第8話
(後の世の者は、何の
文弱の身、それも徒手の
あの後、貪虚星君の首はひとりでに炎を放ち、燃え尽きた。
ひとまず脅威が去ったのを確かめて、安堵の息を吐いた後──当然、誰からともなく疑問の声が上がった。
『いったいなぜ、
『
『皇后様がどうとか言っていたが──』
その場の者の視線を一身に集めて、皇后は青褪め、ついで頬を紅潮させた。
『こ、これは
先ほどまでの優美さも嫋やかさもかなぐり捨てた、必死の形相の訴えは、一応は真実ではあった。
梓媚は確かに皇后を陥れようと企んだし、貪虚星君──
『凶星の不吉な光に、御心を乱されているご様子。なんてお気の毒に。もちろん皇后様は清廉な御方ですから、疑いを残さぬためにも、安心していただくためにも、お住まいをお調べしたほうがよろしいのでは?』
『おお、良い考えだ。凶星めの
いかにも気遣わしげな憂い顔で皇帝に進言した梓媚のことを、いったい誰が疑うことができただろう。糾弾されてなお、恐れることも悲しむこともなく、取り乱した皇后を案じる心優しい妃──そう信じ込んだ皇帝が、感激した様子を見せていたのに。
『貪虚星君がなぜ顕現したのかは、調べねばならぬが。少なくとも、そなたが治める後宮が理由であるはずがない! のう、少しだけ我慢してくれるな?』
『は……はい……』
間近に見た皇帝の言動は、目眩がするほど能天気なものだった。だが、それでも血の気の失せた皇后が、震えながら俯くのを見れば溜飲は下がった。
辰蘭と梓媚は、密かに視線を交わして頷き合った。
親友の、愛する者の命を奪った黒幕が見せた、すべてを失うことへの絶望の顔。さらには近い未来に待ち受ける破滅を予感して、兄妹は
そして、証拠が見つかり始めると、そういえばあれもこれも、という証言が続々と集まったのだという。妃嬪も宮女も宦官も、これまで皇后を憚って言えないことが多かったのだろう。
無論というべきか、皇后はあくまでも梓媚の陰謀だと主張した。「皇帝の寵愛を笠に着た寵妃の横暴」を訴えて味方を集めようとも、した。
確かに梓媚を怨む者や妬む者も多いのだろう。だが、皇后とは違って彼女は呪詛に頼ったことがない。争う時も陥れる時も反撃する時も、常に自分の手でやっていた。だから、皇后の訴えが取り合われることはなかった。
呪詛を行った者は、死を命じられるのが極の法だ。仮にも皇后を処刑して良いものかどうかで外朝では盛んに議論されているらしい。
それでも、皇帝がしかるべき判断を下すことを辰蘭は信じている。
皇后の呪詛は暁燕皇子や麗玉公主をも蝕んでいたのだから。平凡で善良な質であればこそ、御子たちへの危害は許しがたいと感じるだろう。
* * *
その日、辰蘭は前回よりもよほど滑らかに、かつ丁重に
落星の英雄、などというたいそうな美名は、後宮の通行証の役割さえ果たすらしい。例によってのたうち回りたくなる恥ずかしさはあるものの、妹と姪に会いやすくなったのは悪いことではない。
辰蘭の来訪を聞いて、梓媚は自ら出迎えに現れた。明るく華やかな笑顔は、冬の曇天の下、いっそう眩しい。
「お兄様。ようこそお出でくださいました。騒がしいのはもう落ちつかれたのかしら。お元気そうで何よりですわ」
梓媚の悪戯っぽいもの言いは、荒れ果てた
兄としては、妹が威圧するでも怒りを滲ませるでもなく、年相応の娘らしい笑顔を見せていることに、胸が詰まる。入宮以来、やはり梓媚は常に気を張っていたのだと、ふとした瞬間に何度でも突き付けられるようだ。
