マニアミックス

紅葉屋 室

第1話 遭遇・拉致

なにもないよ。もうここにはなにもない。

君の通った小学校も、みんなで遊んだ公園も。

君にとって苦い思い出の詰まった学校も。

そして、君の暮らした家も。

なにもない。



 高校に入学し、僕は10年以上暮らした街を出た。

 寂しさなんてなかったといえば、ウソになる。けれども、どんなに寂しさがつらくとも、あの街に住み続けることよりは、一時の寂しさを味わうほうがずっと楽だった。

高校は街からずっと遠くを選んだ。僕は今時の高校生にはめずらしく、一人暮らしを始めた。学生一人が過ごすには十分なアパートで、学校からもそう遠くない。一人で過ごすという経験はなかったから、苦労することもあったけれど、ひと月も経てばすっかり慣れていた。学生寮にでもはいれば、もっとずっと楽に生活できたけれど、僕の入れる高校に学生寮があるところはなかった。

いや、本当は一か所だけあった。けれども、そこにだけは、僕は入りたくなかった。

 

高校では文芸部に入部した。校則で、何かしら部活に入らなくてはならなかったから、活動日数が少なく、幽霊部員が多いと噂の文芸部を選んだ。入って早々幽霊部員になるのは外聞が悪いと思って、3回に一回は顔を出すようにした。

 2か月もそうしていると、真面目そうな先輩方から

「やる気がないならわざわざ来なくていいよ。」

とひどく嫌悪感のある顔で言われたので、選択を間違えたんだなと、遅まきながら気が付いた。それ以降はもう、部室に行くことはなかった。何度か同学年の部員から活動日に声をかけられたけれど、2度3度断るとそれもなくなった。


 そうして、僕は高校生活最初の学期を、ただ日々が過ぎゆくに任せて過ごした。

アルバイトでもしようと何度か面接に行ったが、どれも断られてしまったので、早々にあきらめた。

学校と家と、時々図書館。そうしているうちに夏休みになった。


アスファルトに陽炎が立ち、セミの鳴き声が耳鳴りのようにこだましていた。

ニュースは連日、熱中症で倒れた人の数と、あとはいやな気分になる話題ばかりを垂れ流していた。僕の通う高校でも、部活中に救急搬送された人が何人かいるらしい。

道を見れば、日傘をさしていない人のほうが少数派だった。


その日も。とても暑い日だった。

僕は床に体を投げ出し、窓から入ってくる熱い風で揺られる、風鈴の音を聞いていた。

 時刻は朝7時。暑さのピークは午後1時頃らしい。

暑さでだるくなっている体を気合で起こして、服を着替えた。

水筒に氷を詰めてから、水道水を入れる。水筒から聞こえるパキパキという小気味のいい音を聞きながら、ふたをしっかりと閉める。

水筒をタオルでくるんで、トートバッグに入れる。財布とカロリーメイトも入れて、帽子をかぶって外に出た。サンダルをはいた足に日が当たり、すぐに暑くなる。ジワリと汗が浮き出てきた。

 木や、道路看板の影を通りながら汗をかかないようにゆっくりと歩く。

通勤中のサラリーマンが額の汗を拭いながら、足早に追い抜いていく。大きな声で笑いながら、小学生の男の子数人が自転車に乗って走り去っていく。フリルのたくさんついた大きめの日傘をさしたおばあさんも、背筋をピンとのばしてすたすたと歩き去っていく。

