第45話 生徒会長秋月麗奈
「……その傷は」
言葉もなく麗奈の手首を見つめていた彼方が、なんとかそれだけの言葉を吐き出した。だが、それ以上は何も言えない。何を言っていいのかわからない。というよりも、こんな状況でかけられる言葉などこの世には存在していないのかもしれない。
「まだ新しいでしょ。つい一週間ほど前のことだもの」
レイナの言葉に、麗奈は彼方に見られ続けるのが辛いのか、顔だけ背ける。
「麗奈が自分で切ったのよ」
「何でそんなことを……」
「……彼方君は自分自身のことって好き?」
唐突な麗奈の質問だった。
「そりゃまぁ……。世界にたった一人の存在だからな」
「……私は自分のことが世界で一番嫌いだって最近気づいたの」
麗奈の顔は苦しそうだった。一言言葉を吐くたびに毒が体を浸食していく──そう見えるくらいに痛々しい。だが、レイナの表情も、麗奈に負けず劣らず苦しさに歪んでいた。
「私はいつもお父様やお母様の言うことを聞いてきた。それが正しいことだって教えられて、自分でもそうだと思っていたから。そうやって、私はいつも自分の考えを捨てて、人の言うことに従ってきたの。人の期待に応えよう、人に嫌われないよう言う通りにしようって思って。……でも、そうすればそうするほど、私は自分がどこにいるのかわからくなってきた。自分が何者なのかわからなくなってきた。本物の私はどこにいるの?いつもそう考えるようになってた」
麗奈の言葉は暗く冷たかった。それはまるで底冷えのする闇で作ったナイフのよう。だが、そのナイフが標的にしているのは、周囲の人間ではなく麗奈自身。
「麗奈……」
「周りのためだけに生きてる自分。そんな自分がイヤだった。ずっと、ずっと……。だから、自分自身を消してしまいと思ってた。朝起きたら自分がこの世から消え去ってしまえば楽なのに、って思ってた。本当の私はここにはいないんだから、消えてしまったって同じなんだから。……そう思ってたら、あの日、私はつの間にかカッターナイフを持ってお風呂場に立ってた。そのまま消えてくれたらいいのにって思ってたら、手が勝手に手首を切ってた。その時思ったの、『さようなら、私じゃない私。これでやっと私はあなたから解放されるのね』って。……でも、手首切ったくらいじゃなかなか死ねないんだね。私は臆病だから、自然と手加減してたのかもしれないけど。手首を切り落とすくらいの気持ちでやらないと駄目みたいね」
「……お前は、バカだ」
それはもう呻きだった。血を吐くような彼方の呻きだった。
「私もそう思う。……でも! あなたにそれを言う権利はないわ!!」
掴んでいた麗奈の手を離して、レイナが怒気さえはらんだ叫びを上げる。
「麗奈の苦しみを知らないあなたなんかにそんなこと言わせはしない!」
彼方は唇を噛む。反論などできない。できるはずがない。
「麗奈は人のせいになんかできない子。他人のせいや、社会のせいにできれば楽でしょうに。いっそぐれられれば幸せでしょうに。でも、麗奈は聡明で優しい子。麗奈にできるのは、自分自身を責めることだけ。死の直前まで追い込んでも、それでもまだ自分を責め続けるだけ」
レイナの瞳には涙が浮かんでいた。
「だから、私が麗奈を護ってあげるのよ。これ以上誰にも麗奈を傷つけさせないために! 麗奈を苦しめの奴は、みんな私がやっつけてあげるのよ! たとえ、麗奈が自分自身のことを嫌っているとしても、私は麗奈のことを世界で一番愛してあげる! ほかの誰もが愛してあげなくても、私だけは麗奈を永遠に愛し続けてあげる!!」
「……前言撤回する」
「……えっ?」
興奮気味にまくし立てたレイナだったが、いきなりの彼方の言葉に虚を突かれる。
「君が麗奈を利用しようとしていると言ったのは撤回させてもらう」
彼方はレイナにわかるように言い直した。麗奈のためにしたという彼女の言葉──それが本当に麗奈のためになったかどうかはともかくとして──、あの言葉が嘘偽りのない、レイナの本心から出た言葉であるということが痛いほどに理解できた。それだけに、彼方は自分の浅はかな言葉を取り消したくてたまらなかったのだ。
