第5話
「では、縊鬼はいないのか!? 人間ひとりを
先日のように首を取り外してはいないものの、
「鼠だのを脅す時にもいくらか喰ったのではないのか」
小さな虫や獣の精怪は、広い都のいかなる場所にもいる代わり、知能は低いらしい。
鏈瑣ならば化物の
「あんな
割れた鐘を鳴らすかのような罅割れた声で、鏈瑣は吼えた。
喰われた上に罵られるとは、精怪どもはいっそう気の毒だ。眉を寄せた辰蘭に、美貌の化物はそれは麗しい憂い顔で詰め寄ってくる。
「その男は、どうせ妻を捨てて借金取りから逃げているのだろう。どこぞの妓楼だか屋敷だかの下働きにでも潜り込んでいるなら厄介だぞ。名を変えているかもしれないし、精怪どもには人の顔や名の区別はつかないからな」
鏈瑣には人間並みの感情はないが、辰蘭と同じ推測に至るていどの知恵はある。さらには、先手を打ってさらなる面倒を避けようとする怠惰さも。
嫌だやりたくない働きたくない、と言外に喚く化物に対して、辰蘭は慎重に首を振った。
「いや……そのように、海に落ちた針を探すような真似はさせぬ」
「本当か? 俺は先生の命令に従う必要は、本来はないのだぞ? 目覚めさせた者に縛られるようになっているだけで……あの女の命令を介してのお付き合いでしかないのだからな。分かっているか?」
疑い深げに目を細める鏈瑣の表情を見れば、妹の
「うむ、お前が助力してくれれば心強い。あてもなく精怪をうろつかせるよりは、いくらか見込みのある……そして恐らくはお前にとっても楽な策があるのだ」
それに、と。続ける時に、辰蘭は思わせぶりに声を落とした。
「上手くいけば、縊鬼を捕らえることもできるかもしれぬ」
「本当か!?」
歓声を上げて破顔した鏈瑣の笑みの眩さは、夜空に浮かんだ月のようでさえあった。縊鬼を喰いたいという食い意地によるものだと知っているから、辰蘭が見蕩れることなどなかったが。
* * *
十日ほど後──辰蘭は、鄭氏の住まいの近くの空き家に寝泊りしていた。金さえ払えば仔細を問わない家主だったのは幸いだった。縊鬼探し
この間、
縊鬼に怯えた
血肉ある賊が相手となれば、捕吏たちも
とはいえ、これで縊鬼などいない、と民が安堵するのはまだ早い。縊鬼については、もうひとつの噂もまことしやかに語られている。
曰く、賊の隠れ蓑に利用された縊鬼は怒っている。手口そのものにも、それによって
まあ、そのように流布させたのは辰蘭なのだが。
写し終えた書を依頼人に渡す時、日用品を買い求める時。おおむね相手のほうから偽縊鬼の話題を出してくれたから、その流れで怪談めいた話を教えるのは不自然ではなかったはずだ。鏈瑣の見目良い姿は、妓楼や酒場に紛れ込ませるのに都合が良いし。恐ろしげな話は誰もが好むもので、あとは勝手に広まってくれたことだろう。
(あとは、上手く釣り出せるかどうか、だな)
月も沈んだ
縊鬼に怯える庶民はとうに各々の家に引きこもって眠りに就いた時刻、灯を点すことはできないから星灯りだけが頼りだった。
古い伝説に曰く、かつては眩く不吉な
(そろそろ動きがあって欲しいものだが──)
昼間はそれなりに寝ているとはいえ、人間の身には連日の徹夜は堪える。だが、
「確かに、
「そちらは葉司獄が抜かりなくやってくださるだろう」
鏈瑣のやる気は、縊鬼を捕らえて喰えるかも、という期待にかかっている。だからこそ辰蘭が仮眠をとる間の見張りを命じても、楽しそうに不満を漏らしながらも従っているのだ。
今や、やる気が尽きるのと辰蘭の策が実を結ぶのと、どちらが早いかの競争になりつつある。
「縊鬼が人の手に負えるかな? 被疑者に死なれては困るのだろう? ここで恩を売ることができれば、今後も何かと──」
「──静かに」
獲物を逃したくない一心なのだろう、錆びた声で必死に言い募る鏈瑣の口を塞いで、辰蘭はほとんど吐息だけで囁いた。
(来たぞ)
目線で示すのは、鄭氏の住まいの戸口だ。
開け放ったままとはいえ、門を構えた子不語堂とは違って、庶民の家だ。内外を隔てるのは木の板の扉一枚に過ぎない。
「行くぞ」
言いながら、辰蘭は手探りで用意しておいた燭台に火をつけた。闇を払う眩しさに、鏈瑣はしきりに目を瞬かせ、そして首を傾げている。
「だが、あれは──」
「急がねばならぬ」
訝しげな声は背後に置き去りにして、辰蘭は屋外に出た。夏の夜の生ぬるい風が燭台の炎を揺らす。狭い路地を駆けること数歩、鄭氏の住まいに辿り着けば、戸口は細く開いている。
「縊鬼は、いちいち扉を開いたりしないぞ」
「で、あろうな」
なんだかんだで後を追ってくれたのだろう、鏈瑣がぼそりと呟く。不審と不満が、錆びた声にありありと滲んでいるが、辰蘭も言われるまでもなく承知している。
本物の
「では、なぜ──」
「説明は後でする。良きように動け」
目の前でおやつを取り上げられた子供のように、見目良い化物が唇を尖らせる気配がする。が、辰蘭は多くは語らず、代わりにわざと音を立てて戸を開け放った。
「夜分に失礼をする」
予想していた通り、貧しい家は狭かった。居間と厨房と作業場を兼ねるのだろう、
「──なっ、だっ、だ……!?」
なぜ、誰とでも問いたかったのだろうか。突然の人声と灯りに、その男は驚いて声も出せない様子だった。
驚き動揺するのも道理、死に装束を纏ったその男の手には、帯が握られていた。そしてその帯は、眠っていたであろう鄭氏の首にしっかりと巻きついていた。
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