「環と循」
休憩時間に今まさに突入するという瞬間、施設のインターホンが鳴った。
放っておけば誰かが応対すると皆思っている環境だ──大抵の場合は新人か、気の弱い人間が渋々といった様子で腰を上げる。今回の場合は前者であり「この時間に尋ねてくるのなんて勧誘だから」と対応する気も無い周囲に適当な助言を受けつつ、ふらふらと一人の青年が席を立った。
青年は扱いとしては施設に招かれた側の人間だ。区の就労制度によって名は異なるかもしれないが──一昔前であれば御雇外国人とでも呼ばれていたかもしれない。だからといって彼が特別職場で大切に扱われていたからといえばそうではなく、時には飲食店に職場の人間が注文した昼食をまとめて取りに行くことすらあった。青年自体それを拒むこともしなかったし、当然そこには彼の分も含まれていたのだが。
玄関まで行って扉を開けるとそこには青年の顔見知りが立っていた。切り揃えた赤髪に所々土に汚れた赤茶のエプロンドレス。小柄な体躯に似合わず大きな鋏を背負った娘。以前、訪問販売に来た庭師だ──先日、友人に言われるがままに肥料をいくつか買ってやった気がする。冴えない頭で覚えのない恩を記憶の引き出しの中から見つけ出すと、彼女は先日用意出来なかったという名刺を青年に押し付け。笑顔で何度か頭を下げて帰って行った。
また来るのか……とは思いつつ、それほど高価な商品でもない。職場に植物らしい植物は無いが、スペースに余裕が有るから自分も何か育ててみようか。
「環……あなたここでもう友達が出来たの?」
「友達というほどではない」
「正にそういうところよ。そういう性格だからあなたと仲良くしようとする人間が珍しいって言ってるの。確かに可哀想だから一つぐらい買ってあげたらとは言ったけど……ああ、分かった。カモにされてるんでしょう」
「帰れと言えば帰るんじゃないか」
軽く腹部のあたりに感触を感じ、その方向を向くと此方を肘で小突く友人の姿があった。青年の様子が気になって後を付けてきたらしい。室内だと目立たないが、日に焼けた健康的に暗灰色の短髪──施設の制服であるロングジャケットにベストこそ着用いるが、袖を捲り、靴はスニーカーといったどことなく活発な印象を受ける女性の姿。青年とそれほど背丈が変わらず、低い声質も相俟って人によっては男性と感じる者もいるかもしれない。
青年も一度は彼女の事を男性と間違えた──その時の彼女はひどく慣れた様子で、今思うとそれで怒らなかったのは意外だったが。
「これから休憩でしょ。ご飯行かない?公園に」
「ああ、メグルか。飯ぐらい中で食べればいいんじゃないのか。ここは別に狭いわけじゃないだろう」
「こんなに天気がいいのにこんなところで缶詰になりたいの?ああ、やだやだ。そのうち全身にコケとかキノコとか生えて来そうじゃない」
「不審死か」
「縁起悪いこと言わないでよ」
女性──循と呼ばれた彼女はまだたどたどしい発音ににこりと笑った。
循の両手には風呂敷に包まれた弁当とペットボトルが握られており、正に今から昼食を食べに行くといった様子である。青年には以前彼女に同じようにして誘われ、億劫に感じて断ったことがある……その時、思いの外引き下がらず渋々同行する羽目になったことはまだ記憶に新しい。
「いいえ」を選んでも結局承諾させられるような、そんな感じだ。現に循は待っているから弁当を持ってきてとだけ言い残しさっさと外に出てしまった。
青年は彼女の申し出に返事こそしなかったものの、やれやれと言った様子で自席まで戻ると鞄を持って再び彼女の後を追った。
「良い天気ね。それにしたって暑いけど。でももう少しすると外でご飯を食べようなんて軽々しく言えなくなるから今の時期に沢山外に出ておくのがいいのよ」
「そういうものなのか?」
「このあたりは連日30℃を超えるの。それに蒸し暑いから気温がそれほどじゃなくたって対策しないと熱中症になるわ。それと紫外線ね、年取ってくるとシミも出てくるわ。よく外に出るから色々気を配ることが多くて嫌になるよ。夏自体は嫌いじゃないんだけど……」