「君は本当に麗奈のことが好きなんだな」
「当たり前よ。本当は、麗奈は誰よりも可愛くて、明るくて、朗らかで、賢くて、優しくて、素直で、純情で……」
「……知っている」
「えっ?」
「そんなことは俺だって知っているさ。……なぁ、麗奈。覚えているか、小学生の時の学校の行事で行われたキャンプのこと」
ふいに彼方に問われたが、麗奈は考えを巡らす時間もなく静かにうなずく。
両親の意向で、そういうイベントには積ほとんど参加できなかった麗奈。だが、あの時は珍しく両親が特に反対せず、麗奈も参加することができていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「おっ、星を見てるのか。……いいだろ、星って」
「うん。綺麗──そんな言葉じゃ言い表せない、何か神秘的なものさえ感じる」
「麗奈は詩人だな」
「そんなことないよ。……ねぇ、人間って死んだら星になるってホントかな?」
「おい、いきなり死んだ後の話か!? 縁起でもないなぁ」
「……死ぬのって怖い?」
「そりゃそうさ。麗奈だってそうだろ?」
麗奈はその問いには答えず、別の問いを返す。
「でも、もし生きているのが死ぬことよりも辛いと思えるようになったら、死ぬのも怖くなくなるんじゃないかな?」
「……悪いけど、俺、麗奈が何が言いたいのかイマイチよくわかってあげられないや。でも、さっきの話には少し答えてあげられるかもしれない」
「さっきの話?」
「死んだら星になるかどうかって話。それは俺にもわからないし、多分誰も知らないだろうと思う。だって、それは死なないとわからないし、死んだら死んだで、たとえどうなるかわかっても、それを生きている人には伝えられないんだからな。──けど、死んだらどうなるかはわからない代わりに、俺達が星から生まれてきたってことはわかっている」
「星から生まれてきた? 私達はお父様やお母様から生まれてきたはずでしょ?」
「ははは。それはそうだけど、俺の言ってる俺達っていうのは、この俺のことだけじゃなく、俺の父さんや母さん、おじいちゃんやおばあちゃん、そしてそれよりもっとずーっと昔の人達も含めて。ううん。そういう人間だけじゃなく、他の動物や植物、そしてこんな石や砂なんかも含めた『俺達』のことなんだ」
「植物や石も『俺達』なの?」
「ああ。俺達の体を作っている小さな小さな粒。それは、ほかの人間だろうと、動物だろうと、植物だろうと、みんな同じものでできているんだ。そして、その小さな粒は、元々あの空で輝いている星だったんだよ」
「ええっ!? ホント?」
「ああ。難しい理屈は俺にもわかんないけど、これはホントのことなんだぜ。父さんに教えてもらったんだ」
「彼方君のお父さんってそんなおもしろい話を教えてくれるんだ。いいなぁ」
「ふふふ。だからさ、星から生まれた俺や動物や植物、そしてこの地球なんかも、みんな兄弟みたいなものなんだよ」
「へぇー、兄弟なんだ! ……ねぇ、じゃあ、あたしと彼方君も兄妹ってことだよね」
「ん? ……そうなるよな」
「ははは。私達兄妹だったんだ。知らなかったなぁ。……ねぇねぇ。あたしたちが星から生まれてきたんだったらさ、あそこに輝いている星も、いつかあたしたちみたいな人間になるのかな?」
「ん? ……きっとそうなんだろうなぁ」
「だったら、あの星とあたしたちも兄弟ってことだよね」
「えっ? そうなのかなぁ。どっちかって言うと、親戚のおじさんって感じかな?」
「へぇー、あの星は親戚なんだ。じゃあ、あの星から生まれた人間は、あたしたちの従兄弟ってことだね」
「そうなるのかな」
「ははは。そうなんだ。じゃあ、みんな家族みたいなもんなんだね、空のお星様もみんなみんな。家族か……だったら、みんなあたしのこと好きになってくれるかなぁ」
「えっ? ……そりゃ、そうだろ(麗奈のこと嫌いな奴なんて、俺にはいると思えないけどな)」
◇ ◇ ◇ ◇
「俺はあの時の麗奈の笑顔を今でも覚えている。ベガよりも、アルタイルよりも、デネブよりも輝いていたあの時の笑顔を」
