだけだった。もはや彼を叱咤する言葉すらない。
オフィスに戻って溜まっている事務処理を漸く終えた時、タイミングを見計らったように部下の一人が開け放してあるドアを遠慮がちにノックした。クリストファー・ウィットマンというベテランの刑事だった。バドコックが目で促すと、ウィットマン刑事は張り出した腹を揺すりながら、ゆったりとした足取りでオフィスに入って来た。
「どうした?」と言いながらバドコックは、部下にデスクの前の椅子を手で勧めた。
肥満体のウィットマンは大儀そうに椅子に腰かけると、
「警部。実は今日の被害者に関して、ちょっと気になる点がありまして」
と言いながらジャケットの内ポケットを探り、年季の入った革の手帳を取り出した。そしてそれを繰りながら報告を始める。
「被害者の財布に入っていたIDカードの情報では、彼女はネリー・クマール、19歳、インディア系のBOC(イギリス海外市民)です。現在RCM(ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック、王立音楽大学)に通う学生でした」
バドコックは現場の状況を思い浮かべた。記憶の片隅に、被害者の遺体から少し離れた場所に置かれていた黒っぽいヴァイオリンケースが蘇る。被害者への感情移入は捜査に良い影響を及ぼさないと、これまでの経験から重々承知しているバドコックだったが、19歳の若さで理不尽にも未来を奪われた被害者を思うと、腹の底にしまい込んでいた怒りがまたぞろ込み上げて来て眉間に険しい皺が刻まれる。彼の怒りの象徴だった。
そんな上司の様子を上目遣いに見ながら、ウィットマンは報告を続けた。
「両親とは先程連絡が取れ、モルグに遺体の確認に来てもらいました。ネリー本人であることの確認は取れましたが、一人娘だったようですね。母親の方が取り乱しちまって大変でしたわ。何せ遺体の状況があれですから。犯人の野郎を捕まえたら、絞め殺してやりたですよ」
「刑事が滅多なこと口走るんじゃねえよ」
バドコックは釘を刺したが、部下が愚痴りたくなる気持ちも分かる。ウィットマンもその辺りは察しているらしく、報告を続けた。
「司法解剖については父親の了解が得られたので、KCL(キングス・カレッジ・ロンドン)に送る手続きをしました。多分もう搬送されていると思います。」
「担当はブライアンの野郎か?」
「多分」
バドコックはブライアン・ケスラーの神経質そうな学者面を思い浮かべ、うんざりした気分になった。ウィットマンも同様らしく、肩をすくめる仕草をする。そんな部下をバドコックは顎で促した。
「ネリーは昨夜遅くまで、ヴァイオリンの練習で大学に居残っていたそうです。進級のための実技試験が近いとかで。一緒に居残っていた友人の証言が取れました。それによると夜8時過ぎに二人で大学を出て、サウス・ケンジントン駅で別々の路線に乗るために別れたそうです。その後ネリーは一人で自宅に帰る途中、あの路地で犯人の野郎に襲われたようですね。あそこは駅からの近道で、ネリーはよく利用してたようです。街灯がないので夜は暗くて人通りもほとんどない場所なんで、両親は大通りを通るようにと常々ネリーに注意していたらしいんですが」
そこで言葉を切ったウィットマンはバドコックの表情を覗ったが、反応がないのを見定めると報告を続けた。
「現場の実況見分は終わってます。何しろこの雨ですから、えらく難儀しましたけどね。残念ながら犯人の遺留品らしい物は、今のところ出てきてません。ただね」
目を閉じ俯き加減に部下の報告を聞いていたバドコックは、言葉を切った部下を、どうした?――という顔で見上げた。
「これまでの状況と違うところが一点ありまして。どうも財布の中身が抜き取られているみたいなんですわ」
「中身?金か?」
「ええ。今まで犯人の野郎は、被害者の所持品には一切手を付けてなかったでしょう?ところが今回に限って、財布が遺体から抜き取られて捨てられてましてね。中を見ると、小銭やカード類は残ってたんですが、キャッシュは残ってませんでした」
「元々キャッシュを持ってなかったんじゃないのか?」
「それも考えられますが、父親に聞くと、前日に娘に200ポンドのキャッシュを渡しているので、一日でそれを全部使い切っていたとは考えられないと言うんですよ。ですから少なくとも犯人の野郎が、被害者の財布からキャッシュを抜き取ったことは事実だと思います」
バドコックは少し考え込んだ後、
「後から現場を通りかかった不埒な野郎が、遺体から財布を抜き取ったってことは考えられないのか?」
と、可能性を口にした。するとウィットマンは、
「まあ、その可能性も無きにしもあらずですが。あの被害者の状況を見て、財布を抜き取ろうなんて気を起こしますかねえ?」
と、否定的な見解を示す。それにはバドコックも肯いた。確かにあの無残な遺体から財布を抜き取るのは、かなり勇気がいるだろう。いくら金が欲しくても、そこまでする欲ぼけ野郎がいるとは考えにくいし、考えたくもなかった。
「今のところ分かっているのは以上です」
そう言ってウィットマンは報告を切り上げた。そして「ご苦労だったな」という上司からの労い言葉を潮に、自席に戻って行った。
部下を見送ったバドコックは、宙を向いて考え込んだ。
(確かに財布の中身がなかったのは引っかかるな。犯人は何故今回の被害者に限って、財布を抜き取りやがったのだろう?)
これまでの6件の犯行では、財布どころか被害者の所持品には一切手が付けられていなかった。加えてこれまでの被害者たちには、性的暴行を受けた形跡も全く認められなかった。そのことが、殺人自体が犯行動機であるという推定につながり、犯人像を特殊なものにしていたのは否めない。
――しかし、そう決めつけるのは早計だったか?
――あるいは今回の犯行に限っては、他の人殺し野郎による模倣犯罪だというのか?
――いや、犯行方法は公開されていないから、模倣は出来ないはずだ
これまでの犯行現場で、第一発見者が被害者の遺体、特に首筋の傷口を見ている可能性はある。しかし、そこから犯人の殺害方法――被害者を噛み殺すなどという、馬鹿げた手段を想像することはかなり困難だと思われるし、実際にそれが世間に流布している形跡はなかった。それに単に金を盗るのが目的なら、それこそ真似すべき強盗犯はあちこちにいる。わざわざこんな手間のかかる殺し方を選択する必要はないはずだ。従って模倣犯の可能性は低いということになる。では偶然同じような動機を持って、共通の殺害方法をとる犯人が、同じ地区に出現したということだろうか。
――いやいや。いくら何でも、そんなことはあり得ない
バドコックはその可能性を即座に否定した。人を噛み殺すような大馬鹿野郎が、何人もいるはずはなく、仮にいたとしても、同時期に同じ場所に出現する確率などゼロに近いだろう。
――やはり今回の犯人も同じ奴だと考えるのが妥当だ。すると、今回に限って犯人が被害者の財布を抜き取った理由は何なのだろう?
バドコックは、自分が堂々巡りの思考の迷路を彷徨っていることにふと気づくと、思わず苦笑を漏らした。時計を見ると既に1時を過ぎている。彼は朝から殆ど何も食べていないことを思い出し、急に空腹を覚えた。
――とりあえず飯だ
バドコックは勢いよく立ち上がると、ランチに出かけることにした。
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