「ああ。お前も、な」
万感込めた短い相槌の後、辰蘭は声を潜めて妹の耳元に囁いた。
「あれは、奥にいるのか?」
「ええ。子供たちの遊び相手を務めてもらっています」
言葉を交わしながら、兄妹は殿舎の奥庭に足を向けている。梓媚のほかは選ばれたわずかな宦官や宮女しか立ち入ることを許されない、ごく私的な空間からは子供の高い笑い声がふたつ、響いてきている。
声の主は、ひとつはもちろん、
兄皇子に見劣りすることがないよう、常に大人しい良い子であるように。長年に渡って母に操られていた皇子は、
実際の年齢よりもだいぶ幼い言動の暁燕皇子は、もはや皇太子候補にはなり得ない。だが、
(韋貴妃は、気が気ではないかもしれないが。まあ、あえて梓媚に手を出そうとはしないであろう)
皇子の養育を任されたのは、皇帝からの信頼の証。そして何より、「落星の英雄」の妹となれば、何か不可思議な加護が働いてると思ってくれるだろう。その大それた異名の威光が薄れぬうちに、せいぜい良い成績で科挙に及第するよう、改めて励まなければならないだろうが。
彼が今日、後宮を訪ねたのは、鏈瑣の迎えのためだ。
貪虚星君の顔をはっきりと見た者は何人もいないはずだが、あからさまに不審な言動の者を衆目に晒すのはよろしくない。鏈瑣に普通の人間の演技ができるはずもないし。子不語堂の門前を騒がせる野次馬の人垣が、ようやく多少、薄くなったころ合いを見計らってのことだった。
(しかし、あれが子守とは。公主や皇子に噛みついたりしていないだろうな)
梓媚の目が光っている限り、滅多なことは起きないだろうが、何しろ相手はあの悪食の化物だ。一刻も早く引き取って、間近で手綱を握っておかなければ。──そう、心に決めて足を急がせる辰蘭の腹の辺りに、黒っぽく丸いものが飛び込んで来た。
「──っ、ぐぅ」
「先生! 助けてくれ!」
堪らず呻いて
どうにか顔を上げれば、首だけの姿の鏈瑣が、解いた髪を器用に操って辰蘭の胸に縋っている。久しぶりの再会に飛びついてきた、などということは、この化物に限ってあり得ない。
「どうした、このような姿で。人に見られたら何とする」
異形の生首を身体で覆い隠しながら、辰蘭は小声で
「……その女のせいだ。この俺に、
軋んだ声の糾弾を、梓媚は嫣然とした笑みで受け流した。目を剥いた兄に、玲瓏たる澄んだ声でこともなげに説明する。
「投げたり転がしたりすると音が出るから、ふたりともお気に入りなのですわ」
「悪趣味ではないか……?」
鏈瑣の首を抱えて歩き出しながら、辰蘭は苦言を呈した。さすがに見つかったらまずい、ということは梓媚も鏈瑣も分かっているのだろう。宦官や宮女の供を下がらせていた理由が、ようやく分かった。
その上で、なお──愛らしい皇子と公主が生首を追いかけ回す絵面はいかがなものか。
辰蘭の顔に浮かんだ疑問と戸惑いを読み取ったのだろう。梓媚は、柳眉を軽く寄せると、鋭い眼差しで鏈瑣を刺した。
「とても大事なことを黙っていたのですもの。当然の罰です」
「俺は、先生を喰うつもりは欠片もなかった! 世話になっているし!」
長く艶やかな髪で辰蘭にしがみついたまま、鏈瑣はせめてもの抗議と反論と弁明とを試みたようだった。が、梓媚は耳を貸さず、心を動かした気配もない。
「お兄様に何かあれば、桂磊様とお
梓媚のもの言いは相変わらず厳しかったが、辰蘭の胸にはじんわりと喜びが広がっていた。桂磊はもちろんのこと、この妹は芳霞も忘れてはいなかったのだ。亡きふたりにとっても、兄はかけがえのない存在であったのだと、認めてくれていたのだ。
