第47話 女性を好きになったのは、初めてでした

 それから、私がどうやってその場から逃げ出したのかは、断片的にしか覚えていない。


「かなた、待って、かなた!」


 駆けだした私を追いかけてきた結衣さんに、手を掴まれて、足が止まる。


「やだ、触らないで!」


 自分でもびっくりするくらい大きな声で、手を振り払おうと振り返った。強く掴まれた手首が、軋むように痛む。いつも優しいはずのその手に、こんなに強く触れられたのは、初めてだった。


「絶対、離さない。かなた、お願いだから話を聞いて」


 話? 今更何を。ずっと、話してくれなかったくせに。私はずっと、待っていたのに。どうして、こんな大事なこと、ずっとずっと、言ってくれなかったの。


 思わず、結衣さんをにらみつけるように見上げた。私の視線に怯んだように、その黒い瞳が、今にも泣きそうに歪む。なんで、そんな顔するの。泣きたいのは、こっちのほうなのに。


「……あんなに素敵な恋人がいたなんて、知りませんでした」


 吐き出した言葉は自分でも驚くほどに冷め切っていて、胸の内にこみ上げる感情が何なのか、自分でもよくわからない。


 怒りなのか、悲しみなのか、その両方なのか。今までに感じたことのない感情の渦が、私の心をかき乱していく。


「違う、恋人じゃない。慎二は、親が決めた婚約者で……」


「結婚する約束をしているってことですよね。それを世間一般では恋人って言うんですよ!」


 半ば叫ぶようにそう言うと、私の腕を握るその手が、微かに震えているのがわかった。


「ごめん……本当に……。言わなきゃいけないって、わかってたけど……どうしても……言えなくて……」


 結衣さんらしくない、消え入りそうなほど、弱々しい声だった。その声を聞いて、あぁ、これは本当のことなんだ、と実感がこみ上げてくる。


 本当に、結衣さんには婚約者がいて……将来、結婚するつもりでいるんだ。そっか、だから、「別れが確定している以上、恋人は作らない」って、そういうこと。


 視界がじわじわと、滲んで埋め尽くされていく。一緒に暮らしてきた記憶が、優しい思い出が、愛おしく思う毎日が、音を立てて崩れていくような気がした。


 頬に冷たいものが伝ったと思ったら、次から次へと溢れ出して、止まらなかった。


「……結衣さんは……女性が好きなんじゃ、なかったの……?」


 息が苦しくなって、かろうじて絞り出した言葉は、みっともなく震えてしまった。


 男性は好きになれないって、だから結婚したいと思ったことないって、言ってたくせに。


「私が好きなのは……かなただけだよ……。誓って、嘘じゃない。男性を愛せないのも、本当」


「じゃあ、なんで……。ほんとうに……北上さんと結婚するの……? だって、男の、人なのに……」


「……黙ってて、ごめん……」


 ごめん、なんて言ってほしくなかった。嘘でも違うと言って欲しかった。だってそれは結婚を肯定してることを意味する。


 理解してしまったら、子供みたいに、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。胸が痛くて、息ができない。死んでしまいそう。


