第9話 見えているものの裏側

 そわそわと時計を見上げると、さっき見てからまだ二分しかたっていなかった。ふうと息を吐くと、黒板に書かれた漢文の文章をノートに写す。けれど手を動かしているだけで、内容は全く頭に入ってこない。

 もうすぐ四時間目が終わる。そうしたら響弥が教室へとやってくる。お昼を一緒に食べようと言っていたけれど、どこで食べるつもりなのだろう。まさかここ、というわけはないだろう。中庭? 屋上? それともどこかの空き教室で?

 そんなことを考えていると、後ろから背中をツンツンと突かれた。


「どうし――」


 振り返ろうと顔を上げた彩楓は、黒板の前に立ち、笑みを浮かべながらこちらを見ている先生と目が合った。


「考え事をしているところ申し訳ないが、前に出てこの問題を解いてくれるかな」

「え? あ……」


 どうやら当てられていたようで、先生だけじゃなくクラスメイトもこちらを見ていた。藤乃と朱莉が呆れたように笑っているのが目に入った。


「わかりました……」


 彩楓は大人しく返事をすると、前に出て黒板に書かれた虫食い問題を解く。


「正解だ。答えがわかっていたとしてもちゃんと話を聞いておくように」

「すみません……」


 頭を下げて、それから自分の席へと戻った。そのあとの授業は真面目に受けたおかげで――はっとしたときには、教室中にチャイムが鳴り響いていた。


 先生の号令が終わると、彩楓は大急ぎで教室を飛び出した。このままだと響弥が教室に来てしまう。藤乃たちの言うとおり、クラスメイトは響弥とのことについて何も言わないかもしれないけれど、それでもなるべくなら教室から離れたところで響弥と合流したかった。


 三階へと続く階段の踊り場に立つ。ここなら響弥が来たらすぐにわかるだろう。合流したらどこで食べる予定だったのかを聞いてすぐそちらに向かおう。それで――。


「あれ? 彩楓ちゃん?」


 考え事をしていると、頭上から響弥の声がした。階段の一番上には目を丸くしてこちらを見る響弥の姿があった。


「どうしたの、こんなところで」

「えっと、その」

「三階に何か用事?」


 用事と言えば用事だし、違うと言えば違うし。

 けれど『先輩のことを待ってました』なんて言うのは恥ずかしくて口にすることができない。

 どうしたら――。


「え、もしかして俺のこと向かえに来てくれた……?」

「……っ」

「なーんて……。え、ホントに……?」


 響弥の言葉に頬が熱くなる。もしかしたら赤くなっているのかもしれない。

 彩楓の反応に響弥はパッと顔を輝かせた。


「え、わ、そっか。向かえに……。嬉しいなぁ」


 噛みしめるように言われて余計に恥ずかしくなる。けれどそれと同時に罪悪感が大きくなっていく。

 彩楓は響弥が教室に来ないようにと、ただそれだけの理由でここにいた。決して響弥に喜んでもらおうとか、響弥に会いたかったからとかそんな可愛らしい理由ではない。

 このまま嘘をついていれば、響弥を悲しませないことはわかっている。けれど、喜んでいる響弥の姿を見ていると、どうしても嘘をつき通せなかった。


「違うんです……!」

「違う……?」

「向かえに来たっていうか、その、教室まで向かえに来てもらったら騒がれたり何か言われたりするかもしれないって、だから……」


 目を閉じ、自分の手をギュッと握りしめる。ガッカリさせただろうか、騙されたと思われただろうか。

 どっちにしても幻滅されたはずだ。付き合いたいと言ったことさえ後悔しているかもしれない。

 何を言われるのか怖くて、耳を塞いでしまいたかった。けれど、彩楓の耳に届いたのは、響弥の変わらない優しい声だった。

 

「大丈夫、わかってるよ」

「え……?」


 顔を上げると、響弥は微笑みをこちらに向けていた。


「ここじゃ邪魔になるから移動してから話そうか」

「あ……」


 気付けば授業が終わった生徒たちが、踊り場の真ん中で話している彩楓たちを邪魔そうに避けながら階段を下りていた。



 響弥に連れられてやってきたのは一階にある空き教室だった。


「ここ、部活で使うから鍵を預かってるんだ」

「部活って……?」

「囲碁部。あ、笑ったな。うちの囲碁部強いんだよ? まあ、俺は趣味でやってる程度だから全然だけどね」


 響弥は楽しそうに言う。


「囲碁っておじいちゃんがやるイメージでした」

「まあ、そうだよね。将棋は最近盛り上がってるけど、囲碁だって俺たちぐらいの年の子もたくさんいるんだよ」

「そうなんですね」


 テレビの報道で取り上げられていたりネットの記事になっているものでしかどうしても情報は入ってこない。けれど、伝わらないだけで其の裏側に隠れているものというのは意外とたくさんあるのかもしれない。

 愛想笑いの裏側に隠れた、彩楓の本音のように。

 それじゃあ、さっきの『わかってる』に込められた響弥の思いはなんなのだろう。


「さっき、わかってるって言ってましたよね」

「うん、言ったね」

「なのに、どうしてあんなふうに喜んでくれたんですか?」


 真っ直ぐに問いかける彩楓に、響弥は優しく答えた。


「他の理由があったとしても、それでも彩楓ちゃんが俺を待っててくれたってことが嬉しかったからだよ」

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