お化け飯

九十九 千尋

第1話 シンキョに住人が居ます


 新築独特の香りが鼻腔をくすぐる。建材の木材の香りや新しい壁紙と接着剤の匂い。人の気配はなく、家財がまだ入っていないからか音が妙に響く。


「ああ、憧れの……マイホーム!」


 ローンを組んで戸建てを思い切って購入した僕、雲出川くもずがわ タケルは一人新居に訪れていた。

 この家はこの間まで付き合っていた恋人と結婚を決めて思い切って買った……のだが、恋人は僕の家族と折り合いがつかずに結婚はご破算。そうなることを知ってか知らずか、まだ僕が振り切れていない間に、僕の友人だった男と既に同棲を始め、もはや結婚まで秒読みだと風の噂で聞いた。


「せめて明るい気持ちで来たかったなぁ」


 唯一の救いは彼女の家財などはこの家に来ないことだ。むしろ、元々住んでいたアパートの方が彼女との思い出は多かったので、心機一転するにはちょうどいい。

 ……多分。


「ああ、でも、これで壁に画鋲で穴開けても怒られない新居ってわけだ!」


 僕はさっそく、玄関から新居に入る。

 突然、踏み込んだ途端に背筋にぞくりと何かを感じた……少し冷えるだろうかなどと考えた。しかしそうではないと即座に理解した。視線を感じた。感じた。


 ぞ  り

  わ 


「も、もしもーし? どなたかいます?」


 思わず、そんな言葉が口を突いて出てきた。


「んな訳ないか」


 などと自分で言って自分を笑う。

 が


「はーぁ、い」


 誰かが答えた。

 答えた? え?


 僕は声にならない声を上げて新居からダッシュで逃げだした。そのまま町内を一周し、しかし元のアパートには帰れないので仕方がなく新居へ戻った。


 ど、どどどどど、どうしよう? どうしよう!? そうだ、聞き間違いだ。なーんだ聞き間違いか。は、はは、ははははは……


 なんて現実逃避をしながら、僕は今一度新居の玄関に立って戸を開ける。……あれ? 閉めたっけ?


「ご、ごめんくださーい」


 なんて家主が入って来るなんて前代未聞だ。

 というか、下手すると泥棒か何かなのではないか? それってどうなんだ?

 などと思いながら、今一度新居に入る。やはり、妙に寒い。靴下越しに感じる廊下の冷たさが背筋まで走る気がして、僕は足早にそのままリビングへ向かった。

 リビングには庭に通じる窓があり、リビングとキッチンは隔てなく繋がっている。キッチンは女性が好むようなピンクを基調としたデザインで、シンクなども男の僕には少し低い。真新しいコンロの黒色がつややかに光っている。

 やはり声の主は見かけない。聞き間違いだったのだろうそうだろう。


 シンクの反射に、黒い影が見える。僕の後ろに佇む、黒い何か。ナニカ。黄色く光る眼が二つ。僕を見下ろしている。にたりと笑う口から歯が見える。僕より少し背が高いナニカが僕の後ろに立っているのが、シンクに反射して見えた。

 僕は震えながら振り返る。すると、そこにはまさに、黒い人型の得体のしれないもやが居り、黄色い光で僕を照らしながら大きな口を釣り上げて微笑んだ。

 僕はそこで限界を迎えて、意識を手放した。



 スマホが鳴っているのが聞こえる。新築のキッチンの床の上、僕はどうやら気を失っていたらしい。スマホは引っ越し業者からの電話の通知を告げていた。

 なぜ自分がこんなところで横になっているのかを考え、ふっと黒い靄のことを思い出し、思わず周囲を見渡したが何もいない。シンクの反射を利用すれば見えるかもと思ったが、怖くて見れたものではない。

