episode1-閑 姫路美月の恋模様
ダンジョンアサルトの影響により自身の通う高校が休校になってから数日後の日曜日。
遠出をするというわけでもないのに、オシャレな勝負服に時間をかけてセットした髪型、派手過ぎない丁寧なナチュラルメイクと、バッチリおめかしをした姫路美月が氷室家のインターホンの前に立っていた。
本日のお目当てである氷室凪とは事前にメッセージアプリでやり取りをして訪問する日取りを調整しており、ここ数日は忙しそうにしているようだったが留守でないことは把握している。
凪は昔から仲良くしているお隣のお兄さんであり、普段であれば緊張することはないが今日はいつもとは違うとても重要な日であるため、美月は大きく深呼吸をしてから意を決してインターホンのボタンを押した。
ピンポーン、という軽快なチャイムの後、普段であればインターホン越しに氷室家の誰かの声が返ってくるところだが、珍しいことにこの日はインターホンからではなく、正面玄関からは見えない氷室家の庭の方から返事があった。
「美月かー? 開いてるから入っていいぞー!」
「うん、お邪魔します」
凪の重く響くような声ではなく、明の声変わり中の低すぎない声でもなく、氷室心の落ち着いた女性の声でもない。聞き慣れない、少女のように高く可憐な声。事情を知らなければ凪に悪い虫が寄って来たのかと警戒するところだが、今はそれこそが凪の声なのだと美月は知っている。
凪の言葉に従って門をくぐり庭の方へと足を向ければ、体操着姿で汗だくになった凪が手入れの行き届いた芝生の上に寝転がっていた。
「あれ、美月さん。どうしたんだ?」
「こんにちわ、明くん。今日は凪兄さんと会う約束をしてたんだけど……」
タイミングよく掃き出し窓から二つのコップを持って現れた明が、美月を見て少し驚いたような声をあげた。見れば明の方も少しばかり汗ばんでいる。反応から美月が来ることは知らなかったようであるため、珍しく一緒に遊んでいて、休憩中だったらしいことを美月は感じ取った。
「よく来たな美月。明は早く麦茶よこせ」
「あのなぁ、美月さんが来る予定なら先に言っておけよ。ごめん美月さん、何の準備も出来てない」
「ううん、気にしないで明くん。二人で遊んでたんだよね? こっちこそ邪魔しちゃったみたいでごめんね。これ、クッキーを焼いて来たから良かったらみんなで食べて?」
「いつも悪いな。立話もなんだし、とりあえず座ったら?」
明に促されるまま、美月は掃き出し窓に備え付けられた木製の小綺麗なベンチに腰掛ける。
美月が来ることを忘れて遊び惚けていた凪が100%悪いのは間違いないが、折角二人がまた仲良くできるようになったのなら、邪魔をしてしまって申し訳ないというのは美月の偽らざる本心だった。
凪が平定者を目指し始めたことで関係が希薄になってしまったのは美月も同じだったが、美月は凪を追いかけるように同じ高校へ進学し、現在は通学を共にして学校でもよく話しているため、むしろ明よりも凪と関わっている時間は長い。
凪の家庭内での振舞いまで正確に知っているわけではないが、凪の話を聞く限り最近では一緒に遊ぶということもめっきりなくなってしまったようであることは察していた。美月にとっては明も昔よく一緒に遊んでいた大切な幼馴染であり、凪と明がまた仲良くなれたなら、自分のことのように嬉しいのだ。
「ぷはー! 生き返った! んで、話ってなんだよ美月?」
上半身だけ起こして胡坐になった凪が明から受け取った麦茶を一息に飲み干し、シャツの裾を使って滝のように流れる汗を拭きながらそう問いかける。
まくり上げられた裾の下から、日に焼けていない白く美しいお腹が大胆に曝け出されていた。
「凪兄さん!!」
一度は腰を落としてしまったが、邪魔をしては悪いしまた出直そうかと考え始めていた美月は、それを見た瞬間普段からは考えられないほど大きな声を出して凪の名前を叫んだ。
「お、おお、どうしたそんな大声出して」
「どうしたじゃないでしょ! 凪兄さんは今女の子なんだよ!? もうちょっと自覚持って行動して! そんな気がしたから早めにちゃんと話したかったのに……!」
「急に何の話だよ」
「兄貴、今思いっきり腹が見えてたぞ。美月さんが言ってるのは、無自覚過ぎとか、無防備過ぎってことなんじゃないか」
「そうだよっ! 外で絶対そんなことしちゃ駄目だからね!? そ、その、今の凪兄さんは、えっと、なんていうか」
