第六話
明け方、エスカは夢をみた。
『そなたらしからぬではないか』
声が笑っている。懐かしい声が。
『戻って来てくれたの?』
『いや。立ち寄っただけだ』
ぷうっとむくれるエスカ。守護神の前では、エスカはいつも子どもに戻ってしまうのだ。取り繕う仲ではない。
『相手が襲って来るのを待つだけでは、埒があかぬぞ。出産前に片づけろ』
『そうは言ってもさ。親玉だって、せいぜい終身刑でしょ。何度でもやって来ると思うよ。手を変え品を変えしてさ』
『繰り返せない終身刑を考えるんだな』
そこで夢は終わった。ヒントを与えにいらしてくださったのか。エスカは目を擦りながら、今の夢の意味を考えた。
言われてみれば、確かにそうである。これまで、相手が襲ってくるのを待ち、迎え討つだけだったことに。これでは身を守ることにならないのではないか。
襲ってくる者の正体が判明したなら、こちらから仕掛けて潰滅させる。でなければ、いつまでも続くこのいたちごっこ。いずれ子どもたちにも危険が及ぶのは、目に見えている。
出産予定日を一ヶ月後に控え、エスカの身体は思うように動かなくなっている。一日も早く手を打つ方がいい。
今のところ、この家はバレていないハズ。もしバレるとしたら、どういう経緯で? エスカの名は、爆撃事件以来どこにも出ていない。ここは、セダが別名で探してくれた。ネットを使ったはずだから、不動産屋はセダの顔すら知らないだろう。
不動産屋! それだ。エスカがドッグフードを購入しているのを知っているなら『ペット可』の物件を調べるかもしれない。庭の広い家。
『ああ、そういう家は、しばらく前に借り手がつきまして』なんていうことになる可能性は? そこから跡を辿ったら?
ティーカップを持ち、ぼんやり外を眺めていたエスカの目に止まった光景がある。前庭の少し先を道路が走っている。とはいえ、車は殆ど通らない。先に観光地やお役所があるわけではない。
突き当たった山の先には、つづら折りの危険な山道。頑張って辿り着いた終着点には断崖絶壁。上空は飛行が許可されていない。常に乱気流で危険だそうだ。
それなのに、珍しく地上を車が走っている。初めて気づいた。いつからだろうか。気をつけて見ることにしよう。幸い、前の家から出る際に、カメラをリュックに押し込んで来た。役に立つだろう。
その日、例の車は二度、家の前を行き来した。目立たないシルバーの車。運転席にはひとり。中年のイシネス人である。これが今までと違うところである。
その他に二台、往復した車がある。一台は黒で、中年のイシネス人のカップル。イシネス人の観光客がこんな所に? しかも、また中年とは。
何度かエスカは襲われているが、いずれも若いラヴェンナ人かシルデス人だった。三台目にもイシネス人の中年男がふたり。車の色は白。いずれも無難に決めている。
中年のイシネス人。これは何を意味しているのだろう。エスカは、仲間内だけの携帯でセダに連絡した。明日、中間地点にあるスーパーマーケットで落ち合うことにした。
『繰り返せない終身刑』。繰り返せるのは、拘置所や刑務所にいても、通信手段があるからだ。所内で電話や面会が許されているから。甘い。
貴族や巫女には、一般人より待遇がいいのかもしれない。どういう過ごし方をしているのか、調べてもらおう。こちらは命の危険にさらされているのだ。
アスピシアに留守番を頼んで、外に出たエスカは、家の周囲にバリヤーを張った。これでアスピシアは大丈夫。
久しぶりにエアカーで外出する。三台の車のいずれかが、追跡して来るはずだ。開店早々のスーパーマーケットに着く。駐車場には、まだ車はまばらだ。さっと見回すと、農場の車が停車している。
入店して、カートをゆっくり押す。『缶詰売り場を右に曲がった所が、監視カメラの死角になっている』のは、昨日セダに聞いている。
エスカは、ドッグフードやお菓子をカートに入れながら、さり気なく缶詰売り場を目指す。ひとつ向こうの通路を、セダが歩いている。サングラスをしていた。
