間違った幸福 4

 何ページかぱらぱらとめくってみたんだけど、どうやらこの日記は今日から書き始めたらしい。表紙をめくると見えるその一ページ目以外には、何も記述がされてなかったんだ。今日お風呂に遅れたのは、これを書いてたからなのかな。

 日記には、こう書かれていた。


『今日から、勉強のために毎日日記を書きます。私は飽きやすいから長く続くかわからないけど、できるだけ頑張って書きます。誰にも読ませる気はないけれど、ちゃんと書きます。』


『今日も、楽しい一日でした。いつものようにエイトと勉強をして、夕方散歩をして、三人でご飯も食べて、たくさんお話もしました。昔では考えられないくらい、充実した日々です。』


『未だにこの夢がさめないことを、少し恐ろしく感じるときもあります。そんな中で、やっぱり優しくしてくれる人がいるっていうのは、私からするととても安心します。いつも私のお世話をしてくれる二人には、心から感謝しています。』


『私のお世話をすることは、怠惰にはならないのでしょうか。もしなるのなら、私はすごく申し訳ないことをしていると思います。迷惑もたくさんかけてるかもしれません。でも、できることならこれからも、エイトたちと仲良く一緒に暮らしていきたいなって、今日改めて思いました。』


 なんか、少し悲しい気持ちになるね。今までヒダカの勉強のことばかりで、ヒダカ自身の話についてはあんまり聞いてこなかったんだけど、ヒダカからしてみれば勉強なんて二の次三の次。ヒダカにとっては、生きていくことがまず第一の最優先事項なんだ。

 そんな中で生命すらも危ぶまれる状況に単身、身を置かれるっていうのは、他者からは想像もできないくらい不安なことに決まってる。僕が気安くヒダカに「分かるよ、その気持ち」なんて言ってしまったらそれはもはや暴力だ。実際、僕が同情できるのは、ヒダカが感じてる不安のたった一パーセントにも満たないだろうから。

 同情なんて、しないほうがいいに決まってる。


「えっ」


 突然、部屋の外の廊下から小さく声が聞こえたかと思うと、慌てた様子のヒダカが、走って僕のほうへと向かってくる。

 そのまま走って部屋の中まで入ってきたヒダカは、僕の目の前まで来たところで、散乱した本に足を滑らせて、その場で転んでしまった。一瞬、痛そうに膝をさすりながら顔をしかめていたが、すぐに思い返したように僕のほうへと顔を向き直す。お風呂上がりの艶やかな黒髪は、ふわりと広がってはまたすぐに元に戻った。


「日記、読んだ?」

「あ、う、うん。ごめん、悪気はなかったんだ」

「変じゃなかったよね」

「そ、そりゃあ、もちろん! 何一つ変なことなんてなかったよ! 誰だって、不安になることくらいあるよ!」


 同情なんて、いけないのに。

 ときに、優しさってのは間違った判断をしてしまうことだってあるらしい。


「そうじゃなくてさ」ヒダカはゆっくりと立ち上がりながら、続ける。

「文法、おかしくなかったよね」

「あ、文法。特におかしいとこはなかったと思うけど」

「よかったぁ。辞書で調べながら書いてたんだけど、それでもちょっと不安だったんだよね」


 ヒダカの顔がほころびる。

 自然に笑った顔は、初めて見たかもしれない。


「それはそうとして」


「エイト。何か言い訳はある?」

「……いやぁ、部屋の中から急にドタドタと音がしたからねぇ。泥棒でも入ったんじゃないかと……ごめんなさい」

「女の子の部屋にはね、勝手に入ったらダメなんだよ」

「……はい。以後気をつけます……」

「日記も勝手に読むの禁止ね。少し恥ずかしいから。見せたいときは、自分で見せるし」

「はい……」


 二人で散乱した本を片付けながら、話す。


「明日、楽しみだね。エイト」

「二人だけで回るんでしょ?」

「うん。え、だめ?」

「いや、もちろんいいんだけど。学校の人とか知り合いの低学生とかもいるかもしれないから、ヒダカのことどう説明しようかなって」

「親戚、ってのでいいじゃん」

「ヒダカと僕じゃあ、さすがに顔違いすぎるし……」

「そんなこと誰も気にしないよ」

「みんな何かしらいじってくるかも」

「大丈夫だって」


 このとき、少し嬉しそうに微笑んだヒダカの顔を、僕は今でも忘れられずにいる。

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