第8話 閑話休題

「そういえばなんですけど」

「……ああ」

「先輩の名前って漢字ですよね。先輩って東方の文化圏の方なんですか?外見もそんな感じがしたんですけど」


 今は混血化が進んで何処にいたって色んな人種がいますけどね。

 アキはテーブルに肘を突き、頬杖の形のまま尋ねる。目の前では環がスクリーンセーバーとして表示され続けているパソコンの時計をぼんやりと眺めていた。環は作業も無く、話題が途切れると秒刻みの時計を眺めて時間を潰すことが好きだ。もっともそれを優先して後輩を蔑ろにするほど沈黙を好んではいないのだが。

 然しながらまさに上の空といった状態で意識を他に逸らしていた環。アキの質問内容を何度か脳内で反芻した後、漸く理解したのか少し間を開けて口を開いた。


「生まれは異なる」

「違いましたか。まあ今色んな人いますからねえ。人種は東洋系なのに全然違う文化圏で暮らしていたりとかザラですから。見た目と生まれ、文化が一致しないっていうか」

「複雑だな」

「その分寛容ないくらか社会になったとは思うんですけどね」


 アキも環も正直なところ互いの出身も何も分からないでいた。環の方はそもそもそんなことに興味も関心もないかもしれないが、アキの方は初見から興味津々である。

 混血化が進み、現代においてある程度親しい間柄において生まれや血筋を話題にすることは失礼ではない。それどころかすっかり一般的な話題として定着している現代において、アキのように話題に出すことは珍しい話ではないのだ。

 しかし環の方は特にそれに不快感を示すようなことはないものの、聞き慣れていないといった様子である。

 環は一見すると東方の血……今は区という形で分割された特定地域の人間に類する外見的特徴を持っている。烏の濡れた羽のような黒髪に射干玉色の瞳とでも表現すべきだろうか。もし環とただ道で擦れ違っただけの他人同士関係であったなら、彼の事をそうした文化圏の人間として考えていたであろう。


「逆にお前は何処の生まれなんだ」

「分かりませんか?」

「まったく」


 これはアキも想定内の反応であった。

 環は顔を上げ、改めてアキの顔を覗く。肩甲骨のあたりまで伸ばした焦げ茶色の髪に赤茶色の目。よく煮出した紅茶のような光の加減次第で赤も茶色にも見えるような色の瞳をしている。

 環が正直に感じたことと言えば、まず顔立ちだけでは何処の生まれか分からない。そして髪や瞳の色を見ても様々な血が混じっているようで見当もつかなかった。


「実は私も分からないんです。今時そうですよ。何処と何処の血が何分の一だとか言い始めるとわけがわからなくなるんですよ」

「本人にも分からないものなのか。人種も何もあったもんじゃないな」


 環はやはり遠方から来た人間なのかもしれない。

 アキは時折環の反応を見てそう感じる事がある。自分より年上で自分より常識のある人間だとは思っているが、彼は妙に文化に疎いところがある。

 異民族の存在であるとか、直接見たことはないが宇宙人が跋扈しているような国なのだから世界は広いと言えばそれまでの話なのだが。

 

「『昔は特定の人種を守る』とかって活動している団体もいたみたいですけど、これも教科書に載っているようなうんと昔の話ですし」

「聞くからに危険な感じがするな」

「今は廃れた団体ですけど、国際結婚をしている夫婦とか余所者と付き合ってる男女を襲ったりして問題になったそうです。保護対象同士を無理やり結婚させて、子供を作らせるとか」

「聞いてて気分が悪くなってきた」

「先輩にもそういうことがあるんですね。ちょっと意外」


 教科書には表現こそ暈してあるもののきちんと所業は書かれている、と言うアキは何処か楽しげだ。環はそれを責めるつもりこそないが、その感覚は彼にとって理解出来るものではなかった。

 時が経過し、過去が歴史になると悍ましい出来事さえ笑い話になるものなのか?

 普段ここの仕事で変死体を眺めていてもここまで気分が悪くなることはないというのに。


「ああ、そうそう。アキって名前に漢字が当てられるとか思いませんでしたか?」

「季節の秋とか?生憎漢字には詳しくなくてな」

「その割にはポンと出て来るじゃないですか」


 これも環にはピンと来ないことであった。

 環にとって漢字というのは言語に用いられるツールの一種に過ぎない。何となくTシャツに印字されていたら格好いいだとか、意味も分からず身体に刺青として刻んでしまう異文化圏の人間……とまではいかないもののそこまで詳しくはない。

 ここのパソコンの言語設定でも漢字を入力するには一手間かかるし、環が契約する携帯もデフォルトの設定でも同様だ。例外的に本来の意味とは違うニュアンス、それこそ文字の形だけを面白がって「絵文字感覚で使われる字」があることは知っているがそれだけは何故か記号に設定されていたりする。


「音だけを聞いて東洋系だと思われることが結構あるんですよねえ。私の名前に漢字は当てられていないし、特に名前に意味もありません。強いて言えば私が産まれた年代に地元で子供に短い名前を付けるのが流行っていたぐらい」

「それは意外だ」

「結構適当なんですよ。父親の下の名前はアキチカって言うんですけど、これは男とも女ともとれる名前を付けるのが流行していたからでして」

「名前を貰ったんだな。親ではないが、俺も同じだ」


 環の名前は人から付けられたものであった。

 アキのように血縁者から受け継いだ名前ではないが、この国で生きていく上でらしい名前があった方がいいと過去に名前を考えてくれた人間が存在していた。

 自分の名前を声を出さずに唇の動きだけで何度か口に出しながら、アキは漠然と自分に名前を与えた人間の事を考えていた。

 普段なら自分でも文化の話に少しは食いついていただろうに、不意に浮かんだ懐かしい顔が頭から離れない。


「養い親とか?先輩も見かけによらず苦労してるんですね」

「まあ、そんなところだ」

「先輩ってあまり人と慣れ合わなさそうなのにちょっと意外」


 沈黙を破ったのはアキだった。はっとした表情でアキと向き合った環は彼女の質問に少し安堵していた。

 たしかに保護者と言えばそうだ──情けない話、自分のような大の男が手取り足取り子供に教えるような一般常識を叩き込まれていた。

 死者について最初に忘れるのは「声」だという。

 改めてそれを実感させられるようだ。そう言ったのも彼女であった。

名前は勿論のこと、顔や背丈は何となく憶えている。顔すらも忘れかけていた人間を淡く思い描きながら、環は一人想像に耽るアキの姿を眺めていた。

 

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