怖い。セダって、あんなに怖い顔だったっけ? 彫りが深く、造作の大きい顔だ。常に穏やかな表情をしているせいか、エスカは気づかなった。あれで凄まれたら、相手はびびるだろう。
果物売り場でりんごを選ぶふりをしていると、店員がダンボールを運んで来た。見知った顔である。ニルズ曹長は、エスカに気づかない様子で、バナナを並べ始めた。ちらりとこちらを見た目が笑っている。
レトルト食品を眺めている中年の男が目に入る。エスカは、缶詰売り場を右折した。セダがカートを押して来た。お互い、素早く紙のメモを渡す。
「青いチェックのシャツ」
ひと言囁いて、エスカはレジに向かった。セダに貰った紙のメモは、分厚い。紙なら読んだら燃やせば、証拠は残らない。アナログの方が便利なこともあるのだ。
カートを押して駐車場に向かう。トランクを開けて荷物を入れようとすると、近くにいた店員が駆けつけた。
「入れましょう」
見ると、ニルズ曹長の相棒マローン伍長である。伍長は、カートも受け取ってくれた。
「ありがとう」
何人警官が来ているのだろう。客の中にもいるかもしれない。セダがマーカスに連絡してくれたと思われる。爆破事件の際、通報せずに様子を見ていたら、
駐車場を見回すと、少し離れた所に、青シャツのシルバーが駐車している。エスカの車の隣に、いつ来たのか黒い車が停まっている。
「あの黒」
エスカは伍長に目で知らせた。伍長は頷くと、さり気なくカートを押してその場を離れる。黒い車から中年の女が降りた。運転席には男。女はさり気なくエスカに近づいて来た。手には小型のナイフ。
脅して車に乗せ、素早く走り去る計画か。素人である。エスカは何も気づかないふりをして、車のドアを開ける様子を見せた。
女が隣に並ぼうとした時。エスカは、薄手のコートのポケットに手を入れた。鳴り響く防犯ブザーの音。女が失敗を悟って逃げ出そうとした瞬間、エスカは足を引っ掛けた。女は勢いよく転倒した。
近くにいた伍長が走って来る。地面にうつ伏せに倒れた女の腕を、背中に回して手錠をかけた。非情にも女を見捨てて逃走しようとした車の前に、ニルズ曹長が銃を構えて待っていた。
青シャツがシルバーの車に走り寄ろうとしたのを止めたのは、マーカスだった。どこにいたんだ? エスカは笑顔で頷くと、車に乗った。大成功と言えるだろう。残るはあとふたり。
帰宅して、セダのメモを開く。レポート用紙に何枚もの手書きの文字。大変だっただろうな。それにしても、セダは達筆である。
エスカのメモは、リール侯爵と第二巫女の近況を知らせて欲しいということ。彼らの通信手段を断って欲しいということの二点。それと五人の男女の件である。
セダのメモを読む。
『まず、爆破事件の件。リーダーがあっさり吐いた。犬はカムフラージュではなく愛犬だと悟った署長が、わざと大声で怒鳴ったそうだ。
〈さっさと保健所に連れて行け!〉とな。それで、だんまりを決め込んでいたリーダーの顔色が変わった。〈犬だけは勘弁してくれ。何でも話すから〉というわけだ。
牧羊犬だった犬が、年取って働けなくなったんで、保健所に連れて行かれた。ボランティア団体が引き出したところを、彼が引き取ったそうだ。
一生懸命働いてきたんだから、ゆったり過ごせる所を探して欲しいと言う。それで今、ウチの農場には犬がいる。ボーダーコリー系の雑種でな。のんびり寝てるよ』
「わぁ、わんこがいるんだって。お友だちになれるといいね、アスピシア」
エスカは、アスピシアを抱きしめて頬ずりをした。
『そいつが言うには、最初の契約ではエスカを拉致せよと言うことだった。シルデス人の男から詳細を聞いたそうだ。もちろん、そのシルデス人が中継ぎにすぎないのは明白だった。
他のふたりとは、仕事をする際に初めて会ったという。三人は名乗りあったが、お互い偽名なのは承知の上だ。
毎日、そのシルデス人に報告していたそうだ。ターゲットの若い女が、妊娠しているらしいと知らせた途端、契約内容が拉致から殺害に変わった。
三人はびびり、辞退しようとしたが、前金を返せと言われて、やむなく実行することにした。
