魔女の右腕

@yamatsukaryu

第1話

 絵里の右腕は、魔女の右腕だ。魔女の右腕は、それを持つ者に強大な力を与える。だが絵里は、自分の右腕を嫌っていた。彼女の母親が、魔女の生き方を嫌っていたからだ。

 

 閉めきられた小さな部屋の、向かい合った椅子に絵里は腰かけていた。絵里の右には本棚が、左には、湖畔を描いた絵が飾ってあり、正面には眼鏡をかけた、人のよさそうな初老の男が座っていた。


「あたし、もうこんな腕なんかいらないんです」


 絵里はそう言うと、袖をまくり、右腕を男に見せた。そこには痛々しくて、目を背けたくなるような無数の小さな切り傷が刻まれていた。


「どうしてそう思うのかな?」


 男は絵里のその傷跡を見て動揺したが、それを隠して聞いた。


「だって、こんなの望んでいないもの」


 絵里は左手で、右腕に爪を立てた。


「できるなら、こんな腕、切ってしまいたいんです。でも、怖くてあたしにはできない。だから、こうやって傷つけて、言うことをきかせるんです」


 絵里はそう言うと左手をパッと離した。真新しい赤い爪の痕が五つ、絵里の白い右腕に浮かび上がっていた。


「そうすると、右腕は言うことをきいてくれるの?」


 男が尋ねた。絵里は頷いた。


「はい。でも、少しの間だけなんです。だから何度も何度も傷つけて、わからせないといけないんです。そうやって、もう出てこないでってわかるまで続けないといけないんです」


 男は目を細め、微笑むと、真剣な表情で頷いた。


「なるほど、絵里さんは、そう考えているんだね」


「そうなんです」


 男はサッと絵里の表情を見定めると言った。


「でも、あんまりそうすると、絵里さんも痛くないかな。それに、右腕も、話を聞いてほしいと思っているかもしれない」


 絵里は男から目を逸らした。


「あたしは、別に痛くないんです。左手は使いにくいけど、右腕よりはあたしに従ってくれます。でも、右腕は…先生、どうしたらこの子に言うことをきかせられますか?」  


 絵里は切実な面持ちで男に聞いた。男は深い悲しみをたたえた眼差しを絵里に向け、言った。


「私の考えでは、その子に言うことをきかせる必要はないと思うよ。むしろ、もっと注意深く、その子の言っていることを聞くべきだろうね。そうすれば、何か変化が起こるかもしれない」


 絵里はそれを聞くとがっかりしたように俯いた。


「でも、嫌なんです。そんなの怖いです。あたし、右腕が嫌い。自分の身体なのに、言うことをきかないこの子が嫌い」


「わかってますよ。今すぐそうしなさい、と言っているわけではないのです」


 そこで男は顔を横に向け、


「時間です。今日は話しづらいことを打ち明けてくれて、ありがとうございました。では、また再来週会いましょう」


 と、残念そうに絵里を見た。絵里は無表情で、


「はい」


 と答え、席を立った。


 男が部屋の扉を開け、頭を下げて絵里が出ていった。すると、太った中年の女性が息を荒くさせながら入れ替りで中に入ってきた。


 男は部屋の外の絵里に少し待ってもらうように頼み、扉を閉めた。


「先生、絵里はどうでした?」


 絵里の母親は、扉が閉まったのを見ると、男が席に座る前に、尋ねた。


「なんとも言えません」


 男は目の前に座る彼女に少しおどけた表情を見せた。


「守秘義務というものがありまして」


「そんなことはわかっています!」


 絵里の母親は声を荒げた。


「絵里は治るのか治らないのか、それだけ聞けたらいいんです!」


 彼女はそう言うと自分の行動が恥ずかしくなったのか、ふぅ、と息を吐いて肩をすくめた。


「何度も申し上げていますが、」


 男は膝の上で手を組み合わせた。


「それは絵里さんだけではなく、お母さんにも関係している問題なのです。忘れないでください。絵里さんの鍵は、あなたが持っていることを」


 男の詩的な表現に、絵里の母親は少し心を動かされた。だが彼女は自分が責められているのでないかという可能性が目の前にちらつくと、声を大きくした。


「先生は、私のせいだって言うんですか?」


「いえ、そうは言っていません。誤解を生む表現をしてしまって申し訳ない。私が言いたいのは、この問題を誰かのせいにしたいわけではなくて、皆さんが協力して対処しなければならない、ということです」


 それを聞くと、彼女は不服そうに納得した。


「もちろんです。絵里は私の娘なんですから。あの娘ったら、本当に何もできなくて、ここにあの娘を連れてきたのも私なんです」


「わかってますよ。ありがとうございます」


「ええ、本当に。あの娘のあの傷跡を最初に見た時は、何事かと思いました。学校で虐められているんじゃないかって、心配で夜も眠れなかったんですよ。それが…蓋をあけてみれば自分で切っていたなんて、とても、信じられませんでした」


