第17話 まるで空を飛ぶシャボン玉のように
結局、映画は大流行しているというアニメを見に行くことにした。主人公の高校生が世界を救う大冒険をするというもので、大人から子どもまでみんな楽しめるとポスターにも書かれていた。
「この監督の作品、彩楓ちゃんは見たことある?」
「評判になっていたのは知ってるんですが、見てなくて。先輩は見たんですか?」
「んー、俺も見てないんだよね。前回のは涙なしじゃ見られないって触れ込みだったし。でも今回のコメディがメインらしいから大丈夫かなって」
泣ける話が苦手なのだろうか? だとしたら理由は違うかもしれないけど、彩楓と同じだ。ああいう感動ものやお涙頂戴ものはどうも「さあ泣け!」「ここで泣け!」「ほら今が泣き所!」という制作者の意図が透けて見えるようで嫌だ。あとみんなが泣いているところで泣かないと、心が冷たいやつだと思われそうなところも苦手だった。
「私も、今回の方が楽しそうだなって思いました」
「じゃあ一緒だね。そしたら待ち合わせは……」
明日の集合時間と場所を決め、それから他愛のない話をした。気づけば時計の針は二十三時を指していて、そろそろ切らなければ迷惑になるかもしれない時間だった。
同じことに気づいたのか響弥も「もうこんな時間か」と呟いた。
「そろそろ寝なきゃだね」
「で、ですね。遅くまで付き合わせてしまってすみません」
「ああ、いや本当はまだまだ話していたいんだけどね。これ以上話し込んじゃうと、明日の待ち合わせに遅刻してしまいそうだから」
響弥の言葉は、人の気持ちを軽くさせる。少しだけ心の中に顔を出した『申し訳ないな』という気持ちが、響弥の言葉で消えていくのを感じる。
「あ、でもひとつだけ」
ふと思い出したように響弥は言った。
「彩楓ちゃん、俺の名前知ってる?」
「え?」
唐突な質問を不思議に思いつつも、彩楓は素直に答えた。
「池田響弥先輩、です」
「うん、そうだね。大正解」
「あの、それがどうかしましたか……?」
「んー、いつまで経っても先輩としか呼んでくれないから、もしかして名前を知らないんじゃないかって心配になっちゃった」
「あ……」
そんなふうに思わせているなんて思わなかった。ただ最初から『先輩』と呼んでいたせいで、自然とそのままになってしまっていた。
「ご、ごめんなさい。私……!」
「許さない」
「え……?」
「なんてね」
いつもよりも低めのトーンで言った響弥に焦ったものの、すぐにおどけたような口調になる。
「冗談だよ」
「び、ビックリした……」
「でも『先輩』じゃなくて名前で呼んで欲しいのは本当だよ」
「名前でって……」
少しだけ考えて、それから彩楓はおずおずと口を開いた。
「池田先輩……?」
「ブッブー」
不服そうに、でも笑いながら響弥は言う。違うだろうなと思っていたけれど、こんなにストレートに言われてしまうなんて。
「……っ」
スマホを握りしめる指に力を込めると、彩楓はふーっと深い息を吐いた。そして。
「響弥、先輩」
「んー、ギリギリ合格」
「ギリギリって……」
「先輩がなかったら百点満点」
「そ、それは」
響弥先輩、と呼ぶのでさえも心臓がドキドキしてスマホを握りしめる手に薄らと汗をかいてしまうぐらいなのに。
「無理です! 無理無理無理!」
「えー、じゃあ『響弥くん』。これならどう?」
「響弥……く……ん」
「はあい」
柔らかく、そして嬉しそうな口調で響弥は言う。きっと喜んでくれているのだろうというのが声から伝わってくる。でも、これは。
「やっぱりダメです!」
「えー、さっき言えてたじゃん」
「ダメなものはダメなんです」
「どうして?」
本当に理由がわからないとばかりに響弥は尋ねてくる。
彩楓は空いている手でベッドのシーツをギュッと握りしめると、おずおずと口を開いた。
「はず、かしすぎて……」
「……しょうがないなぁ」
ふふ、と笑う響弥の声が聞こえてくる。
「じゃあ今はそれで許してあげる」
「ありがとう、ございます?」
「それじゃあ、また明日ね。おやすみ、彩楓ちゃん」
「え、あ、えっと……おやすみなさい、響弥先輩」
通話が切れる音がして、彩楓はスマホを握りしめたままベッドに倒れ込むようにして寝転んだ。今も耳元に響弥の声が残っている。心も体もふわふわと浮いてしまっているようだった。
彩楓が今こんなふうに思っていると響弥が知ればどう思うだろうか。喜んでくれるだろうか。一か月待たなくても本当の恋人同士になろうって言ってくれるだろうか。
「こんなの、もう……きっと、私、響弥先輩のことが……」
声に出すことなく呟いた言葉は、まるでシャボン玉のようにぷかぷかと浮き上がっていく。
もう認めざるを得ないのかもしれない。
知り合ってから、初めて話してから一か月も経っていないはずなのに――。
「私、響弥先輩のこと……好き、なのかもしれない」
口に出した瞬間、不確定だった想いに名前がついた。そんな気がした。
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