第7話

 辰蘭しんらんの耳元で、逆巻く風がごう、と轟いた。凶星の不吉な輝きに眩んだ視界にちらつく銀の光は、砕けた鎖か。雪片めいた細かな煌めきは、強い空気に叩き落とされるように眼下に散っていく。


(飛んで──!?)


 辰蘭を抱きかかえた格好で、鏈瑣れんさは宙に舞い上がっていた。意識を失っている間にどれだけの時間が過ぎていたのか、見開いた目に映るのは、黄昏時の濃紺の空。

 ほんらいならば、間もなく夜のとばりが降りるころだろうに。地平にわずかに留まる深紅の残照は、凶星の光を受けていっそう紅く激しく燃えている。


「これだけ高く飛んだのは久しぶりだ! 気分が良いものだな!」


 昼夜が交錯する空を見渡して、目を細めて笑う鏈瑣は、常にも増して妖しく美しい。解き放たれた高揚に目を煌めかせ、自らが放つ光と空の色によって、頬に朱が差して見えるからだ。

 その美は、声も出せず身動きひとつ取れず、宙に攫われた身の辰蘭でさえ、見蕩れてしまうほど。だが──化物はやはり化物なのだ。


「これはまた、がっちりと喰い込まれて──」


 辰蘭を見下ろして、鏈瑣はにんまりと笑んだ。大きく開いた口が眼前に迫る。


「……っ」


 いつかの縊鬼いきのように引き裂かれるのを覚悟して、辰蘭は身体を固くした──が、鏈瑣が喰いついたのは彼の首筋ではなかった。

 ぎゃん、と。鏈瑣の声以上に耳障りな悲鳴は、全身を切り刻まれた猫が発したものだ。同時に、辰蘭の身体が軽くなる。彼に憑いていた猫鬼びょうきを、鏈瑣が引き剥がしたのだ。


「皇后は呪詛が巧みだな。先ほどのもも、とても美味だ」


 食通めいたことをうそぶきながら、鏈瑣は猫鬼を噛みちぎっては首の動きで宙に投げ、口で受け止めてはまた咀嚼している。辰蘭を抱えて両手が塞がっているからだろうが、無作法なことこの上ない。


「鏈瑣! ──貪虚たんきょ星君せいくん!」


 身体の自由が戻ったのを幸いに、辰蘭は腹の底からの大声で呼ばわった。この化物の好きにはさせぬ、という意地が彼に力を与えていた。だが、憤りに満ちた一喝を、化物はいつもの小言と同じ調子で受け流す。


「ああ──今、縄を解くから。じっとしてくれ」


 警戒の気配もなく手足の戒めが解かれるや否や、辰蘭は鏈瑣に拳を振り上げた。


梓媚しびも公主も喰わせぬぞ。封印の鎖は、まだ残っているのだろう!?」

「わ」


 支えるものなどなく、当然のことながら足も浮いた空中で。どういう仕組みによってか、鏈瑣は身体を傾がせた。同時に、辰蘭も危うく揺れる。天地の境がになる、人の身にはあり得ぬ視界に思わず喘ぐと、先ほどよりも強く、ほとんど抱き締められるように抱えられた。


「暴れると落ちるぞ、先生」


 ぎしぎしとした悪声で、耳元に囁かれるのも。心配げに覗き込まれるのも。存在そのものの格の違いを見せつけられるようで屈辱だった。ぎり、という歯軋りと共に、絞り出す。


なぶるつもりか」

「もしかして、怒っているのか? なぜ?」


 首を傾げる鏈瑣の目には、不安と、不満の色さえ宿っていた。支えてやったのに、と言いたげな顔つきに、化物にはやはり人の心がないのを突き付けられて。辰蘭の声も視線も尖る。


「化物にまんまと欺かれていたのだ。どうして怒らずにいられよう」

「欺く、などと……ちょっと、黙っていただけで」


 小声で言い訳がましく呟いた後、鏈瑣ははっと目を見開いた。何か、重大なことに気付いたかのように。


「あの女は、分かった上でやったのだぞ!? 貪虚星君おれの輝きは皇后の目を眩ませるのに十分だから、と。ほら、人も集まっている!」


 鏈瑣が指さしたのは、遥かな地上──そこに広がる、皇宮の殿舎の数々だった。凶星の光が、貴色の黄の瑠璃瓦るりがわらがを照らすと、金の波が連なるよう。

 至尊の皇帝の御座所を足もとに見下ろす不敬、不遜に気付いてしまうと、高さによってだけでなく目眩が辰蘭を襲う。


 それでも、目を凝らせば蟻の群れのように人が慌ただしく行き来しているのが何となく分かった。弓やいしゆみを構えてこちらを狙う者もいるようだが、まあ届かないだろう。


(地上からは──どのように見えている? どのように事態を捉えているのだ?)