先ほどまでの勢いはどこへやら、凪に注意を促そうとするあまり思わず口を出そうになった言葉に、寸でのところで気が付いて美月はしどろもどろし始める。
「ああ、可愛いって? まぁ、今の俺はかなり美月に似てるしそりゃ可愛くて当然だわな」
「っ~~~!」
まさに凪の言う通り、今の凪の姿は可愛い女の子なのだからちゃんと自衛しなければ駄目だと美月は言いたかったわけだが、それを言ってしまえば自分で自分のことを可愛いと評するも同然だった。なにせ凪の言う通り、髪色や雰囲気の違いこそあれど現在の凪の姿は美月にかなり似ている。瓜二つというほどではないが、姉妹だと言われれば誰も疑わないほどだ。
自分の言おうとしていたことを言い当てられて、自信過剰だと思われちゃったかなという恥ずかしい気持ちと、凪に可愛いと言って貰えたという嬉しさがぐちゃぐちゃに混ざり合い、美月は声にならない悲鳴をあげて赤面することしか出来なかった。
「っとに、この無自覚兄貴は……。つーか、そもそもなんでそんなに美月さんに似てるんだよ」
「俺も噂程度にしか知らなかったけど、特異変性は強い執着とか縁に影響を受けるらしい。ダンジョンアサルトが発生した時、美月も巻き込まれてるのか、どうすれば助けられるかで頭が一杯だったからな。そのせいだろ」
「んんっ、とにかく! 凪兄さんはかよわい女の子になっちゃったんだから、そうやって無防備に肌を見せたり、今までみたいにところかまわず喧嘩を売ったりしちゃ駄目なんだからね!」
凪が自分に対して執着してくれている、あるいは強い縁があるというのは嬉しく、思わずにやけそうになってしまう美月だが、鋼の意思で怒っていますという表情を作ってビシッと凪を指さしながらそう告げた。
凪の気性が荒いのは昔からであり、今までは屈強な肉体のお陰で相手が引き下がったり、喧嘩になっても勝利を収めて来たわけだが、今後はそういうわけにもいかなくなる。
「心配すんな美月。この俺がそう易々とやられると思ってんのか?」
「でも、凪兄さんはもう冒険者になっちゃったんだよ? せめて異能が冒険者じゃなければちょっとは安心できたのに」
今時、女子供だからと言って弱者とは限らないのは誰でも知っていることだ。強力な異能を持つホルダーであれば、それこそ赤子だろうと大の大人に勝つことだってある。
しかし凪の異能はダンジョン外では全く役に立たない冒険者だ。それに加えて、今回の一件で凪が冒険者だということは調べれば簡単にわかるようになってしまっただろう。
冒険者やダンジョンは他の異能に比べて世間一般の注目度が低いため誰もが知っているということにはならないが、敵意を持った者が調べればすぐに冒険者だとバレるというのはとても危険なことだ。凪が見た目通り非力な少女であるということが簡単にわかってしまう。
「なっちまったもんはしょうがないだろ。それに俺がホルダーだったら美月を助けることも出来なかったはずだし、結果オーライってやつだ」
「まあ、美月さんの心配もわかるけどそこは俺の方でもフォローするよ。今みたいに人払いするくらいは出来るし」
「……うん。本当にお願い、明くん」
いくら世間一般の注目度が低いとは言っても、単独でのダンジョン踏破、それもダンジョンアサルトに巻き込まれた成りたてのホルダーがというのは前代未聞の偉業であり、当然冒険者の一部界隈からは注目を集めている。
マスコミには桜ノ宮が圧力をかけているため無理な取材は控えられているとは言っても、個人の行動まで止めることは出来ない。好奇心か、売名のためか、人によって理由は様々だろうが、付きまといや待ち伏せなどは本来それなりにあるはずだった。
しかし幸運にも明の持つ異能は人間の精神に対して強く働きかけることの出来るものであり、自身の生活圏が騒がしくなることを嫌がった明は、ここ数日異能を使って人払いを行っていた。それでも完全に弾ききれるわけではないが、明の異能を抜けて来た極少数の野次馬程度なら警察への通報で解決可能だった。
そしてそのことを美月も知っているため、特に驚くでもなく真剣な様子で明に念押しをした。
「いやちょっと待て。明お前、ホルダーだったのか!?」
「あー、母さんにも口止めしてたから兄貴は知らないのか」
知らなかったのは凪だけだった。
平定者を目指して魔術師になろうと努力している兄の手前、明は自分がホルダーになったことを言い出せなかったのだ。