僕よりもゆっくり歩く人は、この道にはいなかった。


駅が見えてきたところで、僕は道を曲がる。

そこから僅かに傾斜のついた道を、さっきよりも少し歩調をはやくして登っていく。

僕を追い越す人も、追い越される人もこの道にはいなかった。

うっとおしい傾斜がなくなるとトンネルが見えてくる。

煉瓦でできたそのトンネルはうっすらと苔が生えていて、いかにも古臭い、トンネルの上には線路が通っている、遠くから踏切の音が聞こえてきている。


トンネルをくぐると、視界に緑が増える。

木々の隙間からこぼれる日差しは、さっきよりも涼しい。

最初よりももっとゆっくり歩いて、数分経つと目的地が見えてくる。

図書館だ。


 この街と同い年くらいのお年寄りなこの図書館は、その立地の悪さも相まって利用者がとても少ない。本もそう多くなく、およそ魅力といえるものはない。

 この図書館に僕はほぼ毎日通っている。ここは、エアコンが効いているからだ。

朝の、気温の上がり切っていない頃に、まさに開館時間にきて、気温の下がる閉館時間ごろに帰宅する。それが僕の夏休みのルーティーンだった。


僕は本が特別好きというわけではない。それでも、娯楽として読書を楽しむことはできたから、避暑地として図書館はうってつけの場所だった。

読むのが早くないから、一日入り浸っても、2冊程度しか読めなかった。

その日は図鑑や写真集を眺めた後、ラヴクラフトの「インスマウスの影」を読んでいる途中に閉館時間になっていた。

この図書館はそこそこ遅くまで開館している。外に出るとあたりは暗く、生暖かい風が吹いていた。小説の世界観を思い出して、背筋にぞわっと寒気が走る。後ろに何か不気味なものでもいるのではという感覚を覚えた。けれどそんな感覚も歩きだしてトンネルを抜けるころにはすっかりなくなって、夜にも残る暑さに対するいら立ちが、帰る足を急がせた。


 いつも、この坂は人がいない。ほぼ毎日図書館に通っているが、一度もこの坂で人とすれ違ったこともなければ、人気を感じたことすらなかった。

 だから、道の端に寄せられた物体を僕は最初、ごみ袋か何かだと誤認していた。

足早に歩く僕が、ぴたりと止まって動けなくなったのは、その物体がもぞりと動き、それだけならまだよかったが、秋の夜に響く虫の声のように澄んだ音で

「ハリヤカシ、だな」

と僕の名を呼んだからだ。



針谷樫 間違いようもなく、僕の名を呼んだ。

ゆっくりとした動きで立ち上がり、僕の進路を塞ぐように、そいつは道の中央に立った。

夜とはいえ、汗ばむような気温の中、厚手の黒いコートを羽織り、顔が見えないほど深くフードをかぶっている。

坂の下から吹き上げる風が僕の顔に触れる。じめっとした風には、雨の臭いとかすかに鉄の香りが混じっている。

反射的に体が下がった。右足を後ろに引き、半身を翻そうとした。無意識だったから、ここが平坦な道でないことはすっかり失念していた。

僕はバランスを崩してしゃがみこんでしまった。

そいつに背を向け、うずくまってしまった。


「話すことはない。ハリヤカシを連れてくること、それだけだ。」


襟をつかまれ、まるで猫の子でも持つように簡単に体が浮いた。

僕は決して小柄ではない。それがこうも軽々と、パッと見ただけでも僕よりも背丈のないこの存在に持ち上げられてしまった。


あっけにとられたのは一瞬ですぐに恐怖が沸いて出た。

逃げなくてはいけないと強く感じた。

手足をばたつかせ、つかまれた襟首を振りほどこうともがいた。

幸い足は地面に届いたので、思い切り地面を蹴って逃れようとした。


瞬間、ぐんっと体に強い負荷がかかり、目を開けると、街がはるか下に見えた。

街頭の点々と光るさまはまるで、以前行ったプラネタリウムのように星空を模していて、遠方を走る電車は銀河鉄道の夜のように飛んでいくのではないかとすら思った。


光景に意識が向いたのは一瞬で、落下する感覚を頭が理解した瞬間に、叫び声をあげることもできずに、僕は意識を失った。


 土の匂いがした。土手をなぞった風の匂いだ。

煙の匂いもする。パチッと薪が爆ぜる音がして、僕ははっと目を見開いた。

寝転んでいた。記憶がフラッシュバックして体がぎゅっと強張る。眼球の可動域ぎりぎりまで使ってあたりを見回した。


草の上に転がされている。芝生と雑草が熾烈に生存競争をしている。

自分の頭の影が目の前に落ちているから、火は僕の後ろで焚かれているようだった。

熱を感じたりはしないからあまり近くではないみたいだ。周りに誰かが、いや何かがいる。僕を連れてきたあれはもちろん、ほかにもいる。話し声は二人分聞こえてきていた。


「…いい加減。話してくれないか。」


あいつの声だ。悟っているような、あきらめているような、そんな落ち着きのある声だと改めて思った。


「さて、俺は君に何を話せばいいんだったか。君の家のことか?街のことか?それともそこに君が転がしたもののことか?」


男の声だった。話し方や声は、とても若いやつのそれに聞こえた。


「全部だ。だが先の二つは後でいい。今は三つ目のことだ。」


こいつの声はやはりきれいで、すうっと耳に滑り込んでくる。けれど話の内容がだんだんと足音を立てて近づいてくる。あわせるように僕の心臓はどんどんとその音を大きくしていった。冷汗が全身から噴き出してくるような感覚を覚えながら、僕はどうすればいいかを必死に考えて、考えて、考えて、考えて、考えた結果このまま聞き耳を経てることにした。

