第11話 小さなほころびはやがて

 きっかけは本当に些細なことだった。響弥と付き合いだして数日が経ったある日の二時間目。少しざわついた教室で、机の向きを変えて友人たちと向かい合わせに座る。黒板には『こういうとき英語で何という?』と書かれていて、色々なシチュエーションの絵が貼ってあった。


「えー、でもさそれっておかしくない?」

「でしょ? だから私も言ったの! ふざけないでよって」


  彩楓の向かいで朱莉と藤乃が楽しそうに誰かに対して文句を言っていた。知らない誰かのことを悪く言うのは気が引けるので、彩楓は愛想笑いを浮かべながら相づちをうち、とりあえずノートに回答を書いていく。

 やらなくていいの? と聞きたかったけれど、話を遮ることははばかられたし、何よりそんなことを言ったとしてふたりがどんな反応をするか。考えると胃が痛くなりそうだったのでやめた。

 一つ目の質問は簡単だったけれど、二つ目は意外と難しい。知らない単語を組み合わせればきっと上手くいくのだろうけれど、それではとっさに言葉が出てこない。

 今の彩楓の知っている英単語だけで答えるためには――。

 そんなことを考えていると、教室の前方で何かを思い切り叩きつけるような音がして、あわててそちらに顔を向けた。


「ねえ、みんなは何をしているの?」


 教卓を前にして、英語の金本先生が少しヒステリック気味な声を上げる。その瞬間、教室中の視線が金本先生に向けられたのがわかった。

 

「私が言ったこと、きちんと理解してる?」


 彩楓は黙ったまま俯いて、机の木目に視線を這わせる。どうやら他のクラスメイトも似たようなものらしく、あんなにも騒がしかった教室が静まり返った。


「小学生じゃないのよ。どうして言われたことができないの。今あなたたちが話すべきなのは今日の放課後の過ごし方でも彼氏の悪口でも部活の大会で勝って嬉しかったことでもなく、黒板に書かれたことについてでしょう!?」


 正論すぎてぐうの音も出ない。とりあえず神妙な顔をして金本先生の怒りが通り過ぎるのを待ち、そのあとまた、今度こそは話し合いをしよう。そう思って何気なく顔を上げた彩楓は、金本先生と目が合った。


 嫌な予感がする。


 金本先生は彩楓に向かってにこやかな笑みを見せるとツカツカと音を立ててこちらに向かって歩いてくる。そして彩楓の隣に立つと、手元のノートを取り上げた。


「あっ」


 彩楓のノートをまじまじと見たあと、金本先生は満足そうに頷いた。


「前から見ていたときに、岡町さんだけは黒板とノートを交互に見ていたの。きっと質問に対しての答えを書いていると思ったわ。それなのに、一緒の班のあなたたちと来たら」


 金本先生の矛先が、彩楓と机をくっつけている朱莉や藤乃に向けられた。彩楓と比較してふたりを叱る金本先生。そんなことされたら――。


「えー、違いますよ? 彩楓は私たちが出した答えをまとめてくれてたんです。ねえ、朱莉」

「え? あー、そうそう。答えを出す係、それから出た答えをまとめる係。役割分担をしていただけです」


 ふたりはすらすらと取り繕った言い訳を金本先生にぶつける。けれど子どもの嘘に簡単に騙されてくれるような大人は少ない。それも先生ともなれば余計にだ。


「本当に? それにしては楽しそうにお話ししていたけれど」

「私たち英語好きだもん。楽しくって当たり前でしょう?」

「英語が好き、ねえ」


 目を細める金本先生の姿は、さらに疑いを深めたと言わんばかりだった。


「それじゃあ、ひとつ聞いてみようかしら」

「なになに?」


 彩楓は嫌な予感がした。


「岡町さんがノートに書いてる英文を、ひとつでいいから教えてくれないかしら。あなたたちが考えたというのであればわかるわよね」


 藤乃はぐっと言葉を詰まらせる。朱莉は『そろそろ謝ったほうがいいのでは』とでも言うように困った表情を浮かべていた。

 けれど、藤乃ももうあとには引けないようだ。黒板をチラッと見ると、問題となっている絵を確認して、答えた。


「はい、残念」


 それは何通りも言い方を変えられるものだった。なので、藤乃の答えも彩楓の中で選択肢にはあった。ただ運が悪いことに、別の言い方の方がスマートに、そしてわかりやすく伝えられる気がして答えを変えたのだ。

 彩楓は藤乃の方をこっそりと覗き見る。そこには悔しそうに金本先生を睨みつける藤乃の姿があった。


 結局、そのあともう少しだけクラス全員でお小言を言われたあと、班ではなく個人で答えを考えて発表する形に変わった。最初からこうしてくれていれば余計な揉め事が起きずに済んだのではと思いながら、彩楓は当てられた絵について自分の回答を答えた。


 

「さっきの授業中さ、金本先生意味わからなくなかった?」


 英語の授業が終わり、唇を尖らせた藤乃はノートを乱暴に閉じた。

 

「いや、わかる。ホントに、なんであそこまで怒るのか意味わかんなかったよね」


 同調するように朱莉も教科書を丸めると机をポコポコと叩いた。彩楓はふたりに対して苦笑いを浮かべながら見ることしかできない。


「だいたいさ、騒がれたくなかったら最初から班になんてしなければよかったんだよ。そりゃ私たちも? ちょっとお喋りが多かったかなって思うけど、全く授業の話をしていなかったわけじゃないしね」

「そうそう、最初はちゃんと話してたのに、一部分だけ見て怒るなんてちょっと酷いよね」


 最初は話していた、という言葉につい口元が引きつりそうになって慌てて引っ込めた。はずだった。


「何笑ってるの?」

「え?」


 藤乃の声は冷たかった。


「今、彩楓呆れたように見てたよね? なんで?」

「そ、そんなことないよ!」

「嘘。私、見たんだから」


 首を横に振って否定するけれど、藤乃は鋭い視線を彩楓に向けたままだった。


「彩楓ってさ、たまに何考えてるのかわからないよね」

「え……?」


 ドキッとした。彩楓の心の弱さを見透かされたような気がした。


「そんなこと、ないと思うけど……。でも、そう思わせちゃったならごめんね」


 ダメだとわかっている。でも、反射的にへらっと笑ってしまう。

 それが、藤乃の怒りを大きくさせることをわかっていながら。

 

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