第7話

 数日後、司獄司しごくしを訪れた辰蘭しんらんに対したしょう司獄しごくは、いつもにも増して険しい顔をしていた。


(疲れもあるだろうし、無理もないことだが……)


 縊鬼いきを隠れ蓑にした盗賊団の捜索および捕縛に加えて、無位無官の若造である辰蘭が、無関係の事件を掘り起こしたのにも対応しなければならないのだ。猛禽さながらの鋭い目は、余計なことをしてくれた、と言わんばかりだった、と思ったのだが──


巷間こうかん蔓延はびこる流言を見過ごし、賊を跋扈ばっこさせ、あまつさえ便乗を目論む者を出したのは、司獄司の不手際であった。婦人ひとりの命を救ったことについて、若君には感謝せねばならぬ」

「はあ」


 葉司獄は、苦虫を噛み潰したような顔つきのまま、精緻な印刷の宝鈔紙幣を卓上に載せた。付記された文言からして賞賜しょうしのために特別に発行されるもののようだ。恐らく、早々出回るものではないのだろう。

 珍しいものを目にした感慨はありつつ、辰蘭は首を振って固辞の意を示した。


「私には不要のものでございます。此度の婦人──鄭氏にお渡しくださいますように。夫が捕らえられても、借金はまだあるのでしょうから」

くだんの婦人は私が手厚く援助するゆえ気遣いは無用。──若君からの施しは喜ばぬであろうしな」


 葉司獄の指摘はまことにもっともで、辰蘭に返す言葉はない。彼の耳には、あの夜、捕吏が来るのを待つ間に鄭氏が嘆いた言葉がまだ刺さっている。


良人おっとが私を殺そうとしたなんて。それを知った上で生き長らえてしまったなんて。あのまま死んでいたほうが良かった……!』


 辰蘭の推測は、大筋では当たっていた。


 張は、妻の鄭氏にこう命じた。しばらく身を隠すから、夫は縊鬼になったのではないかと言いまわれ、と。失踪したというのも偽りで、夫婦は実は密かに連絡を取り合っていたのだ。その点、借金取りは目敏くはあったのだろう。

 酷薄かつ現実的な借金取りが、縊鬼の話を真に受けなかったことも張には伝えられていたから、第三者からもを得るために、いかにも怪しい──と思われた──子不語しふご堂を訪ねた、というのも辰蘭が考えた通りだった。


紫姑しこ神の託宣、では信用されぬだろうしな)


 素人の術で降ろしたかわやの神が、夫は縊鬼になったと言っていた──などと吹聴しても、自分に都合の良い作りごとだと思われるだけだろう。


(いや、あの女人は実際に紫姑神を試したのだったか)


 鏈瑣れんさとして取って食われた黒い小怪に、鄭氏は何を尋ねたのだろう。夫の無事は知っていたなら──夫の本心、だったのかもしれない。

 借金取りに対応するのに妻を矢面に立たせ、いかにも怪しい、苦しい主張を吹聴ふいちょうさせた夫に、果たして夫婦の情はあるのかどうか。妻を苦境に残して、ひとり逃げるつもりではなかったのかどうか。


 辰蘭には問うまでもなく明らかにも思えるのだが──鄭氏は、信じたかったのだ。そしてその儚い信頼が最悪の形で打ち砕かれたのが、あの夜だった。


(余計なことだったのかもしれないが。男が、妻を迎えに来るために現れたのなら良かったのだが……)


 死んだほうがマシだった、という想いは辰蘭にも分からないでもない。だが、だからこそ──と思うのも傲慢なのだろうが──死なせてやるわけにはいかないのだ。


 沈思してしばらく口を閉ざしていた辰蘭に、葉司獄は咳払いをした。


「若君にはまだお分かりではないかもしれないが。金は重要なものだ。失礼を承知で申せば、ご実家からのものでないならば、特に」


 実家に頼らず自立せよ、そのために稼ぐことを卑しむな──年長者からの忠言はまったく正しく、未熟な若造の胸には鋭く刺さった。実家を飛び出したつもりで、彼にはまだ甘えがあったのかもしれない。


