第20話 書き換えられた遺言書
「それでは開封します。小夜子夫人、ご確認ください」
小夜子が頷いて立ち上がり、封蠟のされた遺言書を手に取った。
「確認しました。開封の後はございません」
橘弁護士が頷いて、テーブルの上に置いてあったペーパーナイフを手に取った。
「では、開けますね」
ペーパーナイフの先を封蠟の端に差し込んで、一気に引き剝がした。
ゆっくりとペーパーナイフをトレイに戻し、中から数枚の紙を取り出す。
テーブルの真ん中にそれを並べて広げていく弁護士の手つきは、さながら日本舞踊の名手のような優雅さだった。
「では音読します」
こういうシーンに慣れているのか、弁護士の声に震える気配はない。
「平成三年十二月二十日、斉藤雅也本人の遺志により、予てより準備していた遺言書の内容を一部変更する。立ち合い者は顧問弁護士である橘康人、及び斎藤雅也指名により山本充の両名である」
全員が山本の顔を見たが、本人は机の上から視線を外さなかった。
橘弁護士がコホンとひとつ咳をする。
「斉藤雅也が所有する全ての財産は、妻である斉藤小夜子に相続する。斉藤小夜子は、相続する財産の中から山中誠及び長谷部千代、山中美奈の三名に退職金を支払うこととする。なお、継続して雇用するかどうかは本人たちの意志に任せる」
使用人の三人が顔を見合わせた。
「相続に当たる全ての手続きは顧問弁護士に一任する……以上です」
山本充がホッと息を吐いた。
これほどの資産が、あっさりと移管された瞬間に立ち会った伊藤たちは、言葉を失った。
「ご苦労様でした。それでは先生、遺言書通りによろしくお願いいたします」
何の感情も無い声で小夜子が礼を口にした。
「わかりました。財産目録等は私の方でも写しを保管していますので、こちらのものと照らし合わせて速やかに手続きを進めましょう」
「私は何かすることがございますか?」
「今のところは特にございません。あるとしたら現在出されている被害届を引継がれるかどうかの判断です。あれも小夜子夫人の財産の一部となりますから」
「そうですか……ではそれも併せて引継ぎましょう。そうなると私は被害者ということになるのですか?」
「そうですね。正当に相続するべき資産の一部を、略奪されたことになりますから」
「ではそのように。刑事さん達もご苦労ですが、そのようによろしくお願いいたします」
課長が声を出さず頷いた。
橘弁護士がテーブルに広げた遺言書などの書類を一纏めにしながら、小夜子に話しかけた。
「これはご自身で保管されますか?」
「全てが終わるまでは先生の方で管理してください」
「わかりました。それでは私はこれで」
全員が立ち上がり、その視線の中を堂々と退出していく橘。
見送りに出た山中以外の全員が、呆然とした表情を浮かべていた。
最初に口を開いたのは伊藤だ。
「これだけの財産を全て引き継がれるとは……ご苦労が絶えませんね」
小夜子が伊藤を見て微笑む。
「自分で管理するわけではありませんし、それほどでもございません。斉藤は戦争で天涯孤独の身になりました。墓所は青山にありますが、親兄弟の遺骨は入ってないんです。自分のために作ったようなものですわ」
「親兄弟のも入っていない? それはまた……」
「斉藤は東京の出身で、実家は繊維問屋をしていたそうですわ。永代橋のすぐそばだったと聞いていますが、今は公園になっているみたいです。本人さえこの辺りとしかわからないほど焼野原だったと聞いたことがございます」
「そうでしたか。ご家族はご両親だけでしたか?」
小夜子が困ったような顔で山本を見た。
「小夜子夫人は知らんよ。斉藤は家族のことを話さなかったからね。斉藤の家は両親とまだ幼い弟がいた。弟は斉藤の子供かと言っても信じるくらい年が離れていたね。名前は忘れた」
「そうですか。ご親戚も?」
「ああ、親戚を名乗るほどの近しいものは全員その時に焼け死んだそうだ。問屋といっても家族経営だったし、男どもはみんな戦争にとられて生きて帰った者はおらん。あの空襲で死んだのは年寄りと女と子供だけさ」
全員が黙り込んだ。
山本が続ける。
「戸籍も何もかも焼失してね。ここが自分の土地だなんて言い張っても証拠がないんだ。まあ、何より役場も無くなっていたから言って行く場所も無い。そんな時代だ」
「その頃斉藤さんはお幾つだったのですか?」
「二十三だ。私と同じ年だから間違いない」
「では戦争に?」
「いや、斉藤は出征していない。あいつは国の機関で特殊な仕事をしていたからね。徴兵はされなかった」
「なるほど……山本先生はどちらに?」
「私も徴兵はされなかった。当時はまだ医学生で、斉藤が自分の手伝いをしていると言ってくれて学徒出陣を逃れたよ。それを言うなら小夜子夫人の養父もそうさ」
「小夜子夫人の養父というと、田坂一郎氏ですね? 田坂さんとは大学で?」
「そうだ。私たちが四年の時に入学してきた。一緒の学舎にいたのはその一年だけだが、縁があったのだろうね。まあ、あの大戦が始まって一年目だったかな、国中がおかしな洗脳に冒されていたような時代だよ。欲しがりません勝つまではなんてね。ははは!」
更に質問を重ねようとする伊藤を、課長が目で制した。
「では、我々はこれで。被害届の件も小夜子未亡人に移管する手続きを進めておきます」
課長が発した『未亡人』という言葉が、妙に生々しく響く。
メイドの美奈に見送られた三人は、車のシートに体を沈めて大きく息を吐いた。
「疲れましたね」
藤田の言葉に伊藤が頷く。
額に手を当てながら課長が静かに言った。
「関係者全員の過去をもう一度洗ってくれ」
「わかりました」
銀色の覆面パトカーは、閑静な住宅街を滑るように走り去った。
「書き換えられる前の内容ってどんなものだったのでしょうね」
藤田の言葉が車窓に流れる景色に吸い込まれていった。
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