不尽の瞳
@saito_yurin
第1話 この世界は
全ての鮮やかな色が混ざり合い、どうしようもなくなってしまった黒い世界。
瞼を開けても変わらぬ世界で、右足の痛みだけが現実を主張している。
支給されている制服に着替えた私は、部屋の外に人の気配が無いことを確認し、ゆっくりとドアを開ける。ドアノブを捻ったまま廊下に出ると、なるべく音を立てないようにして鍵を閉める。
再び沈黙が訪れると、痛む右足を庇うようにゆっくりと振り返り、そのまま出口に向かって歩き出す。
黒い窓がズラリと並ぶ人気の無い廊下に、体重をかける度に軋む床の音と、無遠慮に擦り切れる靴底の不気味な音だけが木霊している。
目に映る全てが無彩色の世界で、手元の蝋燭だけがゆらゆらと色を纏わせていた。
従業員用の宿舎を出て冒険者ギルド本館の裏口から中へ入ると、そのまま真っ直ぐ備品庫へ向かう。
そっとドアを開けて備品庫に入ると、手に持っている蝋燭立てを落とさないように握り直す。先週設置したばかりの入口横の掃除用具を手に取って、端から順に掃除を始める。しゃがむ度にズキズキとした痛みが酷くなっている気がするが、この仕事だけは今やっておかなければ後々困るはずだと言い聞かせる。
いつもより暗いので、見間違えに気をつけながら手早く備品を数えつつ、見えない塵や埃を取っていく。
一通り掃除が終わったら、中央のテーブルに蝋燭立てを置き、棚から取ってきた紙に補充が必要なものを書き出す。八つ折りにし、クシャクシャにならないように気を付けながら、スカートのポケットにしまっておく。
さて、そろそろ朝食を食べに戻る時間だ。足を引きずって向かったとしても、まだ人が少ない時間帯に間に合うだろう。ズキズキとした痛みを少しでも抑えるために、朝礼までの空き時間で足の包帯をキツく巻き直した方が良さそうだ。
「全員揃ったな。では朝礼を始める」
ギルド長の一言でいつものように職員全員での朝礼が始まった。ギルド長の前には、間延びした顔、睡魔に負けている顔、ゴテゴテの化粧がキマっている顔、目に光がない顔、様々な顔が勢揃いしている。
いつもの景色をいつものように眺めていると、一瞬だけギルド長の視線がこちらに向いた気がした。
「しばらく宿泊部の清掃はお前に任せた。」
先程までの間延び顔が途端に歪み、振り返ってこちらを睨みつける。それは昨日までミストが引き受けていた仕事だったからだろう。
朝礼が終わりギルド長が居なくなると、集まっていたギルド職員達はバラバラに散っていく。
ある程度人が捌けるのを待ち、そろそろ私も仕事に向かおうと足を踏み出した矢先、誰かの足が悪意を持って飛び出してくる。それを避けようと右足に力を入れてしまい、激痛が走った後に結局その足に引っかって盛大に転んでしまった。
静まり返った部屋の中、一呼吸置いてゆっくりと立ち上がると、何かを言われる前に部屋を出ようと再び歩き出す。
足を引っ掛けてきた張本人は、ゆっくりと歩く私の隣にやってきて、
「俺もわざと怪我しようかな」
と間延び顔を歪ませたかと思うと、反応を見ることなくさっさと去っていった。
「代わってくれてありがとうくらい言えばいいのに」
後ろが聞こえてきたその言葉にドキッとし、つい反応してしまいそうになる。どこかへ走り去ってしまいそうな心を呼び戻し、ひたすら外を目指して歩き続ける。
ズルズルと靴が擦れる音と、ヒソヒソと聞こえる声が混ざり合い、部屋の隅にまでじっとりとした悪意が充満している。
誰も助けてはくれない。
もちろん、全員から悪意を感じている訳では無い。憐れむ顔をしている者もいれば、間延び顔に対して憤っている者もいる。
それでも、この状況で私に手を差し伸べるほど、私自身に価値は無い。これは卑屈になっているのではなく事実だ。
数週間前に入ってきたよく分からないポッと出の新人より、既存の人間関係を優先するのは当たり前のことだ。
集団生活において、既に確立された自分の立ち位置を守ろうとするのはごくごく自然なことだ。そして、それは本当に繊細なバランスで成り立っているため、少しの行動で全てが崩れることも有り得る。