「……ごもっともです。謹んで、拝受いたします」


 だから辰蘭は威儀を正して宝鈔を受け取った。


      * * *


 その夜、子不語堂に戻った辰蘭は、ひとり酒杯を傾けていた。鏈瑣は、空腹を紛らわすために龍淵りょうえんちまたをさ迷っているはずだ。人に害を為すことは厳禁しているが、虫や獣の精怪の類なら、多少減ったほうが人の営みのためには良いはずだ。


 庭から漂う梔子くちなしの花の香りが闇に溶けていっそうかんばしく、酒にさえ染み込むようだった。ただ、舌に感じる甘さとは裏腹に、辰蘭の腹の底には苦い思いがわだかまり、心地良い酩酊を楽しむにはほど遠い。


「後味の悪い依頼だったな……」


 鄭氏の依頼を叶えたとはいえ、それは形だけのこと。彼女の本願は、夫が縊鬼になった、借金を逃れ、どこか遠い土地で夫婦でやり直すこと、であっただろうに。

 未遂であっても殺人は重罪、張は相応の刑に服することになる。借金も帳消しというわけにはいかないし、何より、殺されかけた相手と復縁することなど考えられぬだろう。葉司獄が援助するといっても、あの女人の心が安らぐことなどあるのだろうか。


(それに、結局のところ今回の事件は人が起こしたものだった……)


 子不語堂などと掲げてみても、訳の分からない化物を居候させても、本物の怪力乱神かいりょくらんしんにはそうそう会えないものらしい。細かな精怪ならまだしも、神仙しんせんや人のゆうれいは、特に。


 溜息と共に、酒を吞み干した時だった。辰蘭は、頬に空気の流れを感じた。外から吹き込んだ微風が、鼻先に梔子の香りを運ぶ。


「鏈瑣。もう戻ったのか」


 今宵も今宵とて月はなく、砂粒のような星だけが撒かれた夜空から降る灯りは心もとない。香りだけを頼りに、辰蘭はを終えた鏈瑣かと判じた。常に空腹を訴える大喰らいの化物だから、彼が眠る前に帰るのは珍しくはあるのだが、まあそういうこともあるだろう、と。


「今宵は早かったな──?」


 だが、それにしては鎖の音がしない。不思議に思った瞬間に、辰蘭の全身が粟立った。季節に合わない寒さと──驚愕と、恐怖によって。


 彼の目の前に、老婆がひとり、佇んでいる。知らない顔だ。


 細かな刺繍の衣装からして、それなりに裕福な家の者だと察せられる。が、ほんらいは艶やかなはずの絹はやけに色褪せ、金銀の箔は剥がれ落ちている。

 老婆の肌は年齢に拠るもの以上に萎び乾いて骨に張り付き、目は落ち窪んで骸骨のよう。虚ろに空いた口からは、舌がだらりと長く垂れている。生気がない死体のような──否、死体が墓穴から這い上がったかのような姿だった。

 何より、首が異様に長い。引き伸ばされたように不吉に細い首に、帯らしき布が巻きついている。それが、意味するところは──


(縊鬼。本物の……!?)


 慌てて立ち上がった拍子に、酒器が卓から落ちた。磁器が割れる高い音が響き、残っていた酒が床に広がる。が、老婆の衣装の裾が濡れる気配はない。暗く淀んだ目には感情が窺えぬまま、それでも辰蘭を凝視しているのはどうにか分かる。


 縊鬼が彼のもとを訪ねる理由に心当たりは──一応、なくもない。


ゆうれいは騙られるのを嫌う、だったか? 私に怒っているのか? 張をおびき出すのに利用されたから……?」


 問うてみても、老婆の縊鬼は何も答えなかった。ただ、枯れ枝のような手で首に巻き付けた帯をしゅるしゅると解く。

 すると、帯は意思を持つかのようにひとりでに伸び上がり、宙に輪を作った。恐らくは、老婆が自死した時のように。自らの体重によって、彼女の首はこんなにも伸びたのだ。


(これが縊鬼の手口か。こうして、生者を死に誘う──)


 そうと理解しても、逃げようとは思えなかった。それどころか、辰蘭は縊鬼のほうへと足を進めてしまう。

 帯が作った不吉な輪の中に、懐かしく愛しい面影が見えたからだ。


「……芳霞ほうか


 二度と会うことはできないと思っていた許嫁いいなずけが、微笑みかけてくれている。子不語堂を構えて三年、姿を見せてくれなかった彼女が、すぐ傍に。に行けば会えるのだと、なぜか確信できた。

 現世こんなところでぐずぐずしている場合ではない、早く彼女に詫びなければ。


 焦りに駆られて、辰蘭は慌てて椅子に登った。そうして手を伸ばせば、縊鬼の帯はしっかりと手で触れることができる。なぜかは分からないが幸いだった。のもとに行けるのだから。


 いっそ浮き立つ思いで、辰蘭は喜んで帯の輪に首を突っ込んだ。背伸びをした爪先で、椅子を蹴る。首に帯が食い込む感覚さえ心地良く、うっとりと目を閉じた──辰蘭の耳に、しゃらり、と鎖が鳴る音が届く。


「なんだ、が出向いてくれているではないか!」


 ひび割れた声が高らかに笑ったかと思うと、猫の首でも絞めたかのような悲鳴が耳をつんざいた。ふたつの噪音そうおんに顔を顰める間もなく、辰蘭の身体は支えを失って落ちる。


(な、何だ……?)


 浮遊感を覚えたのは一瞬にも満たない間のことだった。全身を襲った痛みと衝撃、そして首を絞められかけた苦しさに咳き込みながら、辰蘭は顔を上げた。


 そこには、悪夢のような光景が広がっていた。


「先生が囮になってくれたお陰だな。礼を言わねば」


 機嫌良く笑う鏈瑣の声がくぐもっているのは、行儀悪くを咀嚼しているからだ。できたての饅頭マントウを割るかのように、化物の白く美しい手がしっかりと掴み、引き裂いたのは──無論、老婆の縊鬼だ。


 縊鬼の身体は真っ二つに裂かれていた。にも関わらず、いったいどのような造りになっているのか、鏈瑣と同じく血も出ないようだ。だが、痛みや恐怖は感じるのか、鏈瑣が形良い唇を寄せては身体を食いちぎるたび、老婆の顔はすさまじく歪み、口からは獣じみた悲鳴が垂れ流される。


 おぞましい捕食の光景から目を背け、宙に視線を向けてみれば、そこにあるのは闇だけだった。の──芳霞の微笑は、もはや見えない。


「私、は──」

「何を見たかは知らぬが、縊鬼の術のうちだぞ? 獲物が望む幻を見せて自ら死ぬように仕向けるのだ、らは」


 首を振って、瞬きながら。掠れた声で呟く辰蘭に、鏈瑣は軽く首を傾げた。縊鬼の悲鳴をまったく意に介さぬ美しく無邪気な笑みに、やはり人間ではないのだと突き付けられる。


「幻。では、彼女ではないのか」

「誰だか知らぬが、恐らくな。なんだ、止めて欲しくなかったのか?」

「……いいや。助かった、と思う」


 床の上でどうにか姿勢を正して拝礼すると、悪食の化物はにんまりと笑みを深めた。


「酒を呑んでいたようだな? まだあるのか? 礼をするなら酒を出せ。ちょうど、良いもあることだし」


      * * *


 その後の酒は、それはもう不味いものだった。鏈瑣は久しぶりの大物をじっくり味わうことにしたらしく、縊鬼の恨めしげな悲鳴を長々と聞かされながら呑むことになったからだ。


「此度の件で、子不語堂の評判も広まるのではないか? また美味い獲物がやって来てくれると良いのだが」

「まあ……そうだな。そうかもしれぬ」

「先生を狙うモノは皆、喰ってやるから」

「それは安心だな」


 鏈瑣が頼もしく請け負うのは、絶対に彼のためではなく自身の食欲のためだった。そうと分かり切っているから、辰蘭は気のない相槌を打つと酒を啜った。


(まあ──それならそれで、気楽で良いが)


 辰蘭が縊鬼に誘われるままに死のうとした理由は、化物の興味の外のようだから。これが人間だったら、根掘り葉掘り問い詰められていたことだろう。


 依頼を通して、辰蘭は怪力乱神の世界を覗き、鏈瑣は飢えを満たす──子不語堂は、思いのほかに上手い具合になっているのかもしれなかった。

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