「カブトムシ」

これはたしか

私が五、六才の頃であろうか

或る夏の晩

夕食も済み

くつろいでいた私に

長い出張から帰ってきた父が

座敷の方から手招きするので

呼ばれるまま部屋に入ると

窓が開いた縁側の方を

黙って指差すのである

その方を見やると

正面の庭石の上に

一匹のカブトムシの雄が

所在無げに佇んでいる

私は違和感を覚えつつも

庭に出て手にとったのはいいのだが

或ることに気付いてしまった

カブトムシの背中に

小さい穴があいていたのだ

この時期になると

ホームセンターなどで

一匹五百円ほどで販売しているのだが

飛んで逃げてしまわないよう

背中に注射痕があるのだ

それを知ってか知らずか

ただ仕事帰りに買ってきたというのでは

あまりにも芸がないと思ったのであろう

私に気付かれないよう

そっと庭に離しておいて

私自身に捕らえさせて

喜ばせようという

父の思惑に気付いてしまった私は

ことさら嬉しそうに振るまい

その様子を見ながら

満足気にしている父の姿を

未だに覚えている

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