第四話
仕事としては、二手に分かれることになるだろう。まずは、エスカとアルトスが会長宅に行く。ウリ・ジオンとアダはスーツ着用の上、ホテルで連絡待ち。
それぞれの部屋で数時間眠り、一緒にルームサービスの朝食を摂った。タンツ商会の関係者がよく利用するため、ホテル側も慣れたものである。尤も、このホテルもオーナーはタンツ商会である。
八時半きっかりに、エアカーの到着を知らせる電話が鳴った。エスカは、ホテルの廊下を歩きながら、アルトスに釘を差した。
「オッタヴィアといちゃつくなよ。そういう場じゃないから」
アルトスはむっとした顔を見せたが、頷いた。前科がある以上、何も言えない。
「それに、ここでは師匠と弟子だよ」
アルトスは、くすくす笑った。無礼者め。
高級車が、エントランス前で待機していた。エスカは、自分の車を買うまで、車という物に関心がなかった。『移動に便利』程度の認識だった。
それが今では、高級車を見て胸が高まった。制服姿の運転手が、後部座席のドアを開ける。運転席の後ろである。アルトスに丁寧な礼をした。アルトスは自然に乗り込んだ。
エスカは自分でドアを開けて、アルトスの隣に座る。いつものことである。
距離が近いため、車は舞い上がることなく、地上を走り出した。なんとスムーズな動き。値段が違うだけのことはある。これは、自分には分不相応だということも分かった。
不意に、隣のアルトスが身じろぎした。落ち着かない様子である。
「どうかした?」
アルトスは、無言で首を振る。理由は、降車するときにわかった。広大な敷地に建つタンツ邸。その車寄せに着いた時、運転手が降りる前に、アルトスは自力で降りた。
エスカの席の横に立ち、ドアを開けて恭しく礼をした。見ると、目が笑っている。この野郎。
誰が見ても、アルトスが上司だと思うのは無理もない。運転手が、自身のミスに気づいて青ざめたのを、エスカは見た。
玄関前に、オッタヴィアが立っていた。目の下に隈ができている。眠れていないのだろう。それでもアルトスを見て、笑顔が出た。
「来てくれてありがとう、アルトス。見習いシャーマンって、エスカのことだったのね」
そうくると思った。だからエスカは、予めアルトスに釘を差したのだ。オッタヴィアは人質事件の際に、アルトスが何かしたのを見ている。本物のシャーマンだと思ったことだろう。
だが治療の際は、エスカの指示に従ってもらわねば困る。ましてや、いちゃつかれでもしたら気が散って、仕事に支障を来たす。このお気楽なお嬢さんは、室外に出ていてもらう方がいいな。
アルトスは、嬉しそうにオッタヴィアと会話している。
「いや、シャーマンはエスカだよ。見習いは俺」
「え〜嘘!」
ふたりは笑い合う。エスカは、そのまま何もかも放り出して帰りたくなった。ふざけているとしか見えない。人質事件の再現である。見ればメイドがひとり、頭を下げたまま玄関前で待機している。
「会長のお部屋に行きたいのですが」
メイドは、ほっとした様子で先導してくれた。慌ててアルトスがついてくる。広い玄関ホール。幅が広く、ゆったりした階段。会長の部屋は、二階にあった。
「お見えになりました」
メイドがドアを開けてくれた。エスカはすっと室内に入ると、背後を振り向いた。
「遊ぶなら外でやれ」
アルトスの目の前でドアを閉める。呆然としたアルトスの顔。何しに来たと思ってるんだ。連れて来るんじゃなかった。今さら術を教える必要などなかったのに。
広い部屋に大型の天蓋付きのベッド。枕元のヴィットリアが立ち上がった。以前モリスの店で会った時とは面変りしている。心労のほどが窺われた。無言で頭を下げる。
エスカは、バスルームで丁寧に手を洗った。タンツ氏は目を開けていた。呼吸が荒い。
「如何ですか」
エスカは話しかけながら、タンツ氏の額に手を当てた。ゾーイとは体格も病の重さも違う。治療には、相当の覚悟がいる。
「洗面器に氷入りの水、それと乾いたタオルをお願いします」
ヴィットリアは頷くと出て行った。入れ違いに、すっとアルトスが入って来た。懲りないヤツ。