 突如、眩しい星が皇宮の真上に現れたのだ。先ほどの鏈瑣の哄笑は、どれだけの者に聞こえたのだろう。


(貪虚星君の名が、聞こえたとしたら──)


 それは、一大事ではないのだろうか、と。辰蘭がようやく思い至った時だった。鏈瑣が再び、高らかに笑声を響かせた。


「皇后が呪詛を企むとはぎょくの国も堕ちたものだな! お陰で封印を逃れることができたぞ……!」


 明らかに事実とは異なる、嘘偽りだった。それをわざわざ地上に向けて、やたらと大きな声で、鏈瑣は告げた。さらに言うなら、何かを読み上げるような、わざとらしい平板さで。その不自然さに、辰蘭は少しだけ冷静さを取り戻した。


「……梓媚の仕込んだか?」

「うむ。あの後、洗いざらい何もかもを吐かされたのだ」


 軽く首を竦めた鏈瑣の姿は、叱られてしょげ返った子供のようだった。地上に災厄をもたらした凶星を、辰蘭の妹は怯える風情が見えるほどに叱りつけて絞り上げたらしい。


「人を喰うよう命じれば、鎖が砕けて凶星おまえが解き放たれることも?」

「うむ……怖かった……」


 つまり、彼女が鏈瑣の真の名を聞いて首を捻っていたのは、伝説に似つかわしくないがさつさだけが理由ではなかったのだ。


「皇后が俺の正体に気付かぬはずはないし、気付いているなら迂闊な手出しはさらにあり得ぬ、と。……何か隠しているだろうと、詰め寄られた……」


 鏈瑣が辰蘭を抱える腕に、少し力がこもった。まるで、叱られた子供が慰めを求めて縋りつくよう──などと絆されるには、この化物に対する信頼めいたものは擦り減り切っている。


「梓媚を喰うつもりはないのか? 人間風情に使役されるのは屈辱であろう?」

「いや、別に。腹が減らぬならどうでも良い」


 躊躇いもなく頷いてから──辰蘭の疑いに満ちた眼差しに気付いたのだろう、鏈瑣は慌てたようにまくし立てた。


「ただ、ほら。貪虚星君を御した、などと言い回られて、より強固な封印を施されては困る。天に帰るのが面倒なのも嘘ではないが、邪魔な鎖は減らしたかったし。だから──ほどほどに喰ったら身を隠していたのだ」

「お前にほどほど、などという概念があるのは驚きだな」

「まったく喰えなくなるよりは、幾分マシだからな」


 どこまでも食欲が第一の鏈瑣は──鏈瑣、なのだろうか。悪名高い貪虚星君ではなくて。人とは相容れぬ化物には違いないとしても、邪悪ではない。


を邪悪たらしめるのは人間の欲でさえあるかもしれぬ。美味いと思うのは人だけではないようだし……?)


 化物寄りの思考に傾いていたことに気付いて、辰蘭は顔を顰めた。すると、それをどう勘違いしたのか、鏈瑣が身を乗り出してくる。


「あの女と俺の利害は一致しているのだ。皇后は、俺を地中深く埋めるか、海に沈めるかするに違いない! 使いこなせぬのは分かっているし、かといってほかの者に渡すはずはないのだからな!」

「それは──まあ、そうか」


 空の上で、眩い光に包まれて、いったい何をしているのだろう、という気分になってきた。必死の表情を浮かべて迫る麗しい顔を手で制しながら、辰蘭は念を押した。


「……先ほどの梓媚の命令は、方便だったということか」

「そうだ。鎖が解ければ、ほんの一瞬だが自由に動けるからな。その間に存分に皇宮を脅せ、と言われた」


 梓媚の与えた台詞と役どころは、化物にとっては楽しかったのだろうか。鏈瑣は、意気揚々と胸を張った。と、その得意げな笑顔を包む光が、少し、かげる。

 どこからともなく現れた鎖が、鏈瑣の手足に絡みついていた。つたいばらが生い茂るかのように、自らの意思があるかのように、鎖は彼の四肢を這い上り、凶星の輝きを覆い隠していく。


「次の封印か。お前は──」

「眠ったりせぬよ」


 化物を案じるような調子になったことに驚いて、辰蘭は声を途切れさせた。彼の戸惑いには例によって頓着せず、鏈瑣は蕩けるような笑顔で囁いた。


「あの女は先生を、好きにしろと言った。だから好きにする。次の鎖の主は、先生だ」

「え、なぜだ」

「美味いモノが喰えそうだからだ!」


 鏈瑣は、興奮した犬がじゃれつくように辰蘭を激しく揺さぶった。何しろ、いまだ遥かな上空で、しかも周囲が闇に呑まれつつある中でのことだ。思わず相手にしがみついた辰蘭の動揺にも気付かぬようで、はしゃいだ悪声が耳元で喚く。


「先生は出世するのだろう? あちこちの任地に出向くのだろう? ついて行けば山海の珍味が食べ放題だろう!」

「山海の……?」


 ようやく体勢を整えて問い質すと、鏈瑣は満面の笑みで大きく頷いた。


「贄を求める竜王とか。淫祀邪教いんしじゃきょうの徒が崇める精怪せいかいとか。古戦場にはいまだゆうれいたむろするのであろうし──民のためには、そのようなやからは退治せねばならぬよなあ!?」


 と、梓媚は語って聞かせたのだろう。悪食の化物が気に入るような都合の良い未来を。


(短い時間で、こいつの性格をよく把握したもの……)


 あるいは、辰蘭あにの心の変化をも、だろうか。子不語しふご堂などと掲げて人の世に背を向け、怪力乱神かいりょくらんしんと戯れようとした──その挙句に、彼はすいぶん化物に馴染んでしまったようだ。

 飢えたままでは気の毒だ、人は無理でも精怪せいかいの類は喰わせてやれないものか、と考えるほどに。


(この化物を従えて各地を巡る──それもまた、楽しい、か……?)


 辰蘭の胸に芽生えた高揚を、鏈瑣の楽しげな声が、煽る。


「あと、敵も増えるよな? 呪詛されることもあるであろう。それも皆、俺が喰ってやる」

「それは──頼もしいな」

「だろう!」


 ふたりが笑い合った時には、凶星の輝きはほとんど失われかけていた。視界にちらつく残光が、闇に呑まれて消えていく。

 星なき夜空の下、鎖を差し出した鏈瑣の手は、それでも白く浮かび上がる。


「極の太祖が施した、六七二本目の鎖だ。うっかり壊さぬように、気をつけるのだぞ?」

「私が手綱を握る限り、凶星おまえに災いはもたらさせぬ。そうあるように、己を律し続けよう」


 受け取った鎖は、辰蘭の掌に吸い込まれ、解けるように消えた。それが鎖の主になるということだと、説明されずとも理解できる。彼は今や、この化物と見えない絆で結ばれた。


 内緒話をするかのように、鏈瑣がそっと、辰蘭の耳に唇を寄せた。


「あの女、皇帝も呼び出しているぞ。皇后と共にお茶でも、などと言って。も、用意されているから──」


 妹の筋書きを囁かれる間に、皇宮の屋根を彩る瑠璃瓦がみるみるうちに近づいていた。落ちているのか、降りているのか分からぬまま、目を見開いて空を仰ぐ宦官や宮女の呆然とした顔が迫る。


 貪虚星君の力の、最後の名残なのかどうか。辰蘭はふわり、と地に降り立った。星々の高みから落下したなら、人の身体は砕け散っていただろうに。羽のように軽く、音も衝撃もなく。


「き、貴様──何者だ……!?」


 皇宮に侵入した男を捕えようというのか、それとも化物の類と思われたか。辰蘭を取り囲み、詰め寄ろうとした兵たちは、けれど顔を引き攣らせて足を止めた。

 彼が手にしたおののいたのだろう。たいそう美しい若者──鏈瑣の、首だ。のほうは、思静しせい殿にでも逃げ帰っているのだろう。


「──そなたは? なぜ空から現れた?」

「主上! 近づいてはなりませぬ!」


 と、どこかぼんやりとした顔つきの中年の男が、兵を掻き分けて近づいてきた。纏うのは龍の意匠の黄袍こうほう、兵の狼狽えよう、至尊の称号。何より、その男は片手に梓媚を抱きかかえていた。


(この御方が──)


 皇帝の龍顔りゅうがんを直視する機会など、恐らくは二度とあるまい。いかにも平凡そうで、けれど同時に善良そうな男の顔を脳に刻んだところで、辰蘭はその場に平伏した。


わたくしは、いん家が嫡子の辰蘭と申します。そちらの寧妃ねいひ様の兄でございます」

「ああ……」


 皇帝の、分かっているのかいないのか分からない相槌を聞きながら、辰蘭は鏈瑣の首を捧げ持った。一瞬だけちらりと見えた妹は、満足そうに微笑んでいた。筋書きが上手くいったのを見届けた、会心の笑みだ。細められた目が、兄に、、と告げていた。


(まったく、恥ずかしい台詞を言わせる……!)


 りゅう皓君こうくんの時に道士を演じたのとは比べものにならない羞恥に、辰蘭の頬は燃えるように熱くなっている。だが、幸か不幸か、伏せた顔を覗き見る者はいないだろう。だから──堂々と言ってしまえば、演技が露見することはない。


「私が、貪虚星君を退治しました」


 鏈瑣の首が、笑いを堪えるかのように小さく震えたのが手に感じられた。真面目にやれ、と。放り投げてやりたい衝動を抑え込むのは中々の難事だった。

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