「仰る気持ちはわかります。あのような傷跡を初めて見ると動揺してしまいますよね。私もこの仕事は長いのですが、何度見ても心が痛みます」


「ええ、本当に。でも私、何にも対処しなかったわけじゃないんですよ。あの娘に刃物、はさみとかカッターとかを持たせないようにして、台所にも近づかせないようにしたんです」


「それは賢明な判断です」


 男は頷いた。


「でもそうしたのに、あの娘ったら、また右腕を傷つけて、何でそうしたのかと思いきや、シャープペンシルの先っぽでやってたんですよ? 信じられますか?」  


 彼女は男にその時の気持ちを訴えた。男は頷いた。


「シャープペンシルは、よく使われます。手頃で、いつでも手元にあり、たとえ持っているところを誰かに見られても疑われにくいですからね」


「本当に、そんなものの為に買ってあげたわけじゃないのに!」


 絵里の母親は憤慨した。


「そうですね」


「先生、絵里は病気ではないんですよね?」


 それから、不安になったのか彼女が尋ねた。

 男は思案顔のまま答えた。


「難しい質問ですが、今のところ絵里さんの状態をそのように言い表すことはできないと思います。ただ、今後、適切な治療がされなければ、症状が悪化していくことは十分にあります」


「先生、それじゃ、あの、じ、自殺とか?」


 彼女はその言葉を口に出すのも恐ろしいといったように発言した。


「ええ、最悪、そのようなことが起きてしまうかもしれません。ですがあまり考えすぎないことです。今はまだ、そこまでのことを恐れなくていいと思いますし、そうならないために、私どもも、全力で協力致しますので」


「そうですよね」


 彼女は少しほっとしたのか、肩の力を抜いた。だがそうなったのも束の間、またすぐに不安が彼女を捉えた。


「あの、先生? どうしたら今すぐに絵里の自傷行為をやめらさせられますか?」


 それから、おずおずと聞いた。


「やめさせる、というのなら、まず不可能だと考えてください」


 絵里の母親は眉をひそめた。身をのり出そうとまでした。男は冷静に続けた。


「ですから、それを他の行為に置き換えさせてあげるのがいいのです。自傷行為をする人は、自らの気持ちを表現する方法を知らない人が多い。彼らが生きていく中で感じる悲しみや苛立ちを、自傷という形で表現しているだけなのです」


「たとえば、どんなことをすればいいんでしょう?」  


 彼女はすがるように聞いた。


「それはその人によりますね。私は紙に自分の気持ちを書くことを勧めていますが、人によっては、歌だったり、絵を描くことだったりします。それ以外でも、自分の気持ちを表現できれば、それでいいのです。絵里さんに合った方法で構いません」


