第5話 誰に向けた優しさか

 どくん、と心臓が嫌な音を立てて鳴った。こんなにも学校に行きたくないと思うのはいつぶりだろう。


「ごめんね」


 隣に立つ響弥が、心配そうな表情を浮かべてこちらを見る。だから彩楓は――いつものように笑みを浮かべた。


「大丈夫です、心配しないでください」

「本当に……?」


 本当か嘘かで言うと、嘘だ。でも肯定したところで悲しい気持ちにさせてしまうだけだし、今正直に言えるなら昨日告白された時点で言えている。今さら言っても仕方のないことを言ってもどうにもならない。だから気持ちを切り替えた方がいい。そうわかっている。わかってはいるけれど。

 どうにもならない本音と建て前が、彩楓の貼り付けたままの笑顔を一層重くさせた。


「はい!」

「そっか、ならいいんだけど」


 響弥はそれ以上追及してくることはなかった。そんな響弥の態度に甘えるように、彩楓も学校までの時間を、電車の窓から外の景色を見て過ごした。



 学校に到着すると、やはりというか想像以上というか、針のむしろとはこういうことをいうんだなと思わされるほどの支線に晒された。

 ただでさえ響弥とふたりということで目立つのに、遅れていったからなおさらだ。タイミングの悪いことに、朝のSHRショートホームルームが終わり、一時間目が始まるまでの間の自由時間と重なったことも注目を浴びる要因となってしまった。


「うわ、最悪!」

「昨日の噂、本当だったんだ……」

「あんな子より、私の方が絶対可愛いって!」


 あちこちから聞こえてくる声に胸を痛めながらも、唇をギュッと噛みしめ、それから笑顔を作って顔を上げた。

 でも、隣に立つ響弥がどんな表情をしているのか見るのはどうしても怖くて、すぐそばにいるはずの響弥の顔を見ることはできなかった。


 もうすぐで校舎に入る。そうしたら響弥とは階が違うから分かれられる。なんてことを考えていると、ひとりの女の子が彩楓たちの前に立ちふさがった。


「あ、あの!」


 その子のことは見たことがあった。たしか同じ一年生だったはずだ。名前はわからないけれど、可愛い顔立ちとおしとやかな性格で、男子たちに人気があると聞いたことがあった。

 そんな彼女が、顔を真っ赤にして声を震わせながら響弥の前に立っている。何を言いたいかなんて、一目瞭然だった。


「わ、私……響弥さんに、お話が、あって……」


 控えめでおしとやか。でも――チラリと彩楓に視線を向ける姿はどこかしたたかさを感じさせる。まるで、邪魔だからどこかに行ってほしいと口に出さない代わりに目で伝えているようだった。


「それじゃあ、私……」


 先に教室に行きますね、そう言って離れようとした彩楓の腕を、響弥は掴んだ。


「どこに行くの」

「どこって教室に……」

「途中まで同じ通路なんだから、一緒に行こうよ」

「え、で、でも」


 彩楓は響弥と、それから目の前で子羊のようにぷるぷる震える女子を見比べる。響弥の言葉に、女子の目には涙が浮かんでいる。その目でこちらを睨まれても困ってしまう。


「えっと、いいん、ですか?」

「うん、今は彩楓ちゃんと一緒にいるからね。そういうとこで、ごめんね」

「あ……はい」


 女子は頭を下げると、その場から逃げ出すようにして走り去ってしまった。思った以上に冷ややかな対応をした響弥を意外に思う。


「どうしたの?」


 彩楓が自分のことを見ているのに気付いたのか、響弥は不思議そうに首を傾げた。


「え、えっと。その、ちょっとビックリしちゃって」

「ビックリ?」


 響弥とふたり、並んで階段を上がる。一時間目が始まる直前ということもあって、みんな教室にいるのか廊下はシンとしていた。


「はい。その、先輩って」


 そこまで言って、彩楓は思わず口をつぐんだ。口をついて出そうになった『誰にでも優しい』と聞いていたから、という言葉は失礼なのではないか。褒め言葉のようでいて、自分が言われたら少しだけ傷付いてしまいそうなその言葉を、彩楓は口にすることができなかった。

 けれど。


「『誰にでも優しい』って聞いたのに優しくないじゃないか。って?」

「え、あ……」


 お見通しとばかりに響弥は肩をすくめて見せる。そんな響弥に彩楓は「すみません」と謝るしかできなかった。


「謝る必要なんてないよ」


 響弥は優しく微笑む。


「誰ともお付き合いをしていないときは、別に誰かを気にすることがないから優しくできるんだけどね。今は違うから」

「どういう……」

「お付き合いしている人がいるのに、他の子に優しいのは優しくないでしょ?」

「あ……」


 響弥の言わんとしていることが伝わって来て、彩楓は胸が締め付けられるように苦しくなった。


「誰にでも優しいは、誰にも優しくないのと一緒だからね」

「……っ、そう、ですね」


 響弥の言葉に、誰にでもいい顔をして愛想笑いを浮かべる自分を重ねてしまう。

 みんなににへらと笑って、誰にでもいい顔をして、それでいて誰にも心を開いていない。

 そんな自分が大っ嫌いで、でもそんな自分を変えられない。


「先輩の、そういうふうに考えられるところ、すっごく素敵だと思います!」


 ――私とは違って。


 喉元まででかかった言葉を呑み込むと、彩楓はとびっきりの笑顔を見せた。純粋な気持ちで、憧れを込めて。

 

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