「……彼方君。……私もあの時のことは覚えてるよ」
麗奈に友達との思い出は少ない。そういう機会自体が少なかったから。そのため、いくつかの数少ない思い出は大切に大切にして、いつも肌身離さず持ち続けている。
「少なくとも、俺はあの時から知っていたよ。麗奈の魅力を」
麗奈が頼りなさげな顔を上げ、彼方を下から覗き込むように見やる。
「俺は具体的に麗奈が何にどう苦しんできたのかはわからないし、それを知る必要もないと思う。俺達は過去に向かって生きているわけではなく、ただ前に向かってのみ進んでいるんだから。……だから、これからは自分のために輝いてみろよ。麗奈の魅力をいっぱい出してさ。麗奈にならきっとできるから」
まっすぐに麗奈を見つめる彼方。だが、麗奈はその視線をまともに受けることができずに顔を背けてしまう。
「……私は駄目。私にはできない。……怖いの、人に嫌われるのが怖いの。そして、人を傷つけるのがもっと怖い。人を傷つけると、それ以上に私の心が傷ついてしまうから。……もうこれ以上私の心をいじめないで」
麗奈はレイナの胸の中に飛び込んで顔を
「誰も麗奈のことを嫌ったりしないさ。麗奈なら人を傷つけることもないよ。……そうだろ、レイナ」
同意を求められたレイナは何も答えず、ただの麗奈の頭をゆっくりと撫でてやる。
「……駄目なの。私、勉強しないと。勉強して、お父様やお母様の望んでいるような大学に行かないといけないの。……昔はお父様やお母様の言うことがすべて正しいと思ってた。でも、今は必ずしもそうでないことがわかってる。だって、お父様もお母様も自分達の言う通りにしていることがもっとも幸福になれる方法だとおっしゃってたけど、今の私はそうじゃないから……。だけど、だからと言ってお父様やお母様の期待は裏切れない。お父様もお母様もここまで私を育ててくださったんですもの……」
レイナの腕の中で身を縮こまらせて震える麗奈。それはあまりにも弱く儚げだった。雨の中で震える捨てられた子犬よりもずっと。
「果たしてそうだろうか?」
「……えっ?」
「受験に失敗し、三流大学にしか入れなかった。そんな些細なくだらないことで麗奈の魅力がわずかでも損なわれるだろうか? 俺はそんなことは絶対にないと思う。もしそんなこと言う奴がいたら、そいつこそくだらない人間だ。俺は、麗奈が三流大学に行くことになろうが、大学進学を辞めようが、高校を中退しようが、麗奈は麗奈であるし、やっぱり魅力的な人間だと思う」
「……ありがとう」
その言葉はレイナが言った。レイナの顔は笑っていた。彼方はレイナの笑顔をここに来てから初めて見た。しかし、麗奈の方の様子は先から変わっていない。
「それでもやっぱり私は駄目よ。みんなの言うことをただ聞いているだけの方が誰も傷つけなくて済むもの。誰にも嫌な思いさせなくて済むもの。その方がなんでもうまくいって、みんな幸せになるんだもの」
「……でも、そのたびに麗奈が傷ついていくのよ。ほかの誰も傷つけないけど、
そう声をかけたのは彼方ではない。彼方の助け船を出したのはレイナだった。
しかし、これは不思議なことでもなんでもない。レイナは彼方の敵ではない。麗奈の味方なだけなのだ。
「なぁ、麗奈。なんで星達があんなにも綺麗なんだと思う?」
彼方の言葉は突拍子もない。だから麗奈もその真意をはかりかね、何も答えない。
「空の星星は周りの星の輝きを気にしながら輝いているわけじゃない。それぞれが自分の思うまま、自分の個性を発揮しつつ精一杯に輝いているんだ。俺は、だからこそ星空があんなにも綺麗で、人を惹き付けるんだと思う。もしも、星が他の星を気にして、自分を殺し、周りに合わせて輝いていたら、俺はこんなにも星の輝きを素晴らしく感じることはなかったはずだ。それと同じで、人間も自分自身の個性的な輝きをしてこそ、本当に魅力的な愛される人間になれるんじゃないだろうか」
「…………」
麗奈には彼方が言わんとしていることが十二分に理解できた。
「麗奈、お前もお前自身の本当の輝きを放ってみろよ」
