第8話 ホンモノの優しさ

 そのあとの授業はどうにも頭に入ってこなかった。気にしてないつもりでいたのに、ふとした瞬間に響弥と、それから元カノのことが頭を過る。美人さんだった、と藤乃は言っていた。そりゃあ響弥の彼女になるぐらいなのだから、美人に決まっているだろう。

 ペンケースに入れている鏡の存在を思い出して、すぐに目を背けた。今さら鏡なんて見なくても、たいして可愛くないことも美人なんて思えるような顔をしていないこともわかっている。悲しくなるのがわかっていて、わざわざ傷付くようなことをしなくてもいいのだから。



 再び訪れた休み時間。不思議なことが起きていた、一時間目の終了後はあれだけざわついていたはずの教室内が、どういうわけか静かだった。チラチラとこちらに向けられる視線は感じるけれど、直接何かを言いに来る人はいない。


「彩楓、どうしたの? 不思議そうな顔をして」


 自分の席から動けずにいた彩楓の元に朱莉と藤乃がやってきた。藤乃はどこか不服そうな顔をしているように見える。


「あ、えっと、それより藤乃はどうしたの?」

「ああ、これ? 気にしないで」

「気にしないで、じゃないよ! さっきの池田先輩の元カノの話をしたことで朱莉に怒られたの! ねえ、彩楓。別に気にしてないよね? 彩楓はそんなことで怒ったりしないもんね?」


 彩楓の机に両手をつき、詰めるようにして藤乃は言う。


「ちょ、ちょっと藤乃!」


 朱莉は焦ったように藤乃を止めようとしていた。

 彩楓は――困ったように笑みを浮かべる。


「えっと、うん。大丈夫だよ。先輩の彼女なら美人に決まってるしね」

「ほらー! だから言ったじゃん!」


 彩楓の返答に、藤乃は得意そうに胸を張って朱莉へと見せつける。機嫌が良くなった藤乃とは対照的に、今度は朱莉の眉間に皺が寄るのが見えた。


「……でも、朱莉は私のことを心配して言ってくれたんだよね。ありがとね」

「別に、彩楓がいいならいいけど」

「ああやって庇ってくれたの嬉しかったよ」


 微笑んでみせると朱莉は――深いため息をついた。

 

「~~。ったく、彩楓はいつもそうやって……」

「朱莉?」

「なんでもない! まあ……無理はしないようにね」

「ありがと」


 心配してくれる気持ちが伝わってきて、胸の奥があたたかくなる。自然と笑みがこぼれて、そんな彩楓に朱莉も小さく笑った。


「それで。彩楓はさっきどうして不思議そうな顔をしてたの?」


 思い出したかのように、機嫌が直った朱莉が言う。ああ、そういえば。と彩楓は先ほどの不思議なことを話した。


「だから、どうしてかなって」


 一通り話し終えた彩楓に対して、藤乃は「たしかに!」と不思議そうな表情を浮かべ、朱莉は「え、わかってないの?」と驚いた顔をした。


「わかってないって何が?」

「さっき池田先輩が来て言ってたでしょ。『誰かに何か言われてないかなって思って』って。あれ、クラスの女子への牽制だよ」

「牽制……?」


 いまいちわかっていない彩楓と藤乃に、朱莉は「ったく」と首を横に振りながらも、説明をしてくれた。


「だからね、ああやって池田先輩に言われたら、クラスの女子で彩楓にやっかんでた子がいたとしてもう何も言えないでしょ? つまり『俺の彼女に嫌がらせなんてしてないよね?』って言いに来たのよ。あの笑顔でそう言われて、それでも彩楓に何かできる子なんて、少なくとも一年にはいないと思うよ」


 朱莉の言葉で、ようやくどうしてたった十分しかない休み時間に、わざわざ階段を降りて一年の教室まで響弥が来てくれたのかわかった。

 自分と付き合うことで彩楓が誰かに何かされたりしないように、釘を刺しに来てくれたんだ。


「ほら、その証拠に」


 朱莉は廊下を指差した。


「忠告されていない他のクラスの子とか、先輩たちはあの通り」


 廊下側の窓には、いつの間にか人垣ができていた。窓際の席の男子が、鬱陶しそうに窓を閉めてしまうほどだ。

 露骨にこちらを指差して何かを言っている人の姿も見える。


「まあうちのクラスで彩楓に何か言ったりする人は減ると思うけど、でも池田先輩と付き合うってことはああいう人たちに目をつけられるってことだと思うよ」

「藤乃!? そんな脅かすようなこと……」


 藤乃のキツイ言葉に、朱莉が慌ててフォローしようとする。けれど彩楓自身も昨日の放課後と今日でそれは十分理解していた。


「脅かしてるわけじゃないけどさ。でもわかっといたほうがいいと思うから。それでも彩楓は池田先輩と付き合うの?」


 やめるなら、今だよ。

 今ならまだ間に合うよ。


 藤乃の言葉には、そんな言葉が隠されているような気がした。

 でもそれはきっと悪意からじゃない。

 彩楓のことを心配して言ってくれている。

 それはわかっている。でも。


「うん、もう少しだけお付き合いしてみようかなって思ってる」


 いつもなら『そうだね、やめとこうかな』とか『やっぱり無理だよね』と同調していたはずだ。なのに、自分の口から出た言葉に彩楓自身驚いていた。

 もう少し、付き合ってみたいと思っている。もう少しだけ、響弥のことを知りたいと知ってみたいと思っている。


 この感情の名前なんて今はまだ知らないけれど、それでも、ほんの少しだけ胸の奥に芽生えた響弥への興味を今は大事にしてみようと思う。


「そっか、なら私も応援するよ。朱莉は?」

「私は元々応援してるよ。彩楓が選んだ人だもん」


 ふたりの言葉に、わずかに胸の奥が痛んだ。

 好きになったわけじゃない。断り切れなかっただけ。

 本音が言えなくていつもみたいに愛想笑いを浮かべて、流されて――。


 こんな自分が、だいっきらいだ。


「彩楓?」

「ううん、ふたりともありがとう」


 でも誰も傷付くことがなかったのなら、イヤな想いをさせなかったならきっとこれでいいんだ。

 響弥の優しさがホンモノだとしたらきっと、彩楓の優しさはニセモノだ。

 誰かを傷つけたくないと思いながら、誰にも嫌われたくなくて取り繕うだけのニセモノの優しさ。

 それでも彩楓は愛想笑いをやめられない。

 

 胸の奥に渦巻くいろんな感情を、彩楓は全て貼り付けた笑顔の裏に隠した。

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