 僕は見ず知らずの引っ越し業者に飛びついた。


「こちら雲出川さんの携帯で合ってますか? お忙しいところ失礼します。こちらクジャック引っ越しセンターの……」


 引っ越し業者の若者、おそらくアルバイトの少年の話を遮って僕は放し始めた。


「た、助けてください! 家の中に、何か居ます!」

「……へ? なんです? ネズミか野犬でも?」

「ち、違うんですよ、もっと大きくて」

「泥棒ですか? 警察には?」

「それも違うんです! なんか、こう、もやーっと?」


 それを聞いた電話越しの引っ越し業者は何やら考え込み……


「解りました。すぐそちらに向かいます。えーっと、住所の確認なんですが……」


 と、新居の住所の確認をし、引っ越し業者は何か合点がいったように感嘆の声を上げた。そしていう事には……


「では、そちらに伺います。一応クジャック引越センターの本日の担当、合馬おうまが伺います」

「へ? いや、引っ越しとかもうどうでもいいでしょう!?」

「いえいえ、そうはいきません。そのもやーっとしたのの対処は、むしろボクの専門ですので、ご安心ください」

「へ?」


 素っ頓狂な声を上げる僕に対し、引っ越し業者の若者は続けて一言。


「ところで、我々が運んでいる荷物の中に、炊飯ジャー、ありましたっけ?」



 現れた合馬という若者は、クジャック引越センターの緑の制服に身を包み、僕の引っ越しの荷物がぎっしり詰まったトラックから炊飯ジャーと一部の食器のみを引っ張り出して持ってきた。


「一刻も早く事態を解決してからでないと、家財を運び込むどころではないでしょうから」


 合馬くんはそう言って照れくさそうに微笑んだ。


「いやあの、お化けかなんかなんですかね!? 黒い靄が、もやーっと!」

「はいはい。正体が何かわかりませんが、なんとなくわかります」

「なんとなく? え、あの、合馬、くん? はお祓いか何かができるので?」

「いえ、ほぼできません」

「え゛」


 おじゃましますと元気よく声をかけて合馬くんは上がり込み、てきぱきとキッチンに炊飯ジャーをセッティングし、さっと中の釜を洗って、何処からか取り出した米を一合ほど注ぎ込み、僕に向き直る。


「さ、研いでください」

「へ?」

「家主が研いでお出しすることに意味があります」

「いやあの、へ?」

「黒い靄を何とかしたいんでしょう?」

「そりゃそうだけど、なんかこう、お祓いとかって、もっと、こう……」

「焚火みたいなのを突きながらお経を読むべき?」

「そ、そう、じゃないの?」

「あー、いいですね。それで出来るほどボクは力ないんで」


 大丈夫なのかといぶかしむ僕に米を研ぐことを支持し、合馬くんは持ち込んだ食器たちの中からペアグラスを取り出した。


「元々はお一人で住むわけではなかったんですよね?」

「え? ええ、まあ」


 僕は手がしびれるほど冷たい水で米を研ぎながら答えた。


「元々彼女が、結婚を約束してたんですが直前でご破算してしまって……でも元のアパートは引き払っちゃったし、いや、元のアパートの方が思い出いっぱいで……」


 米を研ぎながら、僕は新築のキッチンの壁をまじまじと見つめる。


「僕は未練たらたらなのに、彼女の方はもうあっという間に振り切ったみたいで、それもなんか悲しくて……」

「女性の中には、男を振る時は既に新しい男と関係を築いてから、って人も居るらしいですね」


 家の中で何かが動く音がする。木がきしむ音がする。


「ひっ、お、お化けが何か……?」

「いえ、今のは家鳴りです。お米研ぎ終わりました?」


 手を動かす様に催促し、合馬くんはどこから取り出したのかとっくりからペアグラスにお酒を注ぎ入れる。


「家鳴りは木造建築ではよくある現象です。湿気が木材から出る時や戻る時などにピシとかギギとかバキッて音がするんですよ。木造建築ではよくあることです」

「あ、ああ、そ、そうなんですね……今までコンクリの建物にばかり住んでたから……」

「そろそろ良いんじゃないですか? お米は研ぎすぎるとうま味も逃げますから」


 お米の水を切る際に少々お米をこぼしたりしながら、僕は何とか炊飯ジャーに御釜をセットした。


「ところで、これが一体何の意味があるんですか?」

「ああ、憶測なんですが……」


 と、合馬くんは話し始めた。



―― 打ち捨てられた神


 昔、日本には数多くの神が居た。八百万の神だけではなく、死ねば皆仏として、罪人とて祭り上げれば神となった。

 やれ頭の病気を患った盗人が死したならば頭の病の神となり、やれ足を射抜かれ殺された盗賊もまた走ることの神と成ったり……

 しかし、神になろうと、あるいは神に成ったからか、傲慢な神もまた存在した。

 いくつもの気難しい規則を作り、違反すればこれでもかと一族郎党を呪うその様に、人々は次第に離れていく。そうして神の世話する者が居なくなれば、神居は荒れ果て打ち捨てられ、信者は減って忘れ去られる。そうして初めて、神もまた学ぶだろう。