「熱の元を探しますね」
タンツ氏の目は弱々しいが、僅かな笑みが含まれている。エスカは、パジャマのボタンを外していった。浅黒い肌。分厚い胸。
「僕の手は冷たいので、ごめんなさい」
手のひらで、タンツ氏の喉から胸、腹部とゆっくり撫でるように触れていく。アルトスが見つめているのが、気配で分かる。そう。まずはこれから始めるんだよ。
一周して、エスカの手が胸に戻って来た。慎重に撫で回す。
「ここだな」
呟くと、右手のひら全体を胸に押しつける。アルトスが椅子を持って来てくれた。エスカは椅子に座り、神経を手のひらに集中させる。
ヴィットリアが洗面器を持って入って来た。小さなテーブルに置く。
タンツ氏の胸に触れているエスカの手の先から腕に、赤みが上っていく。アルトスは、タンツ氏の胸とエスカの手の接着面を凝視。ヴィットリアは、エスカの腕が赤くなり、額に汗が浮いてきたのを見て、驚愕しているようだ。
やがてエスカは、治療する手を左手に換えた。アルトスと目を合わせ、さらに洗面器に視線を移す。理解したアルトスは、小さなテーブルごとベッドサイドに運んで来た。
エスカは、赤くなった右手を洗面器に入れた。ヴィットリアが納得して頷いた。氷水は、タンツ氏を冷やすためだと思っていたらしい。
「助かるよ。早く治さないと、代わりがいないのでね」
タンツ氏は、弱々しいがはっきりと話した。
「代わりはいますよ。商会近くのホテルで待機中です。補佐は、アダが務めます」
エスカは、チャンスを逃さなかった。タンツ氏の目に希望の光が浮かんだのを見た。タンツ氏はヴィットリアに視線を移す。
「では、秘書のミズ・コッタンに連絡……」
「はい!」
ヴィットリアが決然と立ち上がり、出て行った。これで、ここに来た目的のひとつは果たした。 アルトスが微笑む。
エスカの左腕にも、赤みが上っていく。アルトスは、ドアの外で待機しているメイドに洗面器のお代わりを頼んだ。
エスカの額から汗が滴り落ちるのを見て、アルトスがタオルで拭いてくれた。右手からは既に赤みが抜けている。アルトスはテーブルの位置を左側に変えた。
濡れた右手を拭いていると、メイドが新しい洗面器を持って来た。氷のなくなった洗面器を持って出て行く。
『またお代わりですね?』と、アルトスと無言で合図をし合う。気のつくメイドである。
タンツ氏は、いつの間にか眠っていた。熱を引き受けたエスカの左腕には、例の傷がある。ずきずきと痛みが来た。が、これも想定内だ。
指示を終えたヴィットリアが戻って来た。結局、三回これを繰り返し、エスカは治療を一旦終えた。全身汗びっしょりである。
「奥さまも、この機会にお休みになってください。次は午後三時に伺いたいのですが」
「今日、またいらしていただけますの?」
ヴィットリアの目に、涙が浮かんだ。
「熱が下がるまで、何日か通わせていただきます」
「わたくし、あのような失礼なことをいたしましたのに」
「なんのことかな」
エスカは軽く笑って、部屋を出ようとしてよろめいた。素早くアルトスが支えると、さっとお姫様だっこをする。
「ひとりで歩けるよっ!」
腕の中でじたばたするエスカを抱いて、アルトスは帰路に着いた。
シャワーを浴び、着替えてアルトスとランチを摂る。エスカは疲労困憊である。
「大丈夫か? 午後の治療は無理じゃないか?」
「これから少し眠るよ。それでアルトスにお願い。霊力を分けて欲しい」
「俺で役に立つなら、なんでもするぞ。どうすればいいんだ?」
「僕の腕に触れる。触れたところに意識を集中する。してもらったことないけど、それで上手くいくはずだよ。その時は合図するから」
「任せろ!」
大切な仕事を頼まれて、アルトスは張り切った。アダから電話が来た。
「そっちはどうだ? こちらは大忙し。ホテルに帰るのは遅くなるし、朝は早いから別行動だな。
ここ数日分の仕事が溜まっていてな。まだ目途が立たない。秘書のミズ・コッタンが優秀で助かってるよ。お嬢さんも手伝ってくれている」
