第19話 遺言書
それから数日、被害届と斉藤家所有の宝石鑑定書を証拠に、大使館経由でオークション開催会社に問い合わせをしていた伊藤の前に、思いがけない人物が現れた。
名刺を交換し、互いにあいさつを交わす。
「弁護士の先生ですか。斉藤家の?」
「ええ、橘と申します。もともと斉藤家の顧問弁護士をしておりましてね。ご当主が第一線を引かれる時に遺言書をお預かりしていました。本日斉藤家に於いて開封いたします。同席されますか?」
「是非お願いします」
「わかりました。十五時からの予定です。遅れないようにお願いします」
「必ず参ります」
弁護士の橘が頷いて立ち上がった。
池波署の玄関まで送り、走り去る車を見ながら伊藤はふと考えた。
なぜ、遺言書の開封を刑事に知らせたのか?
「あの弁護士は当然内容を知っているよな」
内容を知ったうえで刑事を呼んだ方が良いと判断した?
「窃盗事件に関係があるということか……」
現物を見たことは無いが、鑑定書とともに保管されていた『女神の涙』の由緒はなかなか興味深いものだった。
「まさか王子妃の所有物だったとはな……しかも無残に殺された最後の王子妃」
ダイヤとしては大きい方だろうが、何よりその形が変わっていた。
ペンダントトップとしては然程珍しくはない『ティアドロップ』という形に分類されるのだが、その先端は研ぎ澄まされた様に尖っているのが『女神の涙』の特徴だ。
「まるで楔のような形だよなぁ」
数学の教科書で見かける典型的な円錐形、それが『女神の涙』なのだ。
「アクセサリーなんだから何らかのデザイン性があっても良さそうなもんだが」
まるで双円錐を真半分にカットしたようなそれは、底面から湧き出すようにピンク色の光を放っていた。
「双円錐なんて言葉をよくもまあ覚えていたもんだ」
生活感のない単語がまろび出た自分の口を掌でなぞる。
「双円錐?」
伊藤は刑事部屋に向かって駆け出した。
「課長!」
他の刑事と話をしていた三課の課長が驚いた顔で伊藤を見た。
「なんだ? お前……ちょっと待ってろ」
そう言うと課長は非常階段の方を指さした。
頷いて出て行く伊藤は、すでにポケットに手を突っ込んで煙草の箱を握りしめている。
課長が非常階段の扉を開けた時には、すでに三本目の煙草が半分灰になっていた。
「どうした?」
伊藤が煙草をバケツに投げ捨てる。
「今日の十五時から斉藤の遺言書が開封されます」
「同席は」
「先ほど顧問弁護士がわざわざ知らせに来ましたよ。同席します」
「俺も行こう」
「わかりました。それと例の宝石の件ですが、もしかしたら全く同じものがあるんじゃないですかね」
「どういうことだ?」
「あの形ですよ。まるで双円錐を真半分にしたみたいでしょ?」
「双円錐? なるほどな……でもそんなことは鑑定書に記載されてなかっただろう?」
「ええ、こちらは鑑定書だけで現物がない。あちらは現物があっても鑑定書を焼失している。そこに惑わされてるんじゃないでしょうか」
「あちらの鑑定書は戦争時に焼失したという事だったか……なるほど。勝手にひとつだと思い込んでいたとしても説明はつくな」
「もしそうなら、オークションに出た方は斎藤所有の『女神の涙』じゃないということですよね? となると、まだ国内にある可能性が出てきます」
「徹底的に家捜しはしただろ? あと調べるとしたら住人の下着の中かそれこそ飲み込んでいるかだ」
「レントゲンにでもかけてみましょうか」
「ははは! どういう言い訳で病院に連れて行くんだよ」
「正直に言いますよ。宝石を飲んでる可能性があるからって」
「仮に飲んでいてももう排出されているだろ? 今更だ」
「そりゃそうですけど……」
伊藤が悔しそうに顔を顰めた。
「焦るな。今日の遺言書に何が書いてあるかを聞いてからにしよう」
「はい……」
初めて『女神の涙』の鑑定書と由緒書を見たときに感じた違和感を、そのままにしていた自分を殴ってやりたいと伊藤は思った。
そんな伊藤の肩をポンと叩き、課長が軽い口調で言った。
「昼飯を食ってから出よう。今日は……蕎麦の気分だな。付き合え」
「はい」
課長の好きな蕎麦屋といえば五反田だったなと考えながら、伊藤は部屋に戻って藤田に車の確保を命じた。
十三時、昼休みから戻ってきた同僚刑事に声を掛け、課長と一緒に藤田が運転する車に乗り込む。
蕎麦屋に到着したのが十三時三十分、ランチタイムのピークは過ぎていたので、提供までは時間も早く、蕎麦湯まで全てを平らげたのは、まだ十四時を少し回ったくらいだった。
「ここからだと二号線が一番早いと思います」
藤田の言葉に課長が諾の返事をした。
見るともなく車窓を流れる景色を追っていた伊藤が声を出した。
「あれってインドネシアの大使館でしたっけ」
藤田がスピードを緩めた。
「ああ、そうだな。この辺りは大使館だらけだよな」
何気なく返事をする課長の顔を見た伊藤だったが、何も言葉を発しなかった。
なぜ何度も何度もこの国の名が出てくるのだろう。
本当に一度出張申請しても良いかなと考えているうちに、斉藤邸に到着した。
時刻は十四時三十分、約束の時間には余裕がある。
「いらっしゃいませ、橘先生から伺っています。どうぞこちらに」
当主の葬儀を終えた執事の山中は、思っていたより元気な顔をしていた。
「客間の方に集まっておられますよ。後は山本先生だけです」
「山本先生はお帰りになったのですか?」
「患者がいなくなったのですから。ここに留まる必要は無いでしょう?」
言われてみればその通りなのだが、この屋敷に足を運ぶようになってからずっと、山本医師とは顔を合わせていたので、居住者のような感覚になっていた。
山中に案内され、何度も入った客間の前に立つ。
開け放たれたドアの中には、橘弁護士と向き合うように座る小夜子の姿があった。
「お邪魔します」
課長を先頭に入室する刑事たち。
山中が壁際に並べた椅子を勧めた。
「数日ぶりですわね、あれから何か進展がございましたか?」
いつものように小夜子が落ち着いた喋り方で話しかけた。
「申し訳ございません」
課長が口を開く。
ニコッと笑った小夜子が、入口の脇に控えていた美奈にお茶の準備を命じた。
丁寧に淹れられた日本茶を口に運んだとき、ドアの前に山本医師が姿を現した。
何も言われないのに、遠慮なく小夜子の隣に腰を下ろした山本医師に、少しだけ非難めいた視線を投げた橘弁護士。
刑事たちはその一瞬を見逃さなかった。
「全員揃いましたね。山中さんも長谷部さんも美奈さんも揃ってますね?」
橘弁護士の声に、使用人たちは無言で頷いた。
「では、始めましょう」
室内に緊張感が走った。
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