一緒に暮らしている男には、危害を加えないことで一致。女はなるべく苦しませないよう一発で殺そうと、爆弾投下を選んだと』
エスカはコケた。爆殺なんて、最も残酷な殺し方だと思っていたのだ。そういう考え方もあるのか。アルトスに手を出さないでいてくれたのはありがたかったが。
『シルデス人は、連絡先を割り出されて、早期逮捕と相成った。そいつからイシネスのリール侯爵の名が出たそうだ。
今回ばかりはイシネスに連絡しないわけにはいかない。ウリ・ジオンを通じてディル・ミューレン中尉に連絡した。これを聞いたヴァルス公爵が激怒。
唐辛子事件で自宅謹慎処分を受けていたリール侯爵は、即逮捕、拘置所に送られた。異例の速さで裁判が結審し、現在刑務所にいる。仮釈放なしの終身刑だそうだ。
王位継承権第一位のエスカを殺害しようとしたのだ。結審を送らせる理由はない。
ディルによれば、公爵とエスカが王位につくのを固辞したので、侯爵は次は自分が呼ばれると思っていた。だが期待に反して、さっぱり声がかからない。そこで一計を案じた。
侯爵には、エスカより何才か若いひとり息子がいる。その息子とエスカを結婚させようとしたらしい。まだ若いふたりの後ろ盾となって、権勢をふるう。夢が叶うではないか』
「おええ〜」
思わずエスカはのけ反った。そんなことまで考えるなんて、ヒマ人だな~。
『ところが、エスカ妊娠の知らせに侯爵は激怒。エスカかその子が王位を継ぐ可能性もある。そこで、契約内容変更となったのさ。
ヴァルス公爵とディルが、エスカの相手を気にしているぞ。どうする?』
そこで、メモと言うには長い手紙は終わっている。どうするって、エスカはシングルマザーになるつもりだから、相手はいないのだ。ということで逃げ切る。
男ふたりはまだ逃げ回っている。こればかりは、相手の出方を待つしかない。慣れない土地での潜伏には、限界があるだろう。近いうちに動きがあるのではないか。
週に一度ドローンで届く宅配便に、手紙が入っていた。セダの字である。達筆な上に筆まめだ。
『第二巫女の件。今回の黒幕だったよ。リール公爵を丸め込んだのさ。終身刑の判決を受けて、現在服役中。刑務所内にも、女神殿の信者は多い。崇め奉られて、まるで牢名主だという。
気をよくした第二巫女は、毎日のように布教活動をした。集会は禁じられているため、井戸端会議のように、二、三人くらいの規模で説教をしていたそうだ。
話の内容を聞きつけた刑務官が、所長に報告。所長は活動の中止を命じたそうだ。第二巫女は怯むどころか“言論の自由”を盾に、論陣を張った。
ところがその所長は法科の出でな。〈誹謗中傷は言論の自由に当たらず〉と言って一蹴した。結果、独居房に移され、厳重な監視下に置かれているよ。
つまり〈諸悪の根源はエスカである。育てて貰った恩を忘れて女神殿を破壊した。エスカ存命中は、女神殿の未来はない〉とさ。
侯爵も第二巫女も、動きがとれなくなった。だが困ったことに、第二巫女の崇拝者が刑務所の中にも外にもいる。恩赦嘆願の署名運動やデモまで始まった。
高位の巫女だから、貴族院の裁判扱いだったのが災いしたようだ。一般人は、真実を知らない者が多いと聞く。困り果てた貴族院は、普段は犬猿の仲のプレスを利用することにした。内容はこうだ。
〈ラヴェンナの王子毒殺を指示した罪。それを揉み消すために、シルデス人の罪のない女性の殺害を指示した罪。
エスカを憎むのは、王子毒殺を未然に防いだからだ。女神殿と主神殿が破壊されたのは、神罰が降ったのである。
これに関わったふたりのシルデス人は、ラヴェンナに引き渡され、既に処刑されている。ラヴェンナからは、第二巫女を引き渡せと連日のように催促が来ている状態である。
当局としては、自国民を守るべく奮励努力している。それにしても、他国の王子を毒殺しようと企んだ主犯を釈放せよとは。もはや狂信者と言ってもいいのではないか。。
シルデスからも、国民を殺害した主犯を引き渡せと矢の催促。第一巫女との共犯という説もあるが、第一巫女は寝たきりの老女。認知症を患っていて、もはや昏睡状態に近い。