「絵里に伝えておきます」


 男が満足そうに頷いた。


「ええ。私からも言っておきます」


「そうだ、先生。絵里から聞きました? あの娘が自分の右腕を何て呼んでいるのか」


 彼女はそこで突然、思い出して聞いた。


「いえ、知りません」


 絵里の母親は、そこで言いにくそうに目を泳がせ、


「“魔女の右腕”ですって、どう思います?」  


 と、男に聞いた。男はそれを聞いて微笑んだ。


「なるほど。想像力の豊かな人ですね。いったいどんな意味があるのかな」


 そうして男は自分の薄っすらと髭の生えた顎をなでた。


「どんなって、きっと何の意味もないに決まってますよ。下らない」


 彼女は男が同意してくれなかったので、気を悪くした。それから、腕時計を見ると、ハッとした。


「先生、これからも絵里のこと、よろしくお願いしますね」


 彼女はそこでじっと、その男の目を見つめた。男はそれを見て微笑むと、彼女の方に手を伸ばして言った。


「ええ、もちろん。そのつもりですよ」



 ところが、そうはならなかった。男はその後すぐに病気が発覚し、しばらくそのクリニックを離れることになったのだ。

 そして絵里の方も、先生が変わることを嫌がり、新しい先生が就いても、クリニックに行くことを嫌がった。


 それじゃ治らないじゃないの、と絵里の母親はなじるように彼女に言ったのだが、絵里は、


「お母さん大丈夫。自分のことは自分で治すよ」 


 と言って、実際にその後、彼女は右腕を傷つけるのをやめたのだった。

 彼女の母親は、娘の様子が特段変わったようには見えなかったので、気になって、


「どうして自傷行為をやめられたの?」 


 と聞いてみた。だが絵里の方はそういう時、なんだかまるで話の意味がわからない、というように首をかしげるだけだった。

 母親は、娘が何を考えているのかわからなくて困惑したが、とにかく、自傷行為をやめてくれたことで、問題は解決したのだと思い込んでいた。

 そして密かに、そうなったのは自分が娘に先生から聞いた話をしたからだと思い、得意になっていた。


 実際、絵里は自らの気持ちを表現する、いや、右腕の気持ちを代弁させる方法を発見し、それを何度も試していたのだ。

 それはなんとも簡単な方法で、右腕にペンを持たせ、その気持ちを想像しながらノートに書いていく、という方法だった。


 絵里はそうして、時には何十分もノートを前にして、右腕が語り出すのを待つ、ということを繰り返していた。


 その日、絵里は母親から小言を言われて、むしゃくしゃしていた。そして、こういう日は、特に右腕が饒舌になるのだった。


 それは、彼女がノートを開く前から暴れていた。


「あんた、感謝してよ。もうずっとあんたのこと傷つけてないし、こうやって、紙とペンを渡してあげてるんだから」


 絵里は床に落ちたペン拾い上げると、ノートの上に置き、右腕に語りかけた。しばらくすると、絵里の呼び掛けに反応し、文字が浮かび上がってくる。


「ふん、それはこっちのセリフだ。お前こそ、私に感謝するんだな、お前の嫌がる気持ちを押し付けられる私の気持ちにもなってみろ」


 絵里は、思わぬ言葉が現れてムッとした。


「別にあたしは、あんたにそうなってくれなんて、頼んでないもの。あんたが勝手にあたしの右腕に住み着くのが、悪いんでしょ」


 絵里の持つペンが小刻みに揺れた。それはなんだか、笑っているように彼女には見えた。


「どうだかな。お前は、ぶりっ子だからな。私がいなければ、どうなっていたかな。誰からも愛されるいい子でいたいくせに、そのままの自分を愛してほしいと思う。そんな欲張りな人間じゃ、私に右腕を乗っ取られても仕方ないと思うがな」


「あんたって、本当に失礼なこと言うのね。ねえ、それっていけないこと? あたしのせいだっていうの? あんた、誰の右腕だと思ってるの?」


 ペンがまたケタケタと揺れた。


「その言い方、お母さんそっくりだぜ」


 絵里は、腹が立った。右腕を黙らせるために、久しぶりにそのペンの先で引っ掻こうかと思った。

 だが不思議と、そう思っただけで行動には移さなかった。


「あんたって本当によく喋るよね」


 絵里はボソッと呟いた。右腕は黙っていた。もういなくなったらしい。右腕は気まぐれだった。物凄く話すことがあるのかと思えば、数十文字しか喋らないこともある。その反対に、ちょっとその気配を感じただけなのに、何千文字も喋ることがあった。


 絵里はその力が何なのかわかっていなかったし、自分の右腕を気持ち悪いと思っていた。どうにかして、こんな腕とはおさらばしたいと思っていた。


 しかし、右腕が喋り出す時、すっと胸が軽くなるのも確かだった。右腕は絵里が嫌うような乱暴な口調で喋るのに、いつも彼女の気持ちを言葉にしてくれるのだ。


「でも、もうこんなの嫌。卒業しなきゃ、これから大人になるんだし」


 絵里は右腕と決別することを決めた。彼女はもうこれ以上、右腕が吐き出す言葉に耳を傾けずに、ずっと自分が望んでいた「誰にも愛される大人の女性」を目指したのだ。


 そのために母親の言うことをきき、勉強をし、大学に行き、就職をし、結婚をした。その間に何度も右腕が疼いたが、彼女はその声に耳を傾けなかった。暇を嫌い、毎日をやることで埋め、理想に向かって生きた。


 そうしているうちに、いつしか、右腕の声を聞こうと思っても、聞こえなくなっていた。ペンを握ってもそれが以前のように語りかけてくることはなくなった。


 絵里はそのことに満足していた。

 だが、かわりに彼女は、次第に自分というものがわからなくなっていった。誰かが求める自分を目指していくうちに、彼女は一つずつ自分を消していくような気がしたのだ。


 そんな時、彼女は可能性に溢れていた昔のことを思い出したし、

 あなたはどんな人?と、誰かに聞かれるたびに、右腕のことが頭に浮かんだ。


 彼女はある日、久しぶりに右腕に喋るように呼び掛けてみた。

 だがそれはもはや、絵里が命じるようにしか動かなかったし、かつての右腕の喋り方を想像して書いてみても、自分が書いているのだとわかるものでしかなかった。


 そうしてすっかり、絵里の右腕は、つまらない、ありふれたことしか書けなくなった。

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