第3話 初仕事
翌日、職場でアキを出迎えたのは彼女の想像の数倍は若い先輩だった。
企業の制服らしい薄い灰色の制服姿に、ショートカットの黒髪。長身で痩せ型の青年。前髪は眉が隠れる程度の長さ。二十代半ばから三十歳ぐらいだろうか。
殺風景な部屋に置かれたパイプ椅子に腰かけ、備え付けられた長机の上のPCで何か書き物をしている最中であった。
「おはようございます。今日からここで働くことになったアキです。よろしくお願いします」
「…………」
「えっと、すみません」
「ああ、新人の……」
アキを見上げた瞳は何処か伏し目がちだ。この人は初日から新人を無視をするタイプではないと一先ず安心する。これまでに何度かアルバイトを経験したことがあるアキは初日から無視された経験も無いわけではないが、それを受け流して仕事が出来るほどのメンタルは持ち合わせていない。
アキはふと自分の肩越しに青年が自分の背後に視線をやっていることに気が付いた。視線を追うように振り返る背後の壁掛け時計が目に入った。針は始業時間から十五分ほど過ぎた時刻を刻んでいる。
「十五分も経ったから、もう来ないかと思っていた」
「すみません!ここ広くて、かなり迷いました。……似たような通路とか行ったり来たりして。室内なのに似た景色が続くんですよ!会社って何処もこうなんですか?」
「自分は知らない」
「社員さんなのに?或いはバイトリーダーとか」
「自分も同じアルバイトだ」
小さな不安を覚えながら、アキは首からぶら下げた顔写真付きの社員証を手に青年への挨拶を済ませた。本人確認だ何だとうるさくはないタイプらしい。
「自分は環という。適当に呼んでほしい」
「タマキさんかあ。じゃあ、環先輩で」
──突っ込みたいことは山ほど有るけれど。
社員証を入れた透明のケースが黄ばむほどの劣化具合を見るに、アルバイトとしてのキャリアは長そうだ。黄ばんだプラスチック越しに環の一文字と青年の顔写真がうっすらと見える。顔こそ見えないが、スーツ姿で撮った証明写真のようだ。
アキの区ではそれほどではないものの、区によっては漢字を用いた名前が多いと聞く。青年もそういった文化圏の区からここに来たのだろう。区が一つ違うと名前も文化も異なるとアキは試験前だけ真面目に受けていた地理の授業の事を思い出していた。
アキが環を呼ぶと、環も頷きそれに答えた。
「それで、私の仕事は何なんでしょうか。面接では記録のアルバイトってだけで特別なことは何も聞かされてこなかったんです。データ入力とか?」
「そうだな、仕事を教えないとな。まずはパソコン。それとこれ」
「はい」
自己紹介を済ませた後、環はやや怠そうにパイプ椅子から立ち上がると長机の上から紙幣のような紙の束を手渡した。
続けて渡された紙の束は無地の白い紙を丁度紙幣、或いはお札のように切ったような何の変哲もない紙が輪ゴムで束ねられたものだ。アキは束の中に指を差し込んでみると紙の一枚一枚がシール状になっていることに気付いた。
「次にこれを見てほしい。出勤してくるとまずこういうのがいくつか部屋に届く。出勤してから運ばれてくることもある。モノの内容と数はランダムだが、今日は石だ」
「ツルツルした石ですね。それで?」
「モノの材質とか状態をパソコンで記録して送信、終わったらモノにその紙を貼る。記録するのは一人でいい」
「次は?」
「それで終わりだ。いくつかモノがあればそれを繰り返す」
環が指差したのは床に引かれた太く黒い線、とその上に置かれている石。彼が指を差すまで気付かないほどちっぽけな石であった。
アキが黒い線のようだと思ったものはよく見ると床と同化したベルトコンベヤ──空港で手荷物の受け取りを行う時に数度見たものに少し似ている。環の口ぶりから考えるにこれに作業の対象が乗ってくるということらしい。
アキはそっとベルトコンベヤにぽつりと置かれた石に近付く。握り拳より少し小さい程度の大きさで角が無く、白く丸っこい。公園に転がっているような小石とはまるで異なっている。造花を飾る時に敷きつめたりするようなプラスチック製の偽物のようだ。
「確かに簡単ですけど、こんなのであんな時給貰っちゃっていいんですか?それに二人も人要らないでしょ、こんな作業」
「知らん。貰っとけばいいだろう」
「石のことだって黒くて丸っこいぐらいしか書くことないんですけど」
「何を書いたって何も言われない。一回試しにやってみろ」
「内容が薄くて怒られたりしないんですかねえ」
「ここでの生活はそこそこ長い方だが今のところそういうことはないな」
自分の隣で軽々と石を掴み上げる環にアキは一抹の不安を覚える。
学生アルバイトに責任感が無くて迷惑行為が絶えないだとか、昔はよくニュースになっていたけれど……。今は戦争の真っ只中。一学生の不祥事にスポットを当てて議論するほど暇じゃないのかもしれない。
環に促され、彼に紙の束を返すとアキは先ほど環が座ってた席の向かい側の椅子に腰を下ろした。そうして自分に宛がわれたものらしいノートパソコンを立ち上げると既にご丁寧に記録用のソフトが開いている上、既に誰かしらのIDでログインが済んでいる状態であった。
学校でレポートを書く際に使用したワープロソフトによく似ているが、テンプレートが固定が固定されており出来ることは少ないようだ。