僕は僕の置かれている状況が何もわからない。わからないまま逃げ出しても、あいつからはきっと逃げられない。なら、まずは知るべきだろう。恐怖を必死に抱えたまま、聞き耳を立て続ける。


「君に連れてきてもらった針谷君はね。ここの、そして個々の安寧の為に必要な人物だ。もちろん君の諸々の解決の一助にもなるはずだ。まあ、針谷君をどう扱うかは明日にでもみんなで話し合って決めよう。」


明日までここに転がされるのはたまったものではない。それにこいつは今みんなといった。他にもいる。数が増せば逃げきれる可能性も低くなる。どうする。今逃げるべきか。だがあれ一人でも易々と僕は捕まる。どうする。

携帯で助けを呼ぼうか。警察に通報…だが声を出せば起きていることにばれてしまうだろうし、会話の内容を聞かれればそれこそ何をされるか。

そもそも、通報がかなったとしてここがどこだかわからない。助けを呼びようがない。すぐに駆け付けてくれなければ結局危険が増すばかりだ。

携帯はバッグには入れてない。ズボンのポケットに入れてある。

一か八か通報してみるか。

通報しなければ人とのかかわりが薄い僕の不在など誰も気づかない。

現状を人に知らせれば、危険は増すが助かる可能性も芽生える。

…やるしかない。

僕は音を立てないようにそっと、本当にゆっくりと手をポケットに向かって動かす。

心音が増していく、指先の震えが全身に広がってしまいそうだ。

時間が引き延ばされたように、長く感じる。

指先が携帯に触れた。

ぐっと手をポケットの中に進ませる。しっかりと携帯を握り、さっきよりもよっぽど慎重に体の前に、視界に収まる位置に持ってくる。

瞬間、画面がパッと明るくなり、ぞおっとまた全身に寒気が走った。素早く操作し画面の明るさを最低まで落とす。音量もならないようになっているか設定を確認し、電話画面を表示する。119だったか、違う消防だそれは。三桁、警察画面を操作する指が見たことないほど震えていた。

ふと、ばれてはいないだろうかと思考が彼らに向く。

頭を動かさずに、意識を火のほうに向けた。


これもまた無意識だったが、目線も携帯から離れて、見えないながらに彼らのほうに動いた。


ぎょっとした。

そう表現するのが的確なのだと思う。

けれども言葉では決して言い表せないほど、僕は心底驚いて、恐怖した。

 いつのまにか僕の頭の後ろには、人がしゃがみこんでいて、僕の顔を、手元をのぞき込んでいた。

年若い声と思っていたそいつは、想像に反することなく若い男だった。白いワイシャツに赤いネクタイ、グレーのベストをきっちりと着込んでいる。ふわりと頭に乗っているこげ茶の帽子はハンチングハットという名前だった気がする。服装はずいぶん古臭いものだった。


「こういうときにかけるのなら、イチイチゼロだ。針谷君。起きているのになかなか会話に入ってこないから、顔色を見に来たけど、まったくひどい顔だ。よほど怖い目にあったとみえる。エスコートが下手だね。君は」


言いながら立ち上がって、焚火の元に戻っていく。

火の近くにはトランクケースが置かれている。そいつはそれに腰かけて、両膝をぴたりとそろえて座った。


「そんなものは知らない。これにそんなことを気にしてやる価値があるかも、聞いていない。 おい。こっちに来い。」


呼び止められて、逃げようとしていた脚を止めるしかなかった。

いまだにフードを目深にかぶるこいつはこちらを見てすらいない。焚火の横で佇むこいつとの距離は十数歩分しかない。

僕は逃げられないことをじっくりと理解して、火のそばへ歩み寄った。


「うんうん。いいね。これでようやく会話の場になった。さて、針谷君。ハリヤカシ君。きっと今いろいろと考えて、悩んでいることだろう。俺は君の現状の疑問の大半は解消してあげられる。でも、先に言っておくが、君を即座に解放することはできないし、昨日までのように何も起こらない、はたから見ていてもつまらない日常に戻してやることもできない。