「少しもそんなの聞いてないぞ! どんな異能だ? 種類は? 異能強度は?」
「
「世界系か、面白いじゃねーか。よし、いますぐ使って見せてみろ!」
「そんなの後でも出来るだろ。折角美月さんが来てくれたのに何言ってんだよ」
「美月! 悪いけど俺は用事が出来た! 話はまた今度だ!」
さきほどまで疲れ切って動けませんというように芝生の上で胡坐をかいていた凪が、目を輝かせて楽しそうに声を弾ませながらそんなことを言いだした。自分は冒険者になってしまったというのに、相変わらず異能には興味津々なんだなと思わず美月は苦笑してしまう。
「良いけど、女の子の身体で困ってることとかない? 今日は何か助けになれることがあればと思って来たから」
「んー、とりあえずは大丈夫だ。母さんが何かにつけて色々教えてくるからな」
「そっか。じゃあ、今日は帰るね。元の姿に戻れるまで、本当に気を付けてね凪兄さん」
女の子の身体で困ってることがあれば教えてあげるというのはあらかじめ用意していた建前だった。凪と凪の母の仲が良好なのは美月も知っており、順当に考えればそうなるだろうことは予想していた。
どうやら落ち込んでいる様子もなく、当初の目的は達成できそうもないことを理解して、美月は大人しく引き下がることにした。今は色々忙しくしていて現実逃避をしていても、いつか必ずその事実に直面して折れる日が来ると美月は考えている。だからその傷を癒してあげるのは、今日でなくても良い。
「おう。ま、当分はこの姿のままのつもりだから一応気を付けておくわ」
「――え?」
別れ際に何気なく告げた言葉に対する凪の返答に、思わず美月は聞き返してしまう。
それは美月にとって全くの予想外。ほんの少しも考慮していなかったことで、理解が遅れる。
凪は元の自分に戻りたいと思ってるに決まっていると、美月は勝手にそう思い込んでいた。
「この姿のまま? どういうこと? 凪兄さん、男に戻らないの?」
「とりあえず平定者になる目途がたつまではな」
「な、なに言ってるの凪兄さん……? 凪兄さんは冒険者になっちゃったんだよ? 平定者になんて、そんなの」
平定者になる目途が立つまでなんて、そんなの死ぬまでと同義だ。
通常のホルダーでさえ、平定者に至る者などほんの一握りどころかほんのひと摘みだけ。
ましてや冒険者が平定者になるなんて、そんなこと出来るはずがない。一生かかっても不可能だ。
凪が平定者を目指していることは当然美月も知っており、そして冒険者は最も平定者から遠いホルダーだということも知っている。それは美月が異能に詳しいからではなく、凪のことを知りたくて、凪の語る異能やホルダーの話をよく聞いていたからだ。
凪自身が一番よくわかっているはずであり、だからこそ美月には悪い冗談だとしか思えなかった。
「難しいだろうな。だけどこの菓子姫の力なら、可能性はあると俺は思ってる」
「……そっか。凪兄さんは、まだ諦めてないんだ」
「俺が冒険者になった程度で諦めるタマか?」
凪の諦めが悪いことなんて、一度決めたことをおいそれと曲げるような性格じゃないことなんて、美月は知っていたはずだった。
だが、もう良いじゃないかと、もう諦めて欲しいと、そう願うがゆえに、美月は凪の意志が折れる時を待ち望むようになっていた。
「そうだよね、凪兄さんなら。でも、それと元に戻らないのに何の関係があるの?」
「クラス名が菓子姫だからな。男に戻ったらクラスが変わる可能性がある。元に戻れるんなら俺だって戻りたいとこだけどな」
「じゃあ、凪兄さんは平定者になるために、我慢して女の子ままでいるつもりなんだ」
「そういうことになるな。別に女になりなかったとかはないから、勘違いするなよ」
美月にとっては、そんな理由の方がマシだった。
前から女の子になりたかったと凪が言うのなら受け入れられた。
冒険者になってでも、こんな姿になってでも、それでも平定者になることを諦めないなんて、それでも
「うん、わかった。じゃあまたね、凪兄さん、明くん」
「また今度埋め合わせはするからな!」
「ごめんな美月さん。俺が余計なこと言ったせいで」
凪と明の見送りの言葉に手を振るだけで答え、美月は振り返らずに急ぎ足で氷室家を後にする。
そしてすぐ隣にある自宅へと帰り、逃げるように自らの部屋に駆け込みへたり込んだ。
(ズルい! ズルい! ズルい! ズルい!)