「……妹に心配をかけるとは、兄として不甲斐ないことだったな……」
口では反省しつつ、そんなことはない、と応じてもらえるものと思い込んでいたかもしれない。だが、梓媚は兄の期待ほどに優しくはなく、眉を顰めて大きく頷いた。
「本当に。──不甲斐ないというなら、先日の件だけでなく、この三年の間ずっと、でしたのよ?」
弁明の余地のない糾弾だったから、辰蘭は苦笑で誤魔化すと、鏈瑣の髪をそっと撫でた。と、そこへ、甲高い声がふたつ、呼び掛けてくる。
「れんさー」
「早く、こちらへ!」
麗玉公主と暁燕皇子が遊んでいた奥庭へ、辿り着いていたのだ。鏈瑣がどれだけ気に入られているかは、ふたりの上気した頬ときらきらと輝く目を見れば明らかだった。
「先生……」
鏈瑣の縋るような眼差しに、心が痛まないでもなかったが。梓媚と、子供たちの機嫌を取るほうが、辰蘭にとっては優先だった。
「……しっかり務めるのだぞ」
「先生!」
悲痛な悲鳴は聞こえなかったことにして。それでも、せめてもの情けで、辰蘭は鏈瑣の髪を手近な木の枝に括った。子供が背伸びをして跳ねても、辛うじて届かない、くらいの高さだ。
「どうだ餓鬼ども、届くまい!」
「れんさ、ずるいー」
「麗玉、棒で落とそう」
ぶら下げられた玩具に子供たちが伸ばす手を避けて、鏈瑣は髪を操って左右に揺れる。異様で、ともすれば恐ろしく──けれど同時にどこまでも和やかな、何とも不思議な光景だった。
「──後宮の掃除は進んだか」
妹と並んで、子供たちが
鏈瑣を後宮に預けていた理由は、もうひとつあった。
妹と姪たちが暮らす場所に、人に害をなす
(つまりは、『落星の英雄』の手柄になるということなのだが……)
身に余りすぎる名声を得てしまうことには、いったん目を瞑るとして。辰蘭は、鏈瑣に後宮を狩場にすることを許していたのだ。人を決して傷つけず、姿を見られもしない限りにおいて、好きなだけ喰って良い、と。
後宮には、無念の思いを抱いた
「うむ。
虚空を食い尽くすほどの貪欲さ、あるいは虚空のごとくに尽きせぬ貪欲さを謳われた凶星は足りることを知らなかった。量だけでなく、味のほうもうるさくなってしまったようだ。
(まったく、困ったやつだが)
鏈瑣のおねだりの眼差しを受けて、苦笑で済ませる辰蘭こそ困ったものではあるのだろう。
退治したはずの凶星を飼い馴らし、どうやって腹を満たしてやろうかと心を砕いているのだから。人だけは襲わせまいと決意してはいるが、傍から見る者がいれば、彼こそ人の道を踏み外しているとしか思えぬだろう。
だが、それでも。
「目新しいものが喰いたいか」
「無論!」
辰蘭は、この化物と共に怪力乱神を語ろうと決めたのだ。
いつか、
目に見えるもの、理屈で解き明かせるものだけがすべてではないく、君子ならざるはぐれ者だからこそできることもある、と。鏈瑣といるうちに悟った気がする。
官途を得た後も、彼は鏈瑣を連れ歩くことになるだろう。ふたりして何を為すのか、後の世でどのように語られるのか、今はまだ分からないが。
「では──帰ろうか。我らの子不語堂へ」
「うむ!」
辰蘭が告げると、鏈瑣は満面の笑みで応えた。
あの扁額を掲げていれば、必ず鏈瑣の舌を悦ばせる不思議の影が訪れるだろう。それだけは確かだった。
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