スピーカーにして、アルトスと一緒に聞いた。オッタヴィアが姿を見せなくなったのは、そういうわけか。エスカは内心ほっとした。
「こちらも数日はかかりそうなんだ」
「お互い頑張ろうな」
「来てよかったよ」
ウリ・ジオンの声。うん。よかった。アルトスは、にこにこと聞いていた。
三日目になって、タンツ氏の熱はやっと下がり始めた。食欲も出て来た。正比例して、ヴィットリアの顔色もよくなってきている。
アルトスに霊力をチャージしてもらって、エスカにもゆとりが出てきた。体力がある分、アルトスの霊力は底なしである。貴重な人材だ。
四日目の朝。エスカは治療を終えた。
「おふたりにお話があります」
タンツ夫妻の表情は明るい。エスカは言いづらくなった。だが言わねばならない。
「肺に何かあります」
ふたりの顔色が変わった。
「この位置です」
エスカは、タンツ氏の胸を指差した。タンツ夫妻がそれぞれ触れて、位置を確かめる。
「まだ小さいし、転移もしていません。すぐに手術すれば、元通りの健康体になりますよ。毎年の健康診断は、受けていらっしゃいますか?」
口籠るタンツ氏。ヴィットリアが鬼の形相になった。
「あなた、受けているっておっしゃってたじゃないの!」
「それが、忙しくてな」
「必ず受けてくださいね。手術の後も検診があるはずです。奥さまが付き添われるといいかと思いますが」
あのタンツ氏が小さくなっている。エスカとアルトスは、笑いを堪えた。
「では、これで引き上げさせていただきます」
「まさか、今日ラドレイに帰るのかね?」
「はい。お世話になりました」
「ヘリで送らせるよ。本当にありがとう」
ヴィットリアが美しいお辞儀をした。
帰りのヘリで、エスカはうつらうつらしていた。想像以上に、体力と霊力を使った。お腹の子に負担をかけまいと、神経も使った。アルトスがいてくれて、本当によかった。
「アルトス。ありがとう」
アルトスは嬉しそうに笑った。
「こちらこそだよ。治療の心構えというものを見せてもらった。あんなに身を削ってやるものだとは知らなかった。俺が軽い気持ちでいたことに、腹が立つのは当然だよ。申しわけなかった」
頭を下げたアルトスに、エスカは驚いた。アルトスが詫びるとは。
「もういいよ。それより真似しないでね」
「え?」
「じっとしてやることだから、戦闘より楽だと思ったでしょ? でもエネルギーは倍使うんだよ。戦闘は、こちらから攻撃するだけ。治療は、防ぎながらやるから」
「防ぎながらって?」
「油断すると、術者に返って来るんだ。倍返しでね。熱やら病巣やら」
アルトスは息を飲んだ。
「半端な状況でやることじゃないんだよ」
「分かった」
「それとね。僕、シボレスに行く何日か前に、お腹の子を起こしちゃったんだ」
「なに! 無事か?」
「なんとかね。うちに帰ったら、寝て暮らすさ。でね。子どものこと、タンツ夫妻には絶対に内緒にしてね。奪いに来るから」
「なぜだ?」
「直系の、ただひとりの孫になる可能性があるからだよ」
アルトスは絶句した。
「僕の頭にね、話しかける声が聞こえるんだ。『その子は、そなたが育てなさい』ってね」
「……葬式に来てくださったお方か?」
「たぶんね」
エスカはそのまま眠りに入った。
ラドレイのヘリポートで、エスカのエアカーに乗り換える。アルトスが喜々として運転席に座った。既に陽は落ちかかっている街中で、アルトスは車を停めた。
「夕飯、買ってきてくれ」
「え、ならホロの店でみんなの分……」
「ふたり分だよ。今夜はお前の家に泊まる」
しまった。このシボレス行きの何処かで、アルトスが狙って来ることは予想していた。だが想定外の治療の重さに、エスカはすっかり失念していた。
「だ、だったら、アルトスが好きな物買ってくれば?」
「そしたらお前、逃げるだろ」
愉快そうに笑っているのがツラ憎い。
「ほら、そこの店のフィッシュアンドチップス。お前好きだろ」
アルトスが一番好きなんじゃないか。ブーたれながら、エスカは車を降りた。どうしよう。どうやってこの難局を乗り越えるか。
その時、エスカの脳裡に何者かの声が響いた。
『……だ』
え?