アキはそこに石の状態を箇条書きで書き出していく。先輩は何も言ってこないとはいえ、社員が自分宛てに時給を下げるだのクビだのと言ってきたら堪ったものではない。
「記録は終わったか?」
「まあ、何とか。送信していいですね?」
「ああ」
「送信出来ました」
「じゃあ、これを貼るぞ」
次にやってみろと言われた時の為にアキは環が石をどうするのか観察することにした。彼は手に持っていた束から一枚紙を抜き取ると、石に巻き付けるような形でそれを張り付けた。モノからはみ出さないように、とか切ってサイズを調整しろといった細かい指定は無いようである。
話題も無くベルトコンベヤを眺める二人。三十秒も経たないうちに石はベルトコンベヤによって隣の部屋へと搬送されていった。
穴の向こうを覗くも、暗闇が続くだけである。
「こんなところだな。難しい方からやったんだ。仕事をマスターしたも同然だな」
「ええ……なんだかなあ。拍子抜けって言うか。これ一応国の仕事なんですよね?いや、たまに役所のアルバイトなんかも有りますけども」
「ほら次が来たぞ。次は俺が記録行くから、シールもやってみろ」
「はあい」
難しい方?あれで?──今の気持ちを言葉にするなら拍子抜けだとアキは思う。
環と交代するように席を立つと、すれ違いざまに紙の束を渡された。
多分、というか確実に二人も人は要らない仕事であろう。恐らくは一人がモノを確認して、パソコンで作業するもう一人に要点を伝えるというような仕事のスタイルを想定しているのかもしれないが、先ほど自分は環から何も聞かなかった。
コールセンターのアルバイトなんかは電話がほとんど無くたって二人いたりすけども……それは片方が食事やトイレで席を外した時にもう一人が対応に当たる為だ。でもこの作業に関しては接客業、サービス業というわけでもないし……。
アキの中で考えても仕方のないことばかり浮かんでは消えていく
こんなもので高給が振り込まれるのだから怪しむのも無理はない。今のところ死に至る危険性にだって直面していないのだから。
「早速来たな」
「なんだろうこれ。ジュースの缶……空き缶ですよ」
「記録済んだから紙貼っていいぞ」
「先輩はっや……」
アキの前に流れてきたのは空き缶であった。アキの暮らす区で見かけたことはないが、原材料を見る限りでは清涼飲料水の類。恐らくはソーダ。
キャラクターとロゴがプリントされた缶をまじまじと見つめるアキの背中に環が呼びかける。自分の時よりもあまりにも早い記録に驚きつつもアキは缶の側面にシールを張り付ける。
そうして先ほど同様に動き出すベルトコンベヤに運ばれ、部屋の向こう側に消えていく缶をアキは先程よりも近い位置から見送った。部屋の壁まで歩いてベルトコンベヤの出口を覗き込んでも、やはり向こう側は見えない。
それから数時間、アキと環は時々交代しながら作業を行った。
アキは面接の時の「正しい死因以外で命を落とすことがない」という説明を気にして、いつ命の危険にさらされるかと心の隅で考えていたものの杞憂に終わってしまった。良いことではあるが、やはり拍子抜けだとアキは思う。
「今日はこれで終わりみたいだな。これが流れてきたら打ち止めだ」
丁度シール係をしていた環がA4サイズ程度の白い紙がベルトコンベヤに流れてきたのを指差す。無地の白い紙だ。どうやらこれが作業終了の合図らしい。
「達成感とか全っ然ないですね。腰も痛くならない、心も痛まないバイトなんていつぶりだろう」
「まだ若いだろうに色々経験してるんだな」
「まあ、色々と……」
「そうか」
「本当に何なんでしょうね、このアルバイトって。さっきシール係になった時にベルトコンベヤの奥を覗いてみたけど、なあんにも無かったんです。静かだし」
アキは立ち上がると、ベルトコンベヤの傍に立つ環に歩み寄る。
当然ながら何処も疲れていない上に何かを得た感覚もない。残ったのはこれで金をもらっていいんだろうか、という気持ちだけ。
そんなアキを余所に環は口元に手を当てて欠伸をしている最中だ。その脇でアキは身をかがめてベルトコンベヤの出口、或いは入口かもしれないそこに半身を突っ込んだ。
「あまり詮索しない方がいい」
「先輩はここで働いて長いんですよね?部屋の奥とか気にならないんですか?」
「ここに来るような人間にそういうやつはほとんどいない」
無表情、無感情。
アキにとって現状そういった印象が強い環が少し慌てた様子で背後から声をかけた。社員証が黄ばむほどのキャリアがあるだろうに、律儀にそれを守っているのなら大したものだと思う。
「知らなくていいことってあるからな」
「そういうものなんですかねえ」
「少なからず前任者はそう言っていた」
前任者──先輩の先輩。社員かもしれないし、アルバイトかもしれない。前任者から聞いていたというだけなら、彼は当事者ではないのかもしれない。
……待って、それ以前に知らなくていいことって何?
自分を余所にさっさと帰り支度を始める環を前にして、アキの中で疑問が生まれた。今のところ驚きも発見も無いような単純作業の仕事である。他者の交友関係や仕事の裏側を知るというのが当面の娯楽になりそうだ。
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