つまり、私の味方をすることでその他大勢との関係性が崩れる可能性があるというのに、わざわざ進んで関わろうとする方が不自然だという意味だ。
それに、私はもう他人と関わることに疲れてしまった。だからこの状況は私にとって好都合でもあり、これこそ理想の環境とも言える。
そうして永遠にも感じられる長い時間をかけ、私はやっとの思いで部屋の外へとたどり着いたのだった。
私の代わりに仕事を任された間延び顔の様子が気になり、念の為宿泊部の様子を見に来た。
宿泊部の清掃は誰もが避けようとする仕事のため、私がギルドで働き始めてから今までずっと引き受けていた。私にとっては一人きりでできる最高の仕事内容だったからだ。
勿論、楽な仕事では無い。あえて具体例は出さないが、冒険者の泊まった後の部屋が信じられないくらい汚れている時もある。
それ故にあの間延び顔が真面目に清掃をしているとは思えなかったのだ。
「あんた! 大丈夫なのかい?」
受付に居たおばちゃんは、私を視界に収めるなりカウンターから身を乗り出して、信じられない声量で叫び始める。早く近付かなければこのまま大音量で喋り続けるだろうと思い、車椅子に乗ったおばちゃんの代わりに私が近づく。
早く声量を下げて貰わないと、誰かを起こしてしまうかもしれない。ここに宿泊している冒険者達は朝が早いので、まだ寝ている人は少ないだろうが念の為だ。
「昨日魔獣に襲われたっていうから心配してたんだよ? あら、足を怪我したのねぇ。痛そう。まぁでも綺麗な顔は無事で良かったわ!」
いつものように始まった弾丸トーク。
何も言わなくても話し続けてくれるので、私にとっては丁度良い。
「あの、しばらく仕事は別の方に代わって頂くことになりました」
「あぁ! それね! 今ちょうど中庭の掃除をしてもらってるわ」
おばちゃんから視線を外して窓の外を見ると、中庭の木陰に間延び顔が居た。
脱力した状態で木に寄りかかり、目を閉じて、ゆっくり胸を上下させている。
「元々ここで清掃やってた子から大丈夫だと思うわ! あなたは無理せず安静にするのよ! いいわね!」
あの様子だと一日中サボっていそうだ。
せっかく私がこの宿泊施設を毎日清潔に保っていたのに、このままサボられると一気に元の状態に戻ってしまう。
おばちゃんの気遣いは有難いが、この後の予定を早めに終わらせてまた様子を見に来よう。
「そうだわ! 私の息子とのお見合いの件、考えてくれたかしら? まぁでも怪我が治ってからの方が良いわよねぇ。その様子だとしばらくは無理かしら? でも上手くいけば息子の優しさをアピールする良いチャンスかもしれないわぁ! ねぇあんた、うちの息子はとっても優しいのよぉ」
おばちゃんは目をランランと光らせ、誕生日当日の子供のようにソワソワとしはじめる。
くねくねと動くせいで、おばちゃんの乗った車椅子がギィギィと悲鳴をあげている。
「あの、前にも言いましたが私はまだ未成年ですし、恋愛には全く興味が無いので……」
「そうなの? でも理想くらいあるでしょう? どんな男が好みかしら。私はねぇ、背が高くてムキムキでハンサムな男がいいわぁ! 腹筋がバッキバキの男にハズレなんてないのよぉ!」
顔面のありとあらゆるところが引き攣りそうになりながら、じりじりと後ずさる。普段使わない表情筋が悲鳴を上げている。もう既に左の口角はけたたましくアラートを発報している。
おばちゃんがこの状態になってしまったら、もう手が付けられなくなるのはこの数週間でよく分かっている。なるべくおばちゃんを刺激しないように気を付けながら、そーっと出口へと向かう。
「じゃあまた来ますね。また後で!」
返事も待たずに飛び出すと、身を翻して扉の影に隠れる。息を殺して気配を消し、おばちゃんの慌てた声が聞こえなくなるのを待つ。
しばらくして右足の痛みが引いた頃、私は街に向かってゆっくりと歩き出した。
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