《声劇台本》紅茶が冷める日
和泉 ルイ
《声劇台本》紅茶が冷める日
女:ボーンボーンと古時計の音がする。頭の中、ミルク色の霧みたいな半透明のカーテンに包まれた記憶の部屋でどこか懐かしい古時計が時の訪れを告げている。カーテンがふわり靡いて香るのは、忘れられない茶葉のかおり。この甘いかおりは…。
※場面変更
男「今日の調子はいかがですか」
女「今日…は、少し、」
男「少し?」
女「少し…どう言ったらいいのかしら…」
男「ゆっくりで構わないので教えていただけませんか」
男:彼女は困ったように眉を下げて椅子の肘置きに置いていた手を膝に乗せ、手をさする。
女「こんなお話、信じていただけないと思うのだけれど」
男「信じますよ、貴女の言葉なら」
女「そう?年老いた老婆の戯言だって思わないかしら?」
男:彼女はその白魚のような手をさすりながら微笑む。
男「老婆だなんて、貴女はまだ三十代。若々しく、麗しい時期じゃないですか」
女「やだ、貴方って嘘とご冗談が上手なのね」
男:彼女はクスクスと楽しげに笑う。
男「毎日言っても信じてくれないんですね」
女「だって私がまだ三十だなんて、見て?このしわしわの甲、目じりにも笑い皺が、ほうれい線も…」
男:彼女はそう言いながら自分の手や甲をなぞる。細い指先が皺があるであろう場所を滑っていく。けれど、そこには何もない。
女「ほら、こんなに年老いてしまって…」
男「貴女はいつもお綺麗ですよ」
男:そう本心から伝えると彼女は嬉しそうに微笑んだ。僕の想いはなかなか受け取ってはもらえないけれど。
男「それで、今日は少し、どうされたのです?」
女「そう。今日は少し…変なの」
男「変?」
女「そう、変なの」
男「どう変なのです?」
女「…呼ばれている気がするの」
男:彼女はそう小さく答えた。目の前の湯気の立つ紅茶を見つめながらそう呟いた。
女「声…ううん、音がするの。こう頭の中からボーンボーンと」
男「なんの音かわかりますか?」
女「なんの音かしら…聞いたことはあると思うのだけれど…」
男:彼女は首を捻っているとどこからか古時計の音が響いてきた。ボーンボーンと時間を告げる。
女「これだわ!この音よ!」
男「古時計?」
女「でもこの家には古時計はないわ」
男「少し見に行きましょうか」
女「その前にお紅茶を飲んでしまいましょう?冷めては勿体ないわ」
男「けれど、このカップは冷めないのではありませんでしたか?」
女「そうだったわ。これは特別なカップだものね。魔法の…あれ?」
男「どうかされましたか」
女「お紅茶が冷めかかっているわ」
※場面変更
男「おや、珍しいお客さまだ。いらっしゃい」
女:その店はある森の奥深く、大樹の虚に店を構えた不思議な雑貨店だった。
男「探し物はなにかな?」
女:店内にはちょび髭を生やした優し気な店主と見たことのない雑貨で溢れていた。
男「君は…なるほど」
女「忘れられない記憶を永久に鮮明に残しておくものはございますか」
男「記憶というものは儚いもの…それを鮮明に永久に。残しておきたいのかい?」
女「忘れたくない、んです。どうしても」
女:忘れられない人を、決して忘れないように。
女「人間の記憶というものを信じきれないのです」
女:私はポンコツだから、あの子のことをもしかしたら忘れてしまうかもしれない。何を忘れたかさえ思い出せなくなって、あの子の名前すら朧気になって…そんなの、そんなの。
女「あの子の名残をたったひとかけらですら忘れてしまうだなんて、私にはできません。そんなことが起きたら私は私を永久に恨み続ける」
男「…君は紅茶は好きかね」
女「紅茶?」
男「ダージリン、アッサム、ウバ、ヌワラエリア、キーマン」
女「ヌワラ…?」
男「所謂セイロンというやつさ」
女「ああ、セイロン」
男「好きかい?」
女「好きです、お茶会をよくしていたので」
男「それは宜しい」
女:店主は満足げに微笑むと店の一角、アフタヌーンティーコーナーからティーカップとポットをワンセット持ってきた。
男「こちらは魔法のティーセット。特定の記憶を元にその時の紅茶のフレーバー、紅茶の温度を再現することが出来る。そしてこのカップに淹れられた紅茶は飲みきるまで決して冷めることはない」
女「冷めない?」
男「貴女の中にある忘れたくない記憶が褪せない限り、このカップに注がれた紅茶も冷めることはない、永久に」
女「永久に、」
男「記憶というものは思い出す度に鮮明に書き直され焼き付くものだ。君はこのティーセットで紅茶を飲む度にその記憶を思い出し、鮮明に君の中に残すことが出来る」
女「じゃあ、これを!」
男「ただし、人間の脳というものは不要な記憶を消し、必要な記憶のみを残すよう設計されている。その為、君のその忘れたくない記憶を残す分の容量確保に他の記憶が消えてしまうかもしれない。もしかしたらそれは君自身のことかもしれないし、君の家族のことかもしれない…構わないかい?」
女「構いません、それであの子を忘れずに済むのなら!」
