第18話 早る気持ちを抑えきれなくて

 その日は朝から大変だった。響弥とは、お昼を食べて一時に学校の最寄り駅の改札内で待ち合わせだったから、普段の休日と同じように起きて準備をすれば間に合うはずだった。

 なのに、目が覚めると十時。いつもよりも一時間も遅かった。


「な、なんで!? 目覚ましだって、ちゃんとかけたのに!」


 休日はオフにしている目覚ましを、今日は念のためにかけておいた。スマホのスヌーズ機能だってオンにしておいたはずなのどうしてこんなことになってしまったのか。

 慌てて時計を確認すると――針が止まっていた。


「嘘でしょ……」


 ひっくり返すと、電池が少しズレている。昨日の夜、目覚ましをセットして勢いよく置いたときにズレたのかもしれない。

 最悪だ。あのときそっと置いておけば、ううん。それよりも電池を入れるところの蓋がなくなったときにもっとちゃんと探しておけばよかった。

 いろんなたらればが思い浮かぶけれど、全てあとの祭りだ。スマホが鳴らなかった原因も調べたかったけれど、そんなことをしている余裕があるのなら少しでも早く準備をしなくては。

 急いで服を着替えようとして、手が止まった。昨日、ふわふわとした気持ちのまま眠りについてしまったせいで着ていく服が決まっていない。可愛らしい感じの服がいいだろうか、それとも落ち着いた雰囲気の服? 響弥はどんな服装の女の子が好きなのだろう。

 今まで誰かと付き合ってもこんなふうにそわそわすることも、相手の好みが気になることもなかった。ドキドキはしていた気がするし、緊張もしていたはずだ。けれど、今抱いている気持ちとは全然違う。


「これで、大丈夫、かな?」


 薄い水色のワンピースに白のカーディガンという無難な格好ではあるけれど、清楚な雰囲気と可愛さを兼ね備えている、と思う。多分だけれど。


「……大丈夫、だよね」


 鏡の前で何度も何度も確認する。そうこうしているうちに家を出なければ間に合わない時間が迫っていた。お昼ご飯を食べる余裕はない。

 階段を滑り落ちないように駆け下りると、リビングへと向かった。料理を作っているらしく、焼き魚の匂いがするキッチンにいる母親に声をかけた。


「お母さん、ごめん。私もう出るから!」

「ええ? お昼ご飯は?」

「食べてたら遅刻しちゃう……!」


 冷蔵庫から出したオレンジジュースを飲み干すと、家を飛び出そうとする彩楓に母親が声をかけた。


「これだけでも食べて行きなさい」


 手渡されたのは小さなおにぎりがふたつ。


「え、でも」


 正直なところ、緊張でご飯が喉を通らない。せっかく作ってくれたけれど――。


「どこに出かけるのかは知らないけど、途中でお腹がすいて鳴ったりでもしたら恥ずかしいわよ」

「そ、れは」

「あとちょっとぐらいお腹に何か入ってるほうが緊張も落ち着いていいと思うけど?」


 その言葉に、何もかも見透かされているような気持ちになって恥ずかしく思う。躊躇いつつも、持ってきてくれたおにぎりを一つ口に放り込んだ。ほっくりと焼かれた鮭の塩っ気が口の中で広がる。どうやらお昼ご飯に焼いていたらしい鮭を慌てておにぎりにしてくれたようだった。


「……美味しい」

「でしょ? はい、もう一つも」


 こちらは梅が入っていた。種は取ってくれてある。

 あんなふうに雑な扱いをしたことが恥ずかしくなるぐらい、母親は彩楓のことを思いやってくれていた。


「ありがとう」

「いえいえ。あまり遅くなりすぎないようにね」

「はーい、行ってきます!」


 誰とどこに行くのか、と尋ねられなかったことに安堵しながら彩楓は自宅を飛び出した。

 待ち合わせ時間まではあと三十分。電車の待ち時間を考えてもなんとか間に合うはずだ。それでもつい急ぎ足になってしまうのを止められないのは、少しでも早く響弥に会いたいから、なのかもしれない。


 十数分後、ようやく待ち合わせの駅に着いた。待ち合わせ時間よりも十分以上早い。どこかわかりやすいところで待っていようと辺りを見回すと――。


「え?」


 視線の先には、改札近くの壁にもたれかかるようにして立つ響弥の姿があった。慌てて駆け寄ろうとすると、響弥も彩楓に気づいた。


「すみません、お待たせしてしまって」

「大丈夫、少し早く着いちゃっただけだから」


 今来たところだから、と言わないところをみると、どうやらかなり早く響弥は来ていたようだ。もしかしたら、響弥も同じように今日のお出かけを楽しみにしてくれていて、それで早く来ていたのだとしたら。

 そんな自分に都合のいい想像を打ち消すように頭を振る。たまたまちょうどいいタイミングで電車が来たとか、そういう理由に決まっている。


「そうだったんですね。私も早く着いちゃったのでちょうどよかったです」


 ホームに向かって歩きながら、彩楓は響弥に話しかけた。普段、学校に行くために乗る電車に、今日は響弥と出かけるために乗る。初めて一緒に帰った日もドキドキしたけれど、今日はそれ以上に緊張する。それに。

 隣に立つ響弥の姿をこっそりと見た。紺色のVネックTシャツコーデシャツの上にアイボリーの半端袖シャツを羽織り、黒のパンツ姿というラフなようでいてオシャレな雰囲気を漂わせる響弥は、制服姿の普段よりもカッコ良く見える。

 周りにいる女の子や年上の女性も、チラチラと響弥の方へと視線を向けていた。

 ホームで待っているとやってきた電車の窓に響弥と彩楓の姿が映る。こうやって並んで見ると、全然釣り合っていない。改めて響弥がどうして彩楓なんかを好きになってくれたのかわからなくなる。

 思わずため息を吐きそうになる彩楓に、響弥がぼそりと呟いた。


「ごめん、さっきの嘘」

「え?」


 いったいなんの話かわからず顔を上げ響弥の方を見る。今日はは少しだけ頬を赤くして照れたように笑った。


「待ちきれなくて、三十分も前に来ちゃった」

「それって……」

「彩楓ちゃんと出かけるの、楽しみだったんだ。行こ?」


 響弥が彩楓に手を差し伸べると同時に電車のドアが開いた。その手を握りしめると、彩楓は電車へと乗り込んだ。響弥とふたり並んで。

 

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