その権限は俺にない。この後全員で話し合って君の処遇が決まるわけだけれど、何もなく何ら変化なく解放されるということは、まあ確実にないだろう。

そしてこれも確実だが、今から死ね、なんて言われることもない。安心はできないだろうが、死なない、殺されないという点は保証しよう」


つらつらと、何一つ安心材料にならないことをまくしたてて、笑みを深める。視線は僕に向けることなく、じっと焚火を見ながら笑っている。


「さて、何から聞きたいかな。幸い君も時間はあるだろう。帰りを待つ誰かがいるわけでもなし、予定があるわけでもない。一晩家を空けたところで、いや数日空けたって何ら問題はないだろう?ゆっくり、じっくり話そう。質問してくれ、それに俺が答える。横の彼女はひとまず気にしないでくれ。」


彼女。こいつは女なのか。コートで体形も顔も何もわからない。

いや、いったんこいつはいい。いわれた通り気にしないでおこう。それよりも聞きたいことはいくらでもある。


「…あなたたちは何なん、ですか。なんで僕を、その、攫ったんですか。」


「いいよ。敬語なんて。俺たちそう年は離れてないからね。俺たちは、そうだな。なんて言ったらいいのか。俺はただの噂好きの旅人だ。ふらふらと年中さまよっている根なし草だ。行った先で面白い話があれば、聞き込みをして、問題があれば自己満足のお節介を押し付ける。そういうことをして、“当事者でない“奴らから金をもらっている。まあ何でも屋みたいなものだと思ってくれ。

 彼女たちは、ふらっと訪れた先にあった問題の当事者だ。いまは俺のお節介を受けているかわいそうな人たちだ。」


「具体的なことが何もわからない。抽象的に話さないでくれ。僕とその問題とやらが関係あるのか?…というかここはどこなんだ。」


僕は若干早口になりながら聞き返す。恐怖で一杯一杯だった頭に、少しいら立ちが募ってきていた。さっきまであった体の震えも引いた。

男は、僕の問を受け、それまで焚火に向けられていた視線をまっすぐに僕に向けた。口元は笑っているが、その目からは何の感情も読み取れなかった。ただじっと僕の目を見ていた。


「関係ある。君とここで起こっている問題は関係がある。確証はない。それでも君だ。君しかいない。ハリヤはもう君しか残っていない。

ここはどこかといったね。周りをよく見たかい?ここは第一近隣公園。昨年まで君が住んでいた街の、君たちが無邪気に駆け回った公園だ。」


 暗がりの奥、残骸が山のように積み重なっている。ロケットを模した遊具群にはいつでも子供たちが群がっていた。積み重なった残骸にはところどころ面影が見て取れる。う宇久の残骸の手前には、保護者が子供を見ながら休める東屋があった。木を模したコンクリート製のテーブルだけが、がれきの中にポツンと置き捨てられている。

…間違えようもなくここは、幼少期には毎日のように来ていたキンリン公園だった。


「なら、ここは扇街なのか。」

心音が頭に響いている。脈が早まり、ふらりと体がよろける。

恐怖と焦りがじわじわと湧き上がってくる。

男はまっすぐにこちらを見たまま、答える。


「そうだよ。君たちが無情にも見限った扇街だ。おかえり針谷君。半年ぶりの帰郷だね」



 僕が去年まで暮らしていた故郷。扇街。

昨年の冬、突如として街にサイレンが鳴り響いた。巨大地震か、あるいは戦争でも起こったのかとみんなが思った。

 サイレンが鳴り響き、街の活動は止まり、皆が何事かと騒ぎ出した頃、すっとサイレンが鳴りやみ、行政からのアナウンスが流れた。

何の前触れもなく、何の相談もなく、僕たちはこの街から逃げ出さなくてはならなくなった。

「人体に甚大な影響を与える有害物質の発生アリ」「故に早急な避難が必要」要約すればそんな話だった。

 避難先はわずか数十キロ離れた隣町だった。

何があって避難したのか。いつまで避難するのか。あったはずの明日を突然奪われた不安はひどく大きなものだった。

 大小さまざまなトラブルを起こしながら避難生活は数日経ち、次に僕たちに告げられた行政の発表は「もう街に戻ることはできない」というものだった。


当然反発はあった。だが、最初こそ大々的に報道したニュースも、祭りのごとく騒ぎ立てたSNSも、数日で不自然に静まり返り、妄執的に土地を愛した人々により、数日続いたデモ活動も1,2週間で強制的に終わった。その間、街には大量のトラックが出入りし、住民の私財を運び出していたそうだ。そうして僅か3週間で、街から人は消え去った。



「この街は、見捨てられ、見放され、今となっては禁忌の土地だ。有害物質とやらが充満しているはずなのに、除去も除染もされていない。ただ隔離し封じた。誰もここに近づかなくなった。…どこかのだれかの思惑通り、この街は静かに滅びるだろう。何も知られぬまま。