氷室凪が平定者を目指す理由。
明は忘れたことすら忘れてしまった。
けれど美月は覚えている。
(私の方がずっと好きなのに! 私の方がずっと大切に思ってるのに!!)
顔も名前もわからない、そんな人物が本当に存在したのかすら定かでない、どこかの誰か。
姿はなく、痕跡はなく、思い出はなく、ただ、何かを忘れているはずだという焦燥感だけがある。
そんなどこかの誰かのために、凪は命をかけて平定者を目指している、
【あら~、また失敗しちゃったの~?】
「レヴィア……」
声を押し殺してすすり泣く美月の身体から、ずるりと這い出た黒い影が、人の心の隙間に入り込むような間延びした優しい声で美月に語り掛ける。
【心配しなくても大丈夫よ~。今はまだ実感がないだけで、いずれわかるわ~。冒険者が平定者になれるわけないってことくらい~】
「でも、菓子姫なら可能性はあるって!」
【そう思い込んでるのよ~。誰だってそんなにすぐは割り切れないでしょ~? 諦めてないんじゃなくて~、諦めたくないのよ~】
「……凪兄さんにそんな風に思って貰えるなんてズルいよ」
【いない人には勝てないわよ~。だって勝負すら出来ないんだもの~。でも~、いない人には彼を慰めることも出来ないでしょ~? 彼もいつかは必ず折れるわ~。その時あなたが彼を慰めてあげればいいわ~】
「本当に、凪兄さんが諦める時なんて来るのかな」
美月の知る限り、凪はこれまで絶対にやると決めたことは一度も諦めたことがない。
平定者になるという目標もそうだが、現時点で達成できているかは別として、凪が絶対にやると決めたことを投げ出した姿など美月は見たことがない。
きっと今回のダンジョン踏破もそうだったのだろうと美月は思う。普通なら出来るわけがないと、不可能だと言われるようなことでも、凪は決して諦めない。
美月には凪が平定者になることを諦めている姿が想像出来ない。
【あのね美月~、私でも平定者の手にかかれば羽虫みたいに簡単に消し飛ばされちゃうのよ~? 彼にそんなことが出来ると思う~? 彼が私たちに勝つイメージなんて出来ないでしょ~?】
レヴィアの力が非常に強力であることは、実際にその力の一部振るったことのある美月もよくわかっている。確かに、冒険者でありダンジョン外ではただの少女と同等の力しかない凪に負ける気はしなかった。
そして平定者はそれさえ圧倒的に上回るというのだから、凪がその高みへと駆け上がることなど、普通ならどう考えたって無理な話だ。
【それでも心配なら~、いっそ私たちで彼を折ってあげればいいわ~】
「え……?」
【だって可哀想じゃない~? 叶いもしない夢を見て一生無駄な努力をし続けるなんて~。それも、実在するかもわからない人のためなんでしょ~? 解放してあげた方が彼のためだと思わない~?】
「それは……」
【今すぐにってわけじゃないわ~。これからじっくり考えましょ~? 私はいつだって美月の味方なんだから~】
「……うん、ありがとうレヴィア」
美月の精神が落ち着いたのを見計らってか、レヴィアと呼ばれた黒い影は美月の身体に重なるように姿を消した。
「私が、凪兄さんを……」
一人になった部屋の中に、美月の昏い呟きが落ちて行った。
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