「……でもね、私には無理よ。今まで人の言うことに従うだけだった私には無理なのよ。自分で自分の進むべき道なんて見えやしないの。自分の道の歩き方がわからないの……」
「だったら俺が一緒に探してやるよ。麗奈の進むべき道を照らす星が見つかるまで、俺が一緒に探してやる」
「えっ?」
「だから、天文部に入れよ」
「……なんでそんなに優しいのよ。こんな私なのに……。私は私のこと、こんなにも嫌いなのに……」
「けど、俺は麗奈のこと、好きだぜ」
照れることもなく自然に言えた。むしろここでその言葉が出てこないことの方が不自然。そう思えるくらいに素直に言えた。
それを受けた麗奈は一瞬体をびくっと震わせる。嬉しくないはずはない。人に好意を持たれるということは、自分を認めてもらえるということ。それを嫌に思う人間はまずいない。だが、麗奈はこういう時なんと応えていいのかわからない。自分自身のことさえ愛せない人間に、愛された時の対応の仕方などわかるはずがない。だから、そういう時には方向を示してくれる人が必要だ。後押ししてくれる人が必要なのだ。
レイナが、麗奈の両肩を掴んで自分の胸から離した。そしてひねりを加えて、麗奈を回れ右させる。いきなりの行動に、麗奈は抵抗できずになすがまま。反転させられ、彼方と正面を向き合う形になった。
「あなた、本当に麗奈のこと愛してあげられるの?」
「当たり前だろ。そんなこと、君が一番よくわかってるはずじゃないか。麗奈の魅力をちゃんとわかってる君なら」
彼方の言葉を受けたレイナの表情は澄んでいた。憑き物でもとれたかのように晴れ晴れとしていた。まるで、彼方がハワイで見た空のように。
「よかった。私のほかにも麗奈を愛してくれる人がいて。これで、私の役目も終わりね。あとは、あなに任せられるから……」
レイナは消え去った。今までそこにいたのが嘘のように。ただ、その柔和な笑顔を彼方の瞳にだけ残して。
「さぁ、行こう麗奈!」
手を差し出す彼方。だが、まだ麗奈はその手を取るこはできない。
「……でも、みんなは私のことを許してくれないよ。レイナが私のためにしてくれたことで、みんなに迷惑かけちゃったもの……」
「許してくれるさ。だって、俺達はみんな兄弟だろ」
小学生の時の話の続き。麗奈の顔が一瞬ほころぶ。
「それでも許してくれなかったら償えばいい。麗奈は生徒会長なんだ、償う方法はいくらでもある。卒業までに時間は十分にあるし、俺だって手伝ってあげられるし。……だから、天文部に入ってくれ!」
しかし、それでも麗奈は首を横に振った。
「なんで……」
思わずそう叫ぶ彼方。しかしその口を、すっと伸びた麗奈の白い手──それは雪のような病的な白さではなく、光を受けた雲のように輝く白さ──が遮る。
「それは部長の方から言う言葉じゃないよ」
麗奈の顔は笑顔だった。ここに来て初めて麗奈の笑顔を見る。作り笑いじゃない、心からの笑顔を。彼方の知る限り、こんな麗奈を見るのは一緒に星を見たあの時以来。
麗奈は改めて姿勢を正す。
「彼方君、私も天文部に入部させて!」
「ああ。喜んで!!」
二人はがっしりと手を握り合った。
麗奈を中心にして小宇宙に光が広がっていく。それはまるで、一面光の花が順次咲いていくよう。スペクトルの差により、似てはいるが二つとして全く同じ色のない赤、緑、青の混じった光が咲きこぼれていく。
まさに圧巻だった。いかなる天体ショーを見ても、ここまでの感動を覚えることはないに違いない。宇宙開闢の瞬間を目にしたのに匹敵すると思いつつ、彼方は今自分がこの場にいることを何よりも幸運に思った。
しかし、この光と闇の競演を見ている中、彼方はその中でも一際自分の瞳に焼き付いて離れないものの存在を意識していた。ふと、それこそがこの中でも最も目映く輝いている存在ではないかと感じる。──それは、この光溢れる小宇宙の中、彼方の方に向けられている麗奈のとびきりの笑顔。
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