トリッキー

@rabbit090

第1話

 「立ち止まって。」

 「………。」

 その声が響くと、世界が戦慄に包まれる。

 勇気を出して、一人、この中で一番臆病だけど、でもやたらとモラルがぶっ壊れている男の子が、声を上げた。

 「ムリです!」

 やっと、っといった感じだった。

 でも、少しだけ場の、こわばった雰囲気が和んだ。

 だって、そうしなければ誰も、助からなかった。そんなことは分かっているのに、その中でたった一人、本当に死んでしまったのは、彼だけだった。


 見たのは、それだけ。

 私はただ、それを目撃していた。

 最初は、実入りのいいバイトとして紹介されたものだった。大学時代の友人が困窮している私を見かねて、教えてくれたんだけど、でも実態は、ただの犯罪組織だった。

 彼らは、どこかから連れてこられた、高校生くらいの子どもたちだった。

 そして、皆素性が知れないらしく、中には記憶がない子もいて、とても奇妙で不可思議な状態だった。

 私はそこで、彼らの世話をする、という仕事を預かった。

 もう知ってしまったから、逃げられる状況ではすでになく、ただ銃を構えた男の指示に従って、彼らに衣食住を与えた。

 そういう世話をする私を、彼らも警戒することがあまりないようで、まあ中には反抗的な態度をとる子もいたけど、でも、それも次第になくなった。

 分かっているのは、ここが普通ではない、ということだけ。

 私は、毎日絶望を、抱えた。

 しかし、一人。

 やたらと私に話しかけてくる男の子がいた。

 その子は、

 「ここはおかしいから、あなたも一緒に逃げよう。手伝ってくれないか?」

 と言っていて、私自身も身動きが取れなくてどうしようもなかったから、適当に笑って、ごまかしていた。

 けど、けど違った。

 その子は、分かっていた。

 ここの正体も、彼らの正体も、私がなぜ、連れてこられたのかも全て、理解していた。

 「必然なんだ、でも変えられる、この先の未来は必然じゃないから、それは分かってて。」

 彼はいつも、私にそう言っていた。

 随分、こんな状況で楽観的だなあ、と思ったけれど、それも無意味だった。

 彼は、何度も言うけれど、分かっていた。


 「俺は、遠くから来た。でもここがどこだか分かってる。もっと、遠く離れた場所なんだ。奴らは、利用できるって踏んで、俺たちを連れてきた。でも、帰らないと生きられない。だってここは、俺たちでは適応できないから。」

 「?」

 相当、不思議そうな顔をしていたのだろう、だから、彼はちょっと困った顔をして、私の頬に手を当てた。

 「これで、大丈夫だから。」

 「……あ。」

 あ、そうなのか。

 そうだったのか。

 そして、それは私の理解の範疇をはるかに飛び越えていた。

 けど、分かるのだ。彼らが生まれた場所、そして奴らが望んでいること、これはドラマや映画のような話ではなくて、もっと現実的で利己的なものだった。確かに、これは抽象的なものではない、確かに、これがあれば、きっと彼らはとても大きな財を得ることができる。

 「だから、頼む。」

 そう言われて、私は彼の言葉に従うことにした。

 なのに、なのに。


 「立ち止まって。」

 随分、穏やかな声だ。

 その美しい女性は、彼らを見下ろしながら、微笑んだ。

 女神のスマイル、と呼んでもいいくらい、慈悲の心に富んでいるようで、私もつい、今にでも彼女に、「助けて下さい。」と泣きつこうかと思う程だった。

 でも、皆もうそんな気力もなかったようで、誰もしっかりと前など向いていなかった。

 けど、彼女はそんなことは気にせずに、彼らに近づいていく。

 ああ、ダメだ。

 私は直感した。これ以上、進んだら、終わる。

 けど、彼が言ったのだ。

 「ムリです!」

 「………。」

 女神は、無言のまま立ち止まった。

 彼女が、立ち止まった。そして、彼らも、目に光を、宿し始めた。

 「俺を、使えばいい。」

 そうか、そういうことか。

 私は、分かってしまった。彼の真意を、でも、それは受け入れがたいものだった。

 そして、嫌なことに私は彼に目配せをされ、彼以外の子を、外に連れ出すことにした。

 周りの連中は、もういない。

 私が、なくした。

 しかし、女神だけは違う、彼女は異質だ。

 そして、彼も異質なのだ。

 これは、誰にも知られない物語。

 でも、確かに存在している。

 証人は、私。

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