『そ……だ』
聞き取れない。もどかしい思いで買い物を済ませた。むすっとして戻って来たエスカに、アルトスの口調は軽い。
「深刻に考えるなって。治療なんだからさ。今さら『心の準備が』とか言うなよ」
「で、でも、僕まだ体調が」
アルトスは笑い飛ばした。
「ランチばくばく食ってたくせに」
体力を取り戻すために、頑張って食べたのだ。『治療』か。そんなもの必要ない。さて、どうやって誤魔化そうか。
翌朝、エスカがスープを作っていると、アルトスが小首を傾げながら、二階の寝室から降りて来た。
「おはよう。寝違えたの?」
エスカは久しぶりに自宅でぐっすり眠ったせいか、爽やかな笑顔である。アルトスは、エスカを凝視した。
「お前、俺に何かしたか?」
以外に敏感だね。
「したけど?」
嘘はつかないことにした。
「催眠術か、記憶を消すとかか?」
「両方だよ」
アルトスは足がもつれて、ソファに倒れこんだ。頭を抱える。
「治療がそんなに嫌だったのか」
「そう。治療がね」
アルトスは、言葉の選択を誤ったことを知った。
「治療が……では治療でなければ?」
「オーケーだったと思う」
「俺が見栄はって嘘ついたと?」
「違うの?」
「違わない。俺、エスカが受け入れてくれないと思ったから。それで、治療だと言って、その。一生の思い出にしようと思ったんだ」
「なんで僕が受け入れないと思ったのさ?」
「お前、ウリ・ジオンを愛してるじゃないか。俺のことは、好きというより嫌いに近いだろ」
はあぁ? そんなふうに感じていたのか。そりゃあ、しょっちゅう衝突してたもんな。
「あの、それで、どうなったんだ? 一緒にフィッシュアンドチップス食べた後の記憶がさっぱり」
エスカは笑い出した。もう少し苛めてやるか。
「さあね。時間が経てば思い出すかも。いい子にしてたら記憶を戻してあげてもいいよ。完全に消したんじゃなくて、一時預かりだから」
「なんだソレ」
アルトスはきょとんとしている。
「朝ご飯食べたら、農場に行こう。アスピシアを迎えに行かなくちゃ」
農場に向かう時も、アルトスが運転した。よほどこの車が気にいったらしい。
農場に着いて、エスカがエアカーを降りた途端、何ものかに押し倒された。
「お、重い! くすぐったい〜!」
アスピシアである。アスピシアは、全身でエスカにしがみつき、銀色の体を押し付けた。
「そいつ、何も食わなかったんだぜ」
声の主は、魔女号のクルーだった。
「なんだって、アスピシア!」
エスカは、起き上がって、アスピシアの顔を両手で挟んだ。アスピシアは、エスカの顔に頬ずりする。
「俺たち、手伝いに来てたんだ」
もうひとり、見知った顔が現れる。
「火だるまのエスカか?」
三番目の男は、新顔である。
「こいつ、社食のコックな」
なるほど。役に立つメンバーが揃っている。奥からセダとサイムスが出て来た。
「やっと帰ったか」
「聞いてくれよ。アスピシアったら、絶食しててさ。誰にも懐かなくなったんだ」
「犬でそういうコがいるのは聞いていたが、狐もそうか」
「狐もイヌ科だからな」
男たちは口々に、エスカが留守中のアスピシアの態度を愚痴った。エスカは立ち上がって、深々と礼をした。
「お世話かけました。本当にありがとう。さ、アスピシア。お家でゆっくりご飯にしよう」
「え、もう帰るのか?」
アルトスが、アスピシアのベッドを運んで来た。そこにシェトゥーニャが遠慮がちに姿を見せる。
「シェトゥーニャ、帰ってたの? あのね、アルトスが役に立ってくれたんだよ」
アルトスは、得意満面である。
「アルトス。シェトゥーニャに霊力チャージ教えてあげてね」
「おう! あれなら完璧にマスターしたぞ」
「エスカ。あたし、あんなこと言ったのに」