「かなた……」


 結衣さんが、はっとして、涙を拭おうと私の頬に手を伸ばした。でも、私はその手を思い切り払い除けていた。


「……嫌い。結衣さんなんて、嫌い。大っ嫌い!!」


 俯いた顔を上げて、結衣さんを真正面から見据えてそう強く言葉にした。


 目の前の結衣さんが、今まで見たことがないくらい酷く傷ついたような顔をしたから——思わずその場から、逃げるように駆け出した。


 行く宛なんてない。どこに行けばいいのかもわからない。


 だって私が帰る家はいつだって結衣さんがいる場所だったから。もう、帰る場所なんてどこにもない。


 結衣さんは、もう、追っては来なかった。






 それから、どれぐらいの時間が経ったのかはわからない。公園のベンチに腰掛けてぼうっとしていると、スマホの着信音が鳴った。


 ディスプレイに浮かんだ名前に、思考停止したまま私は通話ボタンをタップしていた。


「……もしもし」


『かなたちゃん? 今どこにいるの?』


 無意識に電話に出てから、あ、律さんの声だ、と思った。


「どこ……だろう、ここ」


 ひたすらに走ったから、ここがどこかわからない。行きついた先の公園で、疲れ果ててベンチに座った。スマホの向こうで、律さんが小さく息を吐いたのがわかる。


『迎えに行くから、位置情報、送ってくれる?』


 迎えに来る? 律さんが? すぐに、結衣さんが連絡したのか、と思い至る。結衣さんから電話が来たところで、私が出ないとわかっていたからだろう。


「……結衣さんに、場所、教えるつもりですか?」


『教えないよ。私が行くから、信じて』


 落ち着き払った律さんの声を聞いて、少しずつ意識が現実に戻ってくる。一人で、行く当てもなくて、途方に暮れていた。だから、律さんからのその申し出は、ありがたかった。


「すみません……ありがとうございます」


『ううん。すぐに行くから、待っててね』


 律さんに位置情報を送って、夜空を見上げる。憎らしいほどの曇り空で、星ひとつ見えなかった。

 春先だっていうのに、夜は冷える。アルコールで暖まった筈の身体はすっかり冷え切っていた。


 散々泣いたせいで、瞼が重い。現実と夢の境目にいるみたいに、あっという間に時間が過ぎていった。






「かなたちゃん!」


 そうしてからしばらく。ずっと動けないままでいると、よく知った声が聞こえて顔をあげた。律さんが、心配そうに眉を寄せて駆け寄ってくる。


「律さん……」


「大丈夫? 寒かったでしょ」


 そう言って、私の冷え切った手を取って、握ってくれた。暖かい。また涙が溢れてきそうになる。


「……律さんは、私と結衣さんのこと、どこまで知ってるんですか?」


 弱った心に優しさが刺さる。またこぼれ落ちそうなほど、涙が瞳にたまっていくのがわかる。震える声で見上げると、律さんは、「ごめん、全部結衣から聞いた」と気まずそうに答えた。


「とりあえず、今日はうちにおいで。結衣にはもう言ってあるから」


 そう言って、律さんは私の手を取った。結衣さんの居る家に帰れる気がしなかったから、こくりと頷く。律さんに迷惑をかけてしまうとわかっていたけれど、今はその優しさに甘えたかった。







 律さんの住む家は、私たちが通う大学からそう離れていない駅近の1LDKのアパートだった。地方出身の律さんは、一人暮らしをしている。


 さっぱりしていて何もない結衣さんの部屋と違って、整頓されているけど少し生活感があって律さんらしい。


 テーブルには分厚い本が積んであり、付箋が何個もついている。ちゃんと読み込んで、勉強している証拠だ。見た目は派手だけど、あの結衣さんとつるんでいるくらいだし、やっぱり勉強は当然できるのだろう。


 ソファに座ることを促されて腰を落ち着けると、律さんはアイスティーを出してくれた。そういえば、喉がからからだった。いただきます、と小さく呟いて、口を湿らせる。


 隣に座った律さんが、心配そうに私の顔をのぞき込む。


「……ちょっとは落ちついた?」


「……はい。すみません、迎えにきてくれて、ありがとうございました」


 時計の針は十二時を回ろうとしている。二次会に行っていたはずなのに、わざわざ来て貰って本当に申し訳ないことをしたと思う。


「それで……結衣と何があったか、聞いてもいい?」


 話したくなければ言わなくてもいいけど、と律さんは続ける。家についてきた時点で、話す覚悟はできていた……というより、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。


 私ひとりでは、この感情を上手く処理することができなかった。


「……一ヶ月くらい、前の話なんですけど。私、酔っ払って結衣さんと、セックスしたんです」


「ぶっ!!!」


 口に含んだアイスティーを思い切り吐き出す勢いで、律さんが咳き込む。爆弾発言だったかもしれないけど、まだショックを受けたままの頭では、オブラートに包んで伝えることができなかった。


 そんなに驚くということは、知らなかったのだろうか。


「ご存じ、なかったですか? 結衣さんから、聞いてるかと思いました」


「あ、いや、知ってたっていうか、気付いてたけど、まさかかなたちゃんの口からそんな言葉が出てくるとは思わなくて、ちょっとびっくりしちゃった。どうぞ、続けて」


「……大前提として、私、男性としか付き合ったこと、ないんです。だから、女性を好きになったのは、初めてでした」


 アイスティーのグラスについた水滴を、ただぼうっと眺めながら続ける。


「気持ちが通じ合ったと思ったんです。恋人はつくらないって、結衣さんは言うけど……私のこと、ちゃんと好いてくれてるって、思ってました。何か理由があって、恋人にはなれないけど……いつかはって」


 うん、と相づちを打って、律さんがそっと私の肩を撫でてくれる。


「でも……結衣さん、婚約者がいるって。律さん、知ってましたか?」


 きっと、律さんは知らなかったんじゃないかと思う。もし知っていたとしたら、きっと律さんは私が結衣さんに恋することを、止めたと思うから。律さんは、そういう人だから。


「……さっき、結衣から聞いた」


「そうですか……。私は、浮気相手だったって、ことですよね」


 結衣さんは最初から北上さんと結婚する気だったんだ。だから、私には言わなかった。大学四年間の、火遊びみたいなものだったのかな。私も、結衣さんにとってその他大勢の女の子の一人だったってこと、なんだろうか。


 客観的事実を述べればそうなのかもしれない。でも、そう思えない自分がいる。信じたくない自分がいる。胸元のネックレスに手を当てる。私だけを特別だと言ってくれた結衣さんの言葉に嘘はないって、信じたい。


「……かなたちゃん。私、結衣のこと一年の時から見てるけど、あいつ、本当に変わったよ。女遊びもきっぱりやめたし、どこからどうみても結衣はかなたちゃんのことが好きよ。それは絶対、間違いない。確かに結衣のしたことは最低だし、許されることじゃない。でも、その気持ちだけは信じてあげてほしい。嘘じゃないって、私が保証する」


 ギュッと強く私の手を握って、律さんが真剣な眼差しでそう言った。


「それなら、どうして結衣さんは……北上さんと、結婚しちゃうんですかね……。だって、女性が好きなのに……」


「……結衣が同性愛者だって、お父さんは知らないのよ。普通の家と違うからね。あんなちゃらんぽらんでも、一応、日本有数の財閥企業の後継者だから」


 そう言われて、あぁ、そうかと納得した。改めて、私が恋した人の背負うものの大きさを、思う。

 一般家庭とは違うってこと、何度も目にしてきたはずだったのにすっかり抜け落ちていた。


 大学生が一人で住むにはあまりにも豪華な一軒家も、車も。あの日花火を見たホテルのスイートルームも、全部。

 すべては結衣さんが「財閥企業のお嬢様」だから、持っているものだった。


 そんな人が、一般的な人たちと同じような恋愛をすること、ましてや同性との未来を夢見るなんてこと――できるわけがなかったんだ。


 だから結衣さんは、いつかくる別れを見つめてた。たぶん、ずっと。


 結衣さんの誕生日に、交わした約束を思い出す。あまりにもささやかで、儚い願いだった。誕生日を一番に祝う、ただそれだけの約束。


 きっと叶えてあげられると思ってた。何年先だって、あなたが私の側にいてくれるなら、ずっと。


 思い返せば最初から、結衣さんは私に何も求めていなかった。見返りなんて求めずに、ただひたすらに優しさと愛情だけを与え続けてくれた。


 求めていたのは、私だ。私だけがずっと、結衣さんを求め続けていた。


 止めどなく溢れる涙を、律さんがそっと拭ってくれる。


「……これからどうするかは、かなたちゃんが自分で決めたほうがいいと思う。結衣に何を言われても、かなたちゃんが絶対に後悔しない道を選んで」


 言えない。私のために背負っているもの何もかも投げ捨てて、私を選んで欲しいなんて、そんなこと。


 大好きなあなたに――言えるはずも、ない。

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