青年は彼女の背後で首を傾げた。真夏日、熱中症といった単語を天気予報で連日聞いてはいるものの……彼にとってはこれがこの地で過ごす初めての夏だった。「例年の」などと言われても実感が湧かない。周囲にどれだけ暑いのかと聞いてもその時になれば分かると苦笑されるばかりであった。
施設を出て、歩道を歩く。脇に並ぶ木のお陰で直射日光はいくらか避けられている。葉の隙間から指す木漏れ日が循の髪の上で踊っている。それからいくつか他愛のない会話をしている内に公園に到着した。
ブランコと砂場、簡素な時計台……青年には使用用途の分からない球体の遊具がある小さな公園であった。そして砂場の傍に木製のベンチが二つ。以前ここに来た時に循は「平日の昼間は穴場で誰もいないんだよ。近所の幼稚園から子供が来るのはもう少し経ってから。ゲートボールはもう少し遠くの公園でやるからここは静かなの」と言っていた──ゲートボールとは何か。聞いてみよう、調べてみようと思いつつ、数週間この疑問を放置し続けていることに気付く。
循は他に誰もいないというのに早足でベンチの傍まで歩いていくとさっと腰を下ろし、青年に手招きをする。
「そんなに急がなくてもいいじゃないか。誰もいないだろう」
「個人的に話がしたいのよ。ああ、そういう意味じゃないからね。貴方の故郷の事とか聞きたいことが山ほどあるんだから。研究の事もそう」
「その話ならこの前しただろう。また口論がしたいのか?」
青年の言葉に循は目を丸くし、一度弁当の風呂敷を解く手を止める。そしてぱちぱちと瞬きをした後、再度何事も無かったかのように弁当箱を取り出す。
口論をしていたつもりなんて無かったの──彼女は怒りとも悲しみともとれない様子でぽつりと溢す。右手に箸を握り、早速玉子焼きを食べている様子からして決して重要な話題という位置付けではないのだろうが……このようにして彼女にペースを乱されることは一度や二度ではなかった。
「貴方の研究は確かに素晴らしいと思うわ。でも根本的な解決にはならないじゃない。そりゃあ死ぬまでずっと不審死のリスクがないって言うなら話は別だけど」
「初めから答えに辿り着くのは難しいだろう。何事にも前提があるものだ」
「私も思っていることは同じよ。私だって人には人らしく死んでもらいたいもの。例えばそうね、老衰でしょ。それと事故や病気。勿論、自殺や他殺も有るわね。私は人間が本来持っている運命を尊重したいだけよ。貴方みたいな人はちょっと特殊だけど、それでも貴方達と出会って人の道は滅茶苦茶になってしまった」
青年は循の話に言葉を詰まらせた。言葉が見つからず、自分も彼女の真似をするようにして鞄から昼食を引っ張り出す。動作が終わってまた次の動作を見失い、気まずい時間が流れる事を恐れてその所作はやや遅い。
空気を悪くした自覚があるのか、循の方から小さく「ごめんね」と聞こえた時にようやく強張った身体が解放されるような心地がした。
「誤解しないでね。私はあなたの事が嫌いなわけじゃないから。大事な友人だと思っているし、研究を通じてきっとこれから沢山の人が貴方の事を好きになると思うわよ。人種を一括りにして考えるなんて時代遅れよ。良い人も悪い人もいる。必ず評価されることでしょう」
「そうか」
「……なに、照れてるの?友達としてってことなんだけど」
上げて下げる──循との交流は正にそんな言葉が似合うようなコミュニケーションだと青年は思う。事実、青年は循の事を嫌ってはいなかった。最初に自分を外へ連れ出し、あらゆる場所、様々な人の輪に連れ出したのもまた彼女であった。
万一それが彼女の計算の内だったとしても居心地が悪いとは一度も思わなかった。気まずい事はあれど、嫌うには至らなかった。時にその強引さが彼を助けたこともまた事実であった。
だからと言って周囲や彼女自身が揶揄うような感情を持っているわけではないのだが──彼女とこうして過ごしている内は常に付き纏う話題であるのだろう。逆に言えばその程度しか循と過ごすことの欠点など見当たらなかった。
まだ知らない夏の手前、これは青年にとって最も輝かしい時期であった。
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