 ああ、神もまた、持ちつ持たれつなのだ、と。


 では、捨てられた神はその後どうなるか。

 昨今の日本では住居の土地が足りていない。ならば、かつて神住まう土地であれ、そうと知らずに居を構えることも少なくなかろう。

 しかし自身の住居に居を構える不届き者にばちを与えようにも神に力なく。神に信仰なく。ただそこに縛り付けられたが故に能わず。独り孤独に募る思いや何するものぞ……

 それは、積年の呪いか、あるいは……


――


「ってな感じのことが考えられます」

「つまり?」


 合馬くんは床を指さして、表情一つ変えずに淡々と述べる。


「ここ、大昔はある神様のお社の跡地です」

「それってどう考えても呪われる奴だよね!!」

「あー、そうかも?」

「かもぉお!?」


 思わず詰め寄りそうになる僕の背後から、御釜の気の抜けたメロディーが炊き上がりを知らせる。

 合馬くんが手を叩く。


「さ、いの一番をお供えしましょう」


 炊飯ジャーを開くと、甘い蒸気がもうもうと立ち上がり、ぱちぱちと真っ白なお米たちが拍手する。そうして現れた煌びやかに光を反射するお米に、思わず笑みがこぼれる。

 ではさっそくと、しゃもじでかき混ぜようとしたところを合馬君が止める。


「いの一番、とは、御釜に炊きがったお米の表面、その端っこの部分です。かき混ぜてしまってはどれがそうか分かりません」

「えっと、いの一番? ってのが良いの?」

「そうです。そこが『この御釜で一番良いところ』だとされています。その日のお米の美味しさを現わす物として、昔から高級旅館などでは常連のお客さんに、いの一番をお出ししたりしてるらしいです」

「へぇ」

「なので、大切な人にお出しするのにもってこいなんですよ。いの一番は。特に、“家主が炊いた米のいの一番”なんて、その家に住まう神様に上げるには極上品です。本当はお神酒も用意するべきなんですが、そこはこっちで用意しました」


 なるほどと、真っ白なお米の平原にしゃもじを入れ、きらきらしたお米を茶碗に上品に、ほんの少しだけよそった。


「あれ? でもこれ、炊飯ジャーで炊いた奴だけど、良いの?」

「良いんじゃないですか? 釜土で炊いたお米がベストですが、そうも言えないでしょう」

「それはそうだけど……」

「ちなみに、お神酒も購入した一本千円の奴です」

「いいのそれで!?」


 僕の疑問を無視して合馬くんが引っ越しで運んできた家財を探る。


「運ぶにはお盆が欲しいですが……無いですね」

「お盆って、使う機会が無くて……」

「じゃあこれで」

「ええ……」


 僕はノートパソコンに、ペアグラスに注がれたお酒と茶碗に一口ぐらいの量しか入っていないお米を持って、本来寝室に使う予定だった部屋へ入っていく。

 真っ暗な暗がりの中に、あの黄色い光があるのではないかと恐る恐る進む……と思ったら、脇からずかすかと合馬くんがすり抜けて部屋の照明のスイッチ紐を引っ張って照明を付けてしまう。もちろん何もいないことが証明される。

 見れば、部屋の隅にはこじんまりとした床の間がある。その前で合馬くんが手招きしたので、それに従った。

 床の間の前でお盆代わりのノートパソコンを下ろし、米と酒をお供えする。


「あっといけない」


 と合馬くんが何か思い立ったのかその場を去り、僕は床の間の前に一人正座する形になった。

 すると、部屋の照明が点滅し、見知らぬ人がいつの間にか隣に座っていた。

 誰なのかと驚くより先に、その人の美しさに気を取られた。その人は白無垢に身を包んだ、とても麗しい女性だった。しかし、その女性に見覚えは無かった。見覚えはなかったのに、妙に愛おしさを感じた。

 だが、決して、隣にいる僕には微笑み一つ浮かべず、僕とは反対側に居る誰かの方ばかり見て、次第にその姿は滑るように暗がりへ消えていった。あるいは、二人から僕が遠のいていくようで、去っていくその姿に思わず声をかけようとし……


「お待たせしました。塩を忘れてました」


 と、合馬くんが小さな白い皿に少量の塩を乗せて現れたのをきっかけに、彼女の姿は見えなくなり、部屋の照明も何ら異変は起きていない様子だった。

 合馬くんは何も聞かず、塩も同じくお供えするように僕に手渡した。僕は促されるままに塩をお供えする。


 すると、床の間に小さくうずくまる黄色い目をした男が現れた。浅黒い肌に白髪交じりの黒い髪、しかして老人というには若く、少年というには体が大きい。男は米を見て、続いてペアグラスに注がれた酒を見る。

 男がペアグラスの一方を手に取ったのを見て、合馬くんがもう一方を飲むように僕に催促する。お酒なんて飲める口ではないのだが、僕は頑張ってからっぽの胃に流し込んだ。かぁーっとなる体を何とか意識で引き締める。

 すると、目の前の男はいつの間にか消えていた。


「以上で、この家に既に住んでおられた方とお目通し終了ですね。お疲れさまです!」


 合馬くんが柏手を一つ。微笑みながら答える。

 僕は酒で自分の頬が赤くなるのを感じながら、合馬くんに質問する。


「今ので良いの? もう、黒い靄で現れない?」

「はい。今後、できれば神棚を用意して、毎日お世話をすれば、むしろ雲出川さんを守る存在となってくれるでしょう」

「そう……なの?」

「ええ、きっと長らく御独りで寂しかったんでしょう。久々に人が来てついはしゃいでしまった結果驚かせてしまったのかと」

「しょういう、こりょにゃのか」


 僕はあっという間に回ったお酒で、気が付けばそのまま寝ていた。


 夢を見た。

 夢の中で僕は、特別な力を持つ子供だった。

 いや正しくは、大人たちが勝手にそういう風にふれこんだ、ただの子供だった。“僕”を押し込んだ社の世話をしてくれる女性に恋をして、しかし彼女が別の男の元へ嫁いでいくのを、村の神として祝福しなければならなかった。彼女はそうして、村から去っていった。

 “僕”は荒れ、ふさぎ込み、神通力だかなんだかも無い、ただの骸になった。それでも人々は何のご利益かと知りもせずに拝んでいく。ご利益などないというのに。

 ある時、男が社を訪ねてきた。曰く願うに、当家に嫁いだ悪女を懲らしめて欲しいと。もちろん、聞くのは可能だが叶える力などない。だが、願いは叶った。

 後日、誅殺されたという悪女……彼女の遺体が村に返された。曰く、嫁ぎ先の財政を圧迫し、己が子供に辛く当たり、主人の留守に若い男を連れ込み、ついには主人を殺そうとしたのだとか……確かに帰ってきた彼女の顔は、昔の面影も無く鬼のようであった。



 僕は寝室に差し込む朝日と外の鳥のさえずりで目を覚ました。

 さっきの夢は……きっと、ここにあったお社の神様の夢なのだろう。僕はそんなことを漠然と感じた。

 ふと、部屋を見渡すと、家財はいつの間にか運び込まれており、申し訳程度に僕には毛布が掛けられていた。


「これから、独りか……」


 僕の心はまだ夢に引っ張られていた。

 そうだ、神様にご飯を用意しなくては……とキッチンに向かうとそこには浅黒い肌をした白髪交じりの黒髪の男が、炊飯ジャーを眺めて涎を垂らしていた。


「なんでいるの!?」


 男は口角を上げて微笑み、そっと消えていった。

 男が消えたところを見ると、空になったペアグラスと茶碗がある。


 もしかして……居なくなるわけではない?

 もしかしなくても……同居人?

 買ったのがペアグラスで良かった。


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