「ん? 覚えられるものは、何でも覚えてね」
「で、会長の具合はどうだったんだ?」
セダは、気になるようだ。
「重かったから、手こずったけどね。なんとか間に合った。手術すれば治るよ。あ、これまだ内緒ね。病院にプレスが押し寄せると困るでしょ」
「そうか。お疲れだったな。あとのふたりはいつ帰る?」
「会長が退院するまで、いるんじゃないかな。まだ先の話だ。俺もまた農場手伝うから」
いい子アピールのアルトス。近いうちに、記憶を戻してあげるとするか。
帰宅したエスカは、早速アスピシアに食事を与えた。お尻をどっかりと下ろし、落ちついて食べるアスピシアを見て、エスカは詫びた。
「ごめんよアスピシア。つらい思いさせたね」
アスピシアの健気な気持ちを思うと、涙が出た。
エスカは、体調のすぐれない日が続いた。子どもを眠らせた時点では、まだつわりの途中だったのだ。幸い、今はまだ夏休み。次は新学期だが、休学届けを出してある。
アスピシアと静かに過ごし、温室で無理のない程度に働く。天国にいるような気分である。
明日から新学期という日の夕刻、突然アルトスとサイムスが来た。驚いたことに、車で運んできた荷物を家の中に運びこむではないか。
「何やってんの、ふたりとも」
「ここから大学に通うって言ったじゃないか」
「あ、アルトスだけだからな。俺はこれまで通り、農場から通うから」
ふたりとも当然のように階段を上がる。
「ここだな」
主寝室の隣は、一応客用寝室としてそれなりの家具が置いてある。セミダブルのベッド、ライティングデスク、ソファ。
「この家の家具って、ひょっとしてエヴリンが選んだのか?」
「アダが手配してくれたからね。選んだのはエヴリンでしょ。趣味がいいよね」
平凡でなく、かと言って奇をてらうでもない。色といい形といい、まさにこの家にジャストフィットである。
「僕、すごく気にいってるんだ。僕の家って思えるんだよ」
サイムスは嬉しそうに笑うと、急に真剣な顔になった。
「お前、身重だからな。誰か一緒にいた方がいいと思うよ。アルトスもそれを考えたんだと思う」
「それで居候先を変えたの?」
「はは。増築したって聞いたぞ。そっちか? 広いな」
「うん。子どもの遊び場になるし。一応防音にしたよ。図々しい誰かさんの注文なんだ」
サイムスは大笑いした。
「そう言えば、エスカの暗殺未遂事件とオッタヴィアの件、めでたく片付いた。詳細はアルトスに聞いてくれ。それとシェトゥーニャが、昨日巡業に出かけたよ。シボレスでウリ・ジオンと会うと言っていた。
ウリ・ジオンは明日帰る。タンツ氏の手術は、無事に終わったそうだ」
「そう。ひとつずつ解決していくね」
「俺、週末には農場の手伝いに行くからな」
「あてにしてるぞ。あの三人は、今週末に引き上げる予定だ。小麦の収穫期には、名指しで呼んでくれと言っていた。よく働いてくれて、本当に助かったよ」
「俺たち、人に恵まれてるよな」
サイムスは、ご機嫌で引き上げて行った。エスカは、衣類の整理を手伝った。
「お前の暗殺未遂事件だが、実行犯のふたりは、ラヴェンナに送還する前日、自殺したそうだ。奥歯に毒を仕込んでいたようだ。プロだからな。けじめをつけたんだろう。
それで、奥方の侍女が吐いたそうだ。王妃の命令でツテを探したと。その侍女の従兄が前科者でな。刑務所仲間と連絡を取ったら、その知り合いにプロがいたそうだ。
全員、拘置所で裁判待ちだよ。王妃は、一旦実家に帰された。他国の王家に繋がる人間を拉致しようとしたんだ。重罪だからな。
離縁するかどうかは、陛下がお決めになるだろう。いずれにせよ、これで矛を収めてほしいということだ。
オッタヴィアの件はな。相手の親父のペラスト伯爵が、会長を保証人に仕立てて、借金したことが判明した。もちろん会長には無断でだ。
激怒した会長が病室から指示。ウリ・ジオンが弁護士を呼んで、伯爵と交渉した。破談の方向でな。
そうしたら図々しいことに、こちらに慰謝料を要求してきたそうなんだ。『そちらの不祥事が原因なのですから、慰謝料が発生するならそちら側ですよ』と言ったら青くなって引っ込んだそうだ。めでたしめでたし。
オッタヴィアはしばらく泣くだろうが、いずれ、これでよかったんだと分かる日が来るだろう。奥方もおとなしくなったってさ。
一応、陛下にも報告しておいたよ。前回のヴァニン子爵に対する処罰が軽すぎたと、反省しておられた。二度とこういうことがないようにするそうだ」
エスカは無言で聞いていたが、ややあって頷いた。アルトスがギターラをクローゼットに入れるのを見て、思い切って聞いてみる。
「あの、その楽器。僕でも練習すれば、弾けるようになるかな?」
「もちろんだよ! やってみたいのか? 教えてやるぞ」
「うん。教えて!」
それから数週間、平和な日が続いた。アルトスはエスカのエアカーで登校。帰宅して夕食後は、エスカにギターラを教えてくれる。構え方、タブ譜の見方、音叉を使った音の合わせ方など。アルトスは丁寧で根気強く、優れた教師だった。
あれ以来、アルトスはエスカに迫ったりはしなかった。時折り、エスカにちらちらと視線を送るのが少し気にはなったが。
エスカは、自分の手で楽器に触れるのが嬉しくて、練習に明け暮れた。充実した日々だった。
異変を知ったのは、そんな週末、アルトスが農場に出かけて留守の時だった。妊娠して三ヶ月を過ぎたころ、エスカは久しぶりに自身の腹部を透視した。
神経質になるのもまずいと思い、見なかったのだ。そろそろ胎盤ができるころだ。見て仰天した。ふたりいる!
以前見た時は、確かにひとりだった。このふたり目は、誰だ? アルトスと過ごしたあの一夜だろうか。既に妊娠していたから、避妊はしなかった。考えてもみなかった。
エスカは、先ずは落ち着こうと、ゆっくりお茶を淹れた。膝に来たアスピシアを撫でる。ヘンリエッタに相談。それからアルトスに話す。
そう言えば、エスカには思い当たる節があった。アルトスがエスカに視線を送る際、目に笑いが含まれていたのだ。もしかして、アルトスはあの一夜を思い出しているのではないか。役者のアルトスは、憶えていないふりをして、エスカをからかっているのではないか。
アルトスはシャーマンだ。普通人のマデリンのように、霊術は効かなかった可能性がある。甘かった。そう思ったら、頭に血が上った。おのれ、あの野郎。どうしてくれよう。お師匠さまを
あの夜、エスカはアルトスを眠らせて、コトを済ませたことにするつもりだった。本気で誰かと特別な関係になることは、想定外だった。
急遽それを変更してアルトスを受け入れたのは、例の声がはっきりと聞こえたからである。
『その男だ』声は、繰り返し言った。『その男だ』と。エスカには、選択肢がなくなっていた。
お代わりしたお茶を飲み干すと、エスカは覚悟を決めて、ヘンリエッタに連絡した。
「はい。その後どう?」
休日だったせいか、ヘンリエッタはすぐに出た。
「あの、僕、また妊娠しました」
さすがに、ヘンリエッタの目が丸くなる。
「ふたりいるんです」
エスカは、小さくなった。
「アルトスとの治療の結果?」
ヘンリエッタは、呑み込みが速い。
「避妊はしなかったわよね、当然」
「はい。先客がいたので、油断しちゃった」
エヘと、エスカは笑ってみせた。爆笑するヘンリエッタ。すぐに真顔になる。
「最初の子とのタイムラグは、どのくらい?」
「一ヶ月半前後かと」
ヘンリエッタは、考えこんだ。
「数時間差で産まれてくれれば、双生児で済ませられるけどね。一ヶ月半の差がついた場合は、なんとか両方の誕生日を調節して、双子ということにしましょう。でないと、学者先生たちが騒ぐ」
ヘンリエッタは苦笑した。
「あの、それで、認知なんですけど。双子の父親が違うというのは、まずいでしょ。また学者先生たちが」
再び爆笑のヘンリエッタ。
「そうね。子どものことを考えたら、認知はしてもらう方がいいわ。まとめてアルトスに頼みましょう。あの子なら、ふたつ返事で引き受けてくれるわ。そういう子よ」
信頼されてますな、元王子殿下。
「僕、多産系なのかなぁ?」
エスカの問いに、ヘンリエッタはまた笑った。
翌日の夜、アルトスは農場から帰って来た。疲れは見えたが、満足そうである。
「大学とやる事が全然違うからな。気分転換にいいんだ。サイムスもそう言っていたよ」
お茶を飲みながら、ふたりで寛ぐ。エスカは、内心さっぱり寛げはしなかったが。何気なさげに、アルトスを観察した。いたずらっぽく、エスカをからかうような目つき。
「あのさ。ちょっとは思い出してる?」
思い切って聞いてみる。
「ほぼほぼ、な」
くすりと笑うアルトス。やっぱりそうか。仕方がない。全部思い出させてやるか。エスカは立ち上がった。
「では、一生懸命働いたご褒美に」
アルトスのおでこを、人差し指でちょんとつついた。アルトスは、一旦目を閉じたが、開けた途端、歓喜の声を上げた。
「やった~!」
「は?」
アルトスはソファから立ち上がると、ガッツポーズをしながらジャンプするという器用な芸をして見せた。
「かかったなエスカ! 偉大なる師匠の技を、不肖の弟子の俺が破れるはずがないだろ! お前は自己評価が低すぎ。おまけに俺の評価が高すぎなんだよ!」
アルトスの言葉をエスカが理解するのに、数秒かかった。あまりのことに愕然とする。思い出しているふりをして、実は何も思い出していなかったのだ。エスカを騙して、記憶を戻させようとしたのだ。
なんという演技力。名演技であったと感心する心のゆとりを、エスカはもてなかった。
「出てけ~!」
これまで出したことのないような大声で怒鳴りつける。ベッドで寝ていたアスピシアが、アルトスの前に走り来てエスカを見上げた。攻撃の姿勢ではないが、アルトスを守ろうとしているのは明らかである。エスカはカッとなった。。
「なんだよアスピシア! なんでそいつを庇うんだ! アルトスは、僕を騙したんだぞ! それなら僕が出て行く!」
感情のままに、エスカは自室に走りこんだ。手早く荷造りをし、反重力ベルトを装着。そっとベランダに出て、地上に飛び降りた。
車庫に走りエアカーに乗ると、一気に飛び立つ。アルトスが慌てて玄関ドアを開けるのが見えた。
単細胞め。普通なら、外に出るにはリビングを通らなければならない。アルトスはそのままリビングに残り、エスカを阻止しようとしたのだろう。
家出をするのに、家人の前を通るバカがいるか。アルトスは、アスピシアという力強い味方を得て、さぞ自信満々だと思われる。
夜間だがエスカは慎重を期し、行く先を悟られないため、一旦市街地に向かった。別荘地が見えなくなると、エアカーを地面すれすれの低空飛行にした。そのまま別荘地の奥、例の滝に向かう。
滝近くでエアカーを停めた。滝まで行かなかったのは、何となくヌシさまに叱られると思ったからだ。自分が悪いのは、重々承知している。
「当分車中泊だな」
エスカはトランクから毛布を取り出すと、座席のシートを倒し横になった。様々な思いが胸に浮かんでは消え、一睡もできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます