第22話 不滅の蔦
「うわあ……先輩どうしたんですかそれ……」
出勤早々、アキが仕事場のドアを開けるとそこには環がいつもの姿勢でパイプ椅子に腰かけていた。脚を開き、太股の上に握りこぶしを乗せ、心なしかどこか不機嫌そうな面持ちで床に視線を落としている──その理由は直ぐに判明した。まだ確定ではないが、八割がたそうである……とアキは一人頷く。
環が見慣れた灰色の制服を着ていないのである。白い部屋の中でも際立つ白……タキシード姿であった。乗馬服のような造形で上衣の裾は腰を覆い隠す程度まで余裕が有る。分類的にはモーニングコートであろうか。襟元だけが薄く銀色に染色されている。
アキにとっては新郎の衣装というのが一番の印象であり、それ以上の知識といったものは捻り出せなかった。アキが小学生の頃に親に連れて行かれた親戚の結婚式でこのような衣装を見た記憶がある──普段の様子を知っていたからか、新婦に比べてどうにも衣装に着られているようでおかしかった。
さて、今は目の前の現実と向き合わなければならない。
環は普段から落ち着いている人間だが、今日にいたっては落ち込んでいる。対照的にアキは罪悪感を抱きながらも見慣れない正装姿、或いは場に不釣り合いな装いをしている環の姿に笑いを堪えきれず口元を押さえた。それでも指の隙間から噴き出すように笑い声が零れてしまう。
「俺に感謝しろ」
「開口一番それですか。……いやちゃんと話、聞きますよ?先輩が訳もなくここでそんな恰好するはずがないじゃないですか。最初は遂に気でも狂ったのかと思いましたけど」
環は怒りの感情を持たない人間だと思う。これだけ言われても無表情──強いて言えばやや眉がつり上がっている気がしなくもない程度だ。
アキはまだ笑いを引き摺り、ひいひいと声を上げながら左手で腹部を押さえ床に座り込んで三十秒ほど悶え苦しんだ。笑いが収まらないという状況は下手な腹痛よりもつらい腹痛だとアキは思う。その様子を冷めた目で環が見下ろしている。
アキは漸く笑いが収まってきたタイミングで立ち上がると覚束ない足取りで自分の席に腰かけ、新郎衣装の環と向かい合った。
「そ、それで……本日はどうしてそのような恰好を?先輩結婚するんですか?」
「しない。これは仕事の話だから真剣に聞くように。何から話すべきか」
「先輩自分でそういうの着なさそうですし、誰かにモデルを頼まれてそのまま出勤してきたとかですか?」
何となく結婚しても挙式とかやるタイプには見えないんですよね。
アキの言葉に環はやれやれといった様子で首を横に振る。彼女の冗談にこれ以上付き合えないと判断したのか、環は長机の下から一枚A4サイズの書類を取り出すとアキに向けて並べる。
「着用指示は出ている。たまに細かい指示書付きで流れてくるモノが有るんだが、それを試して何が起こるか分からんからな」
「ははあ……先輩ドレスなら着たんですか?」
「説明を続けるぞ。必ずしも指示書が有るわけではない。モノだけが流れてきて、見るからに触れたらまずいモノだったとしても。シールだけを貼って流そうとしても流れない時もある。そうした場合は特定の行動を起こすまでは……」
「はあ、分かりましたよ。私達が考えるところまでセットのモノもあるってことですね?」
妙に理解力が高いじゃないか。
散々揶揄われ、最早今日一日はアキの言葉を聞き流してもいいのではないかとすら思えてきた矢先にこれである。環は長机に右肘を突き、前髪を掻き上げるようにしてわしわしと頭を掻くと深く溜息を吐いた。対するアキは嫌な笑みを浮かべているものだから今日に限ってはあまり目線を合わせたくないというのが正直なところだ。
「とりあえずコレに関しては着用指示だ。異常が無ければ退勤時まで着用者が着ていろという指示だな。記録内容を保存して、帰りに出す。まあ、暇な時にでも見ておこうと思ってな」
「いい生地ではありますよね。全体的に白いから気付かなかったんですけど、蔦みたいな刺繍が襟と袖口にしてありますね。手が込んでます」
「婚礼衣装というだけあるわけか。目立たないところによくやるな」
環は裾を捲ったり、アキの指摘を受け襟元の刺繍に視線を落とす。
銀色の糸で表現された刺繍は蔦のような柄だ。植物で言えばアイビーに近い。わざわざ近くで見ないと分からないようなところに意匠を凝らすのは金持ちの発想だと環は考えている。もっと言えば無駄だ。これに関してはアキも同じことを考えていたのか、彼の言葉に頷いている。
「刺繡に関しては心当たりがある」
「以前見た死体ですか?」
「それもあるんだが、これを見てくれないか」
環が徐に右の袖を捲るとそこには服に施された刺繡と全く同じタトゥーのような紋様が刻まれている。アキが何かを問いかける前に環がその上を左手で擦ってみても紋様は消える様子もなく、ただ煌々と仄かに光を放つばかりである。
冷静な環とは対照的にアキは目の前で起きている事態に付いて行けず固まっていた。口をポカンと開け、環の腕に差したままの指は微動だにしない。
「もう慣れてきたつもりだったんですけど。これ……大丈夫なんですか?というかいつこんな状態になっちゃったんですか?」
「顔にも出せる。仕立屋の知人が知ったら泣いて喜ぶだろうな」
「遊んでないで少し真剣に考えた方が良いと思いますよ。バケモノじゃないですか。やだなあ……全身ピカピカになるかもしれないんでしょう?結婚どころか婚期終了ですよこんなの」
アキの目の前で環は蔦を首から右頬に至るまで、皮膚の上で伸ばしていく──タトゥーが皮膚の上で自由に柄を変えているような摩訶不思議な現象だ。
いつもなら環が自分に突っ込みを入れるタイミングであろうに今回に関しては立場が逆になっていることがおかしい。先程まで彼の服装に立てなくなるほど笑っていたというのに今ではすっかり笑いが引っ込んでしまっていた。
「一応引っ込められはするらしい」
「それを先に言ってくださいよ。いよいよ実験動物らしさを帯びてきましたね」
「皮膚からも出せるぞ」
「は……!?」
アキの言葉を遮るようにして環の露出した皮膚の上から糸状の光が溢れ出す。よく見ると糸には葉が付いていて、蔦を模していることが分かるのだが……問題はそこではない。環は平然としているが、アキは固まったままである。
目の前で蔦を掴んだり、また逆に皮膚の中にするすると……掃除機のコードを巻き戻すように回収している様はあまりにも現実的な動作だ。目の前で起きていることは不可思議そのものであるというのに。
──この日は一日、アキは何とも言えない気持ちで仕事を行った。
最初はこんな物を着せられて変な後遺症が残るのではないか……などと心配していたものの、人間が発光している様はどうしても可笑しかった。環も蔦を伸ばして照明に触れてみたり、ドアノブに巻き付けて引っ張ったりと終始楽しそうであった。無論、環のことだから顔には出さなかったが。
念のためアキは環がタキシードを脱ぎ、普段と変わらない状態に戻ったことを確認してから帰宅した。
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