第三話
部屋に戻ると、エスカはアスピシアを掻き抱いた。
「ありがとう。守ってくれて」
アスピシアは、全身をエスカに擦り寄せて甘える。暫し、エスカはそのままアスピシアを抱きしめていた。
「さて。ちょっと急だけど、今夜出発だよ」
昼間きちんと挨拶をして、エアタクシーで引っ越すつもりだった。夜逃げ同然だと、そうはいかない。幾ら僅かな荷物といえど、エアバイクには積めない。
それに、先程のことがあった以上、アスピシアは一緒に連れて行かないと危険だ。エスカとアスピシアは、みんなを敵に回してしまった。
シーツを切り裂いておんぶ紐にし、エスカの背に括りつけて運ぶか。アスピシアには拷問のようなものだが、我慢してもらうしかない。
後で取りに来るわけにはいかないから、荷物は諦める。タブレットだけは持って行こう。
小さな荷物の中に、アスピシアのフードを入れる。これは最優先だ。そして短剣。その時、外に面したドアがノックされた。
アスピシアが不自由なく出入りできるように、ウリ・ジオンが作ってくれた玄関。
「俺だ」
アルトスの声。ドアを開けると、コート姿のアルトスがいる。
「荷物はまとめたか?」
「え」
アルトスはずんずんと室内に入った。
「今夜行くんだろ? 車で送るよ」
想定外の展開。エスカがきょとんとしている間に、アルトスは荷物を車に運び始めた。エスカは慌てて残りを運び、トランクに詰め込んだ。
「忘れ物はないか? ほらアスピシア」
と、アスピシアを後部座席に乗せる。
「よし。出るぞ」
ふいに、二階の角部屋の明かりが点いた。窓が開いて、ふたりの人影が現れる。セダとサイムスがこちらに向かって手を振っている。エスカとアルトスも手を振った。一階は暗く静まり返っている。
『さようならウリ・ジオン』
エスカは、自分の心が泣いているのを感じた。こんなふうに、喧嘩別れなんかするつもりじゃなかった。笑って別れたかった。
「どっちの方角だ?」
運転席からアルトスが聞く。
「北東。別荘地の方だよ」
「モリスの母上の?」
「そう。あそこは、殆ど夏場の避暑か、冬のスキーシーズンのみの滞在者が多い。定住者は僅かだよ。人づきあいが少ないから選んだ。
家は狭くて構わないけど、庭の広いとこ。で、ストーリーは」
エスカは笑い出した。
「元旦那が手切れ金代わりに、その別荘を愛人の僕にくれたんだって」
「アダのシナリオだな」
アルトスも愉快そうに笑ったが、ふと真剣な顔つきになった。
「なぁエスカ。アスピシアが威嚇のつもりだったのは、みんな承知してることだ。深刻に受け取るなよ」
「ウリ・ジオンとセダは、シェトゥーニャを庇おうと前に出た。サイムスに至っては、腰に手を掛けたんだよ。銃のある位置にね。残念ながら丸腰だったけど。
あの場面で、アスピシアが威嚇しただけだと分かっていたのは、アルトスだけだ。下手に庇わなