樹精に恋した娘、あるいは
第1話
「
「そのような──何者でもない身ですのに。身に余るご歓待、恐れ入ります、
彼は今日、
劉家は、辰蘭の実家の
その余裕ゆえか、辰蘭が通された
科挙の受験を投げ出して、
従者のような澄ました顔で、表面だけは恭しく付き従っている
なのに、劉家の当主は、三十近く年下の若造に、商人めいた卑屈なにこやかさで丁重に接してくれるのだ。
「ご謙遜を。龍淵の平穏は若君あってのことと聞き及んでおります。偽
「それは、
「いやいや、ご謙遜を。ほんらい捜査に当たるべき者たちも恐れをなして及び腰になっていたという話ではありませんか」
劉大人の、やけに熱と──それに、期待めいたもののこもった眼差しが不穏で、辰蘭は曖昧に笑って目を逸らした。何を言っても、良いように解釈されるのだろう、という気がしてならなかったのだ。
(本当に、大したことはしていないというのに……)
夏の縊鬼騒ぎと、その裏に辰蘭の活躍があったことについては、思いのほかに方々に広まっているようだった。
殷家の若君は学問に秀でるだけでなく、不可思議な術をよくするようだ、
「いまだ学生のうちから目を瞠るご活躍、殷
劉大人が口にした名は、尖った針のように鋭く辰蘭の胸を刺した。強張った表情を隠すため、彼はできるだけさりげなく、出されていた茶器を口に運んだ。
「ええ……そうですね、そうかもしれません」
寧妃、というのは、後宮の妃の位階のひとつだ。皇后の下に幾つか設けられた妃の位階としては最下位になるが、後宮にひしめく美姫の多さを考えれば抜きんでた地位にはなるのだろう。
今現在、寧妃の位を占めるのは辰蘭の妹の
(梓媚には婚約者がいたのに。それを無理に後宮に納めさせる皇帝に仕えるなど……!)
難関を潜り抜けた先にあるのがその道なのか、と思うと、勉学に励むなど虚しいだけだ。これで妹が泣く泣くさらわれたというのなら、助けるためにも地位を望んだかもしれないが──幸か不幸か、後宮での寵愛争いは梓媚の気性に合っているようだった。兄としてはどんな顔をすれば良いか分からない。
「公主もお生まれになって、ご寵愛もいやますことでしょう。母君に似て、さぞや美しい姫におなりでしょうな」
「そうですね。寧妃様は容色に秀でていらっしゃいますから」
梓媚は、後宮に入って早々に懐妊していた。これがもしも皇子であれば、実家の増長も後宮の混乱も大変なことになっていただろう。辰蘭は心から公主で良かったと思っている。
(梓媚のほうでは、どう思っているか分からないが)
梓媚に似たのであれば公主も愛らしい姫に育つのだろう。事実、皇帝も溺愛していると
よって、彼女は足場を固めることを切望しているのだろう。後宮のどこかに封じられていたらしい鏈瑣を兄に押し付けたのもその一環だ。科挙の受験を放棄するのを認める代わり、自身と実家に利するような功績を上げろ、というわけだ。
(劉大人は、まんまと引っかかった、ということになるか? それとも私こそが上手く乗せられているのか……?)
いずれにせよ、辰蘭がここにいるのは妹の差し金があってのことだ。
何かしらの困りごとを抱えた劉家に、それなら我が兄が、と申し出たらしい。辰蘭のほうにも、何としても解決のために尽力せよ、との手紙が届いている。劉家に恩を売って手駒に加えたい、ということだろう。
実家や妹の思惑など知ったことではないが──彼に依頼するからには、劉家の困りごととやらには、尋常ではないことが絡んでいるはずだ。ならば確かに、
「──ご息女には、寧妃様にお仕えしていただいていたとか。そのご縁でのお話と伺っておりますが……?」
妹について頑なに称号で呼ぶのは、冷たく思われるだろうか。それとも、単に敬意を表してのことだと思われるだろうか。あるいは、気にする余裕がなかっただけかもしれないが──とにかく、辰蘭が水を向けてみると、劉大人は大きく頷いて身を乗り出した。
「ええ、ええ! 寧妃様が後宮に入られてからついこの間まで、傍近くお仕えさせていただきました。縁談がありましたゆえ、特別に願って下がらせていただいたのですが──」
望まれて後宮に入るのは別格の話として、娘をどこに嫁がせるは家の存続や繁栄のためには重要なことだ。劉大人の満面の笑みからして、令嬢はさぞ有望な相手と縁づいたのだろう。
「ですが、娘の様子がどうもおかしいのです。おかしい、と申しますか──食事もろくに喉を通らず、日を追うごとに
「なるほど。ご心配でしょうね」
辰蘭の視界の端で、
化物の食欲を満たすのも、妹の勝手な期待に応えるのも、彼の目的ではないが。とはいえ、事情は聞いておかなければならない。
(まあ、心当たりがないから困っているのだろうが)
尋ねたところで、有益な情報が得られる見込みは低いだろう。念のため、のつもりで辰蘭は問うてみたのだが──
「ご息女の異変は、ご実家に戻られてから、なのでしょうか。何かお心あたりはあるのでしょうか」
「ございます!」
劉大人は意外なほどに力強く断言した。首を縦に振った勢いのまま、視線を窓の外に向ける。
「娘は、
言われて辰蘭は思い出す。室内には、桂花の香りが常に甘く濃く漂っていたことに。
人の娘を惑わす存在が放つものかも、と思うと、その柔らかく可憐な風情の香りも、どこか不穏に感じられた。
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