女:そういって私は不思議な雑貨店で摩訶不思議な魔法のティーセットを購入したのだった。
※場面変更
女「ここ、だったかしら」
男:僕たちは彼女が昔魔法のティーセットを購入した雑貨店に来ていた。
女「ここだったと思うのだけれど…」
男「電気がついていませんね」
男:入り口の窓からのぞき込めば中は真っ暗、人気もない。
女「今日は開いていないのかしら」
男「営業日は憶えていらっしゃいますか」
女「ええと…確かぞろ目の日にぞろ目の時間だったと思うわ」
男「それって十一月十一日の十一時とかそういう?」
女「そう!その日よ!貴方って賢いのね。キャンディ食べる?」
男「僕は成人したいい大人ですよ、それも貴女と同い年」
女「やだ、またそんな冗談を言って。おかしなひと」
男:彼女はくるくると表情を変えて楽し気に僕を見る。
女「今日は何日だったかしら…」
男「…今日は貴女の大切な日です」
女「大切な?何かしら…ええと」
男:彼女はあれも違う、これも違うと指折り数えては困り顔。本当に忘れてしまったのかもしれない。
女「私の?それとも私の大切な人の?」
男「貴女の大切な方の、です」
女「それは誕生日?」
男「いいえ」
女「それはお祝いの日?」
男「いいえ」
女「それは…私が涙する日?」
男「…はい」
女「その日に私は何かをする?」
男「はい」
女「お茶会?」
男「…はい。それと、もう一つ」
女「それは家の中ですること?」
男「いいえ」
女「私の家から遠いかしら?」
男「…電車に揺られて少し」
女「そこから海は見える?」
男「いいえ、でも庭園は見えます」
女「どんな庭園?」
男「こじんまりとした、ある花の匂いに包まれた庭園です」
女「そこには何の花が植えられているの?」
男「……白百合です」
女「しら…ゆり…」
男「白百合の庭園がすぐそばにある、霊園です」
女「あら…おかしいわね、なんだか急に」
男:彼女の大きな瞳から雫がぽたぽたと落ちる。
女「どうしてかしら、悲しくて、悲しくて」
男:胸が潰れそうだと彼女は胸を押さえる。
男「今日は一旦家に戻りませんか」
女「…っ、何か何か、私は大切なものを失ってしまったんじゃないかしら」
男「大丈夫、大丈夫です。家に帰って紅茶を淹れて、一息つきましょう?」
女「そうね、そうよね…そうしたら、きっと」
女:きっと、思い出せるわよね。
※場面変更
男「あ、ありがとうございます」
女「いいえ、いいえ。いつもおいしく飲んでくれてありがとう…いつも?」
男「ええ、いつもとてもおいしいですよ」
女「貴方、いつも来てくださっているの?」
男「ええ、毎日貴女を口説きにきているのですよ」
女「あらまあ、口がお上手なのね」
男「今はそれでいいですよ」
女「ふふ、今日もおいしく淹れられたわ」
男:熱々の紅茶が入ったカップを持ち上げて満足げに微笑む彼女。柔らかな日差しの中の彼女はまるで一枚の絵画のようだった。
女「今日はなんだかいつもよりおいしく淹れられた気がするわ、どうしてかしら」
男「今日が特別な日だからですかね」
女「特別な?」
男「ええ、特別な」
女「…(紅茶を一口飲む)そうね、今日はあの子の命日だものね」
男:彼女は目を潤ませながら紅茶を飲み、視線を落とした。
女「もうそんなに経ったのね、あの子とお別れして…」
男「ええ、貴女がこのカップで紅茶を飲み始めてからも…ね」
女「…あら」
男「どうかしましたか」
女「紅茶が…ぬるくなっている気がして…」
男「出掛ける前もそう仰ってましたね」
女「そうだったかしら…でもほら、湯気が」
男:確かにいつもカップから立っていた湯気はない。
女「もう一杯淹れましょう」
男:彼女はポットから空になったカップに紅茶を注ぐもカップから湯気は立たない。
女「どうして、だってこれは。」
男:これは魔法のティーセットなのに。
女「いつまでも永久に冷めないはず、なのに」
男「このティーセットは貴女の中にある忘れたくない記憶が褪せない限り、このカップに注がれた紅茶も冷めることはない、永久に」
女「そう、私の中の記憶が褪せない限り永久に!」
男「貴女の大切な記憶はこの紅茶を飲む度に色鮮やかにアップデートされ、保存されてきた。その記憶以外の記録を消去し、容量を確保してきた」
女「…?」
男「その為に貴女は貴女自身の歳も家族のことも、何もかも忘れてしまった」
女「なんのお話?」
男「それでも毎日アップデートされる記憶は、元の容量より大幅に大きくなり、店主の予想を超えてしまった」
女「どうしたの?」
男「貴女の大切な記憶はもう、更新されない。容量を確保できない」
女「…?」
男「貴女の大切な記憶はもう既に褪せ始めている」
女「褪せる?」
男「ええ、貴女の記憶はもう冷め始めているのです」
女「おかしなことを言うのね、この紅茶は冷めないのよ、私の記憶がある限り」
男「ご存知ですか、褪せない記憶がないように、冷めない紅茶もないのですよ」
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