それはいい。俺には、どうでもいい。君たちにも、もはやどうでもいいことだろう。でも彼らは違う。」


彼ら、きっと僕を連れてきたこいつや、これから話し合うというほかのだれかのことだ。

いまだ顔もうかがえないそいつは、すっと立ち上がり、ゆっくりと歩き始める。

一歩一歩、僕のほうへと歩み寄る。


「何者なのか、だったね。彼らは君と同じ、この街の住民だ。もちろん避難に遅れたわけでも、隠れ忍んで住み続けているわけでもない。彼らはここに封じ込められている。

いや、彼らが生じたからこそ、街ごと封じ込められたというべきだろうね。有害物質なんて、そもそも発生していない。いや、言い分的には彼らこそが有害物質なのかもしれないけれど。」


僕の前に立ったそいつは、無言のまま、すっとフードを上げた。

焚火から届くオレンジ色の優しい光は、そいつの半面を照らし出していた。

左半分はヒトの顔だった。僕よりいくつか幼い、少年のような顔をしていた。右半面は人ではなかった。骨格こそ人のそれだが、ほかは違った。銀色の体毛の中に金色の眼が鋭く光っている。大きく避けた口からは鋭い牙がはみ出していた。

狼。そうとしか表現できなかった。

そいつはうなり声をあげながら、じっと僕を見つめていた。

ヒトの目と狼の目、どちらも僕から視線を外さず、射殺すようなその眼光に圧倒され、僕は思わずあとずさる。


「そう。彼の問題はその半面の狼化。…他の子も似たり寄ったりだ。身体の一部が変容する。動物であったり、なかったり、夜間だけだったり、昼夜を問わなかったり、共通するのは、みなここの住民であること。年齢は君とそう変わらない少年、少女であること。今わかっているのはそれだけ。」


僕は、今すぐ逃げだしたい衝動を抑えるため、手を固く握りしめていた。

これ以上ここにいてはいけない。けれど逃げ出す隙が無い。

こいつにこれ以上、話させてはいけない。聞かれてはいけない。

黙ってくれ、もうこれ以上はしゃべれないでくれ。

頭の中で様々な思考がぐるぐると駆け回り、平衡感覚が乱れる。倒れてしまいそうだ。


「現代科学の粋を集めても、こんな状態にはできまいよ。人間では到底ありえない身体能力の向上。夜間のみ発現する狼の貌と能力。何をとっても人間社会で受け入れられるものではない。偉い人は隔離しかないと判断した。本当なら彼らを捕まえて調べ尽くしたいのだろうが、そう簡単に捕まえられない。大衆に知られるのも厄介極まりない。だからこその隔離。

事なかれ主義のこの国らしい対策だ。こちらとしてはありがたいことこの上ないけれどもね。

 さて、針谷君。この現象が科学でないなら、なんだろうね。魔法とか、神の祝福とか。超能力とか。あるいは呪いとか。なあ、なんだと思う針谷君。」


その問いかけに僕は答えなかった。ただ、振り返って全力で走りだした。

バタバタと無様に手を振り回して、一切振り返ることなく走り出した。必死に彼らから遠ざかろうとした。



「なるほどな」


落ち着き払った声が聞こえ、視界がグルンと回る。

僕は草むらに倒れていた。勢いよく頭を地面に押さえつけられ、口の中に青臭い匂いと鉄の味が広がる。


「乱暴だね。あまり脅かしすぎて漏らされでもしたら面倒だ。ここに動く洗濯機は一台もない。」


どちらの声も平坦で、焦りも怒りも感じ取れなかった。


「心当たりのあるやつでなければ、こんな反応はしない。全部話してもらわない限り、解放はできない。どちらにしても脅かすことにはなる。」


「それはその通りだ。針谷君。乱暴にして済まない。

逃げたいなら、頑張って逃げるといい。でもね。君のことは十分調べ尽くしてから攫ったんだ。住所も行動パターンも連絡先も全部俺は知っている。運よく逃げ出せたとしても、またここに連れ戻されて終わりだよ。」


 僕は狼男に腕をつかまれ、火のそばに引っ張られた。そのまま、若い男の対面に座らされた。


「さて、針谷君。君のほうで聞きたいことはまだまだ山ほどあることだろうと思う。だが先に、こちらの質問に答えてもらう。」


焚火に照らされたは男の顔は、真剣そのものといった様子で、僕はただ、焦りと罪悪感で鉛のように重くなった頭を下げることしかできなかった。

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