第14話 昔のこと
「では私は厨房で通常業務をおこなっていますので、御用があればお呼び下さい」
山中が出て行きパタンとドアが閉まる。
小夜子が窓際のライティングテーブルに移動した。
「私が起きていますので、先生は少し休まれては如何ですか?」
「そうだな。朝食を食べたら少し眠くなったよ。そこのソファーを借りるから、もし斉藤が動いたらすぐに起こしてくれ」
「畏まりました」
そう言うと小夜子は遠慮なく机の上の本に手を伸ばした。
「相変わらずトーベ・ヤンソンかい?」
「ええ、大好きですの。私の初恋はスナフキンですもの」
「ははは! 妖精に恋をしても報われんよ」
小夜子は山本医師に笑顔だけを向けて、本に視線を落とした。
それから数時間、時折ゴトゴトと床に響く音がするが、斉藤が目覚める事は無かった。
ふと窓の外に視線を投げる小夜子。
門扉の横で大きくなった桜の木がちらほらと花弁を見せ始めている。
芝生も色づき始め、花壇の水仙はそろそろ盛りを過ぎようとしていた。
ふと幼い頃の記憶を辿る。
両親が他界したと聞かされたあの日も、今日みたいに晴れた日だった。
授業中だというのに職員室に呼ばれ、行ってみると三つ上の兄はすでに来ていた。
ばあやがしどろもどろに説明をしていたが、一年生になったばかりの自分には理解できない言葉ばかりだったという記憶しかない。
「縊死って首をくくることだったのよね……新しい飲み物かと思ったわよ」
小さな声で自嘲する小夜子の頬を、フッと風が撫でる。
それからは激動の日々が待っていた。
兄は親戚の叔父が引き取って行き、自分は父親の友人という男に手を引かれて住み慣れた家を出た。
少しの着替えだけが入ったボストンバッグを渡しながら、泣いているばあやの顔が忘れられない。
今日から父親だと言った初対面の男が持っていたランドセルの赤だけが、あの頃の記憶の中にある唯一の色だ。
『お前は今日から田坂小夜子になるんだよ』
『お父様は? お母様はどこにいらっしゃるの? お兄さまはどこなの?』
小夜子の質問には何も答えず、田坂と名乗ったその男は容赦なく車を出した。
「ばあやはあれからどこに行ったのかしらね……」
田坂家の養女となった小夜子は、何不自由なく育てられた。
私立の小学校に編入し、そのまま中高一貫の女学校に上がった。
兄の消息は全く知らされず、小夜子も聞き出すようなことはしなかった。
茶道と華道は当たり前、ピアノと油絵も嗜みだと習わされる日々。
親しい友人も数人はできて、ごく普通の学生生活を送っていた。
そして進路を決める時期となり、いつかは小説を書いてみたいと考えていた小夜子は、大学進学を希望した。
相談した養父から返ってきたのは『却下』という言葉だった。
『なぜ? 今どきは女性でも大学に行くのも珍しくは無いわ』
『行くなら短大にしておきなさい。お前をすぐにでも娶りたいと言っている人がいるんだ』
『そんな……酷いわ』
『これはもう決まったことだ』
それきり養父は取り付く島もなく、小夜子は短大に入学した。
卒業したら結婚という切羽詰まった状態の時、養母が病に倒れた。
そして一年、看病の甲斐もなく養母は逝ってしまった。
小夜子に対してどこか遠慮がちだった養母との最後の半年は、小夜子のその後の人生に大きな影響を与えた。
喪に服すこと一年、遂に小夜子は四十歳も年上の斉藤雅也の後妻となった。
一陣の強い風が吹き、桜の枝先を激しく揺らす。
それでも落ちない花びらに、小夜子はフッと笑みを浮かべた。
「小夜子……」
弱々しい斉藤の声に我に返る小夜子。
「ご主人様!」
鋭い声を出してベッドサイドに駆け寄る。
「目が覚めたのですね? ご気分は?」
薄目を開けた斉藤の眼球だけが小夜子の方に動いた。
「悪くはない。いつもと同じだ……何やら騒がしいな」
「ええ、後で説明しますからこのまま動かないでくださいね」
小夜子がソファーに向かってもう一度声をあげる。
「先生、山本先生!」
山本がゆっくりと体を起こした。
「ん? ああ……斉藤……起きたのか。どうだ? 気分は」
掛けていた毛布を丸めて山本医師がベッドサイドに近づいた。
「いつも通りだ。これはいったい何の音だ?」
「刑事が家探しをしているんだ。出てくれば僥倖だそうだ。放っておこう」
「そうか……やはりまだ見つからんか……」
小夜子は夫が激高するのではとハラハラしていたが、今日の斉藤は落ち着いている。
「時間がかかるだろうな……小夜子、刑事には由緒の話はしたのか?」
「いいえ、まだしていません」
「そうか」
そのまま斉藤は再び目を閉じた。
山本が血圧を測りながら言う。
「大分落ち着いたな。このまま安静にしていたら、また前の生活パターンに戻れるだろう」
山本医師が注射器を指先でピンピンと弾きながら斉藤に話しかけた。
「もう少し眠れ」
小夜子はそっとベッドの側から離れた。
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