これ以上、狂信者たちが根も葉もない誹謗中傷を続け、罪人を庇うがごとき言動をするなら、当局は第二巫女をラヴェンナに送還する可能性がある。そうなれば、第二巫女の極刑は間違いないだろう〉
とまあ、こんなところだ。残るふたりの男が逮捕されれば、エスカは完全に解放されるよ。
これはディルからウリ・ジオンが聞いた話だが。第二巫女の説教を聞いた者すべてが信じたわけではない。看守が女囚たちのひそひそ話を耳にしたそうだ。
〈あのエスカが悪い子だなんて、信じられないよ。わたし一時的にシェルターにいたんだけど。熱を出した時に、手厚く看病してもらったよ〉
〈知り合いの子どもが怪我した時、徹夜で診てくれたって〉
〈友達が出産した時、赤子を取り上げてくれたそうだよ。まだ十四、五だったって話だけど。巫女さんたちは、見てただけだったって〉
さらに看守の話。
〈お袋が信心深くて、熱心に女神殿の礼拝に通ってたんだ。でも、裏でいつも働いているエスカを見て、あれだけは納得できないと言っていた。なんで子どもを働かせるんだとな〉
だからエスカ。みんながみんな、敵じゃないぞ。第二巫女が調子に乗って、今の大巫女の悪口を言って、信者たちの心象を害したらしい。
出産もうじきだな。頑張れ』
読み終えて、エスカは考えこんだ。ようやく腑に落ちた。全員がイシネス人。他国人に女神殿の信者はいない。布教していないからだ。
今どきの若者は、無神論者が多い。高齢者は、海を渡る体力がない。だから中年なのだ。そして素人。
直接、刑務所内で説教を聞いた者もいるだろう。囚人に面会に行って、間接的に聞いて信じこんだ者もいる。男たちはそうだ。女子刑務所なのだから。
さすが第二巫女。考えたな。殺害を示唆などしていない。自分は心情を話しただけである。明らかな物的証拠がおありか?
説教を聞いて、何らかの行動を起こす者がいたとしても、それはその者の意志である。自分に責任は一切ない。
親しみやすい、ごく普通の容貌。柔らかな語り口。気軽に誰とでも話せる普通のおばさん。確かに女神殿時代、第二巫女に救われた人が多いのを、エスカは知っている。
だが気にいらない相手だと、針を真綿でくるんで説教をする。女神殿から帰った数日後に自殺した女性がひとりではないことも、エスカは知っているのだ。だが何の証拠もない。
まさに『神の手』の出番だが、今のエスカにはどうにもならない。それに、ふたりの男を逮捕しても、後続部隊が来ないとは限らない。信者たちの前で、第二巫女の信頼を地に落とさなくてはならない。
女囚と看守の話には慰められた。見てくれている人はいるって、本当だな。元気が出た。
こんなになる前に、エスカが直接手を打っておけばよかったのではないかと思う。国王をふたり殺した罪に怯えるより、正当防衛で第二巫女を倒してもよかったのではないか。現に、子どもの命まで危険に晒されているのだ。
数日後の朝、ニュースを見たエスカは仰天した。イシネスからの臨時ニュースである。
『昨日の午後、イシネスの二箇所の刑務所で、同時に事故が起きました。落雷です。
男子刑務所の独居房の囚人が、運動で外に出たところ、まるで狙ったかのようにその囚人に雷が落ちた模様です。氏名は、まだ公表されておりません。生死も不明です。
もう一件は、女子刑務所で起きました。やはり運動のため、外に出たところでした。こちらの氏名と生死も公表されておりません。
国内どこの刑務所でも、独居房の囚人には、一日一時間の運動が許されています。たまたま落雷したのか。雷に見せかけて、事故を装ったのか。或いは神罰が下ったのか。真相解明が待たれるところです』
ワイドショーが喜びそうだな。被害者は、リール侯爵と第二巫女だろう。両名死亡しているはず。
問題は、誰がやったかだ。守護神は、現在誰に付いている? その時、携帯に着信があった。セダである。
「ニュース見たか? あれは雷刃か?」
「雷刃だろうね。実際見ていないから、断言できないけど」
「お前、関わっていないだろうな?」
出ました。アルトスである。怒ってはいけない。穏やかに和やかに。スピーカーにして、みんなで聞いているようだ。
「あのね。守護神が僕から離れていったのは、知ってるよね? だから僕が指図するなんてことはあり得ない。それに雷刃と言っても、同じ雷刃とは限らないんだよ。他の守護神の眷族かもしれないしね」
「そういうものか。で、ディルから報告があったんだが」
ウリ・ジオンである。
「プレスにはまだ伏せている。ある程度詳細が判明してから、流すそうだ。
被害者はリール侯爵と第二巫女。リール侯爵は心臓を直撃されて即死。第二巫女に至っては、全身が燃え上がった。まるで人間蝋燭だったと。これが、囚人たちの目の前だったと言うから、えらい騒ぎになった。
看守たちがいくら水をかけても、火の勢いは止まらなかったそうだ。すべて燃え尽くしてから、やっと消えたと。
その際に、携帯で動画を撮っていた囚人がいた。元より、刑務所内での撮影は禁じられている。第二巫女さまのありがたいお説教を、外部に送ろうとしていたようだ。
第二巫女に火が点いたのを見て腰を抜かし、携帯を放り出したことで発覚。ただちに出入り口を封鎖して、囚人たちの身体検査を行なった。他に数名、携帯を持ち込んでいた者がいた。その者たちは刑期が延びるだろうね。
その時の動画をディルが入手し、送ってくれたよ。今送るから、見てくれ」
すぐに来た。エスカはしばし眺めて考えこんだ。
「確かに雷刃だね。でも刃が写っていないから、どなたの眷族なのかはわからないなぁ。刃に特徴があるんだけどね」
大嘘もここに極まれり。
「事態の収拾がつくまで、女子刑務所では面会禁止、通信も一切禁止になった。デマを飛ばされては、暴動も起きかねない事態だ。貴族院は緊急招集。女神殿では外出禁止。前代未聞の出来事だからね。
ただ、あの雷の正体については、誰も知らない。神罰だったのではないか。目撃した者全員が、そう感じたと言っている」
「続報で何か言うんじゃないかな。雷の正体は、永久に判らないだろうね。この件に関して、これ以上僕が言えることはないよ」
「わかった。体調はどう?」
「元気元気。何の問題もなし」
通話を終えた直後、エスカの身体に異変が起こった。出血? 出産が近いのか。まだ三週間あるのに。それでエスカは覚った。
なぜ、出産にヘンリエッタの姿がないのか。何らかの事情で、ヘンリエッタが遅れるのだとばかり予想していた。そうではない。エスカの出産が早まったのだ。今のニュースが引き金か? どのみち、ひとりで出産する覚悟も準備もできている。
初産だから、時間がかかるはず。自分のことながら、エスカにはおおよその見当はついた。日付が変わってから、夜明けまでの間。まだ時間はある。しっかり食べて、体力をつけておこう。
昼のニュースで、続報が流れた。内容は既に知っていることだったが、珍しいことに、新大巫女マーナへのインタビューがあった。
子どもの頃受けた印象そのままに、知的で気品のある美貌。カリスマ性も充分にある。
『神罰が降ったのだと思われますか?』
記者の質問に、マーナは僅かに頷いて見せた。
『なぜそのようにお考えなのでしょうか? 第二巫女さまは、ご立派なお方と聞き及んでおりますが』
と、記者。
『善人にあのような神罰が降ることはございません。人間の見る〈立派〉と、神がご覧になる〈立派〉とは異なるものです』
さすがマーナさま。第二巫女の口車に乗せられて、誹謗中傷をした者たちは、今ごろ戦々恐々としていることだろう。次は自分の番かと思って。
そうか。ただ撃退するのではなく、懲りさせればいいのだ。二度とエスカには近づくまいと。
それにしても、マーナは表情が動かないことに、エスカは気づいた。女神殿の巫女たちは皆そうだった。『感情を表すのは、人間として未熟だからである』などと言われて躾けられてきた。
それがシルデスに来たらどうだ。怒るわ、泣くわ、笑うわ。怒るのはまずいと思うが、泣いたり笑ったりはいいのではないか。そんなふうに考えるのは、アルトスの影響か?
不意に、アスピシアが身動きした。エスカも気づいた。待ちわびた気配である。
『誰の命令でやったの?』
『独断だ。だからそなたは何も考えずとよい』
背後にいる気配が答える。
『お袋さまに言われてな。そなたは、予想に反して幼くかつ不安定だから、時々様子を見ろと。で、立ち寄ってみたら、命の危険に晒されているではないか。それで手を打ったのだよ』
確かに、エスカは第二巫女が何をしようと、直接手を降すことはできなかっただろう。一応、育ての親のひとりなのだから。
リール侯爵なら容赦なくやったかも。思いつかなかっただけだ。この際、礼を言うべきだろうか。
『仲良くしているようだな』
アスピシアが、得意そうにエスカに擦り寄った。エスカが強く抱き締める。
『夜更けから明け方まで、お産の守護神がいてくださる。すべてそなたがやることに変わりはないが、見守ってくださる。気を安らかに保て』
想定外の配慮に、エスカは胸が詰まった。
『ありがとうございます』
頭を垂れる。
『頑張れ』
そこで気配は消えた。エスカの心は、感謝で満たされた。
深夜、強まってきた陣痛に耐えていると、外に不穏な動きを感じた。灯りを消し、カーテンの隙間から覗いて見る。ふたり分の影がこちらに向かっている。手には猟銃。
通りにエアカーを停めっ放しなのは、仕事が終わり次第逃走するためだろう。街灯はないし、家の中はカーテンを閉めていて真っ暗。誰にも見えないはずだ。
「アスピシア、伏せ」
興奮しているアスピシアを落ち着かせる。ニュースを見ただろうに、それでも襲撃するのか。初志貫徹か、弔い合戦か。何れにせよ、これで終わりにしよう。
エスカは、カーテンの隙間から右手の人差し指を突き出した。と、庭先に入り込んだふたりの男たちの眼前に、突如として黒雲が湧いた。『闇雲』。地表からもくもくと、黒雲は地を這い横に拡がり上空に昇り、厚みを増していく。
黒雲が男たちの身体を取り囲み、押し潰さんばかりになった時、ふたりは絶叫した。世にも怖ろしい叫び声だった。ふたりは転がるように庭から走り出ると、エアカーに乗り込んだ。しばしもたもたした後で、エアカーは猛然と走り出した。
「おやおや。運がよければ、スピード違反。悪ければ事故か。ま、頑張りな」
その先は考えないことにした。亡き大巫女さまがおっしゃっていたではないか。『モノを投げたら、落ちる先は見るな』と。
義憤に駆られたにせよ、人ひとりの命を奪おうとしたのだ。清廉潔白とは言えまい。あの黒雲は、心に傷を残す。二度とエスカに関わろうとはしないだろう。
動いたせいか、陣痛の間隔が短くなってきた。間もなく日付が変わる。エスカはベッドに戻った。
「アスピシア、僕は大丈夫だから。見守っていてね」
アスピシアは、エスカに頬ずりをして励ました。さぁ、いよいよ正念場だ。
「お願いします」
空中に言葉をかける。それから、自身の腹部に明るく元気よく語りかけた。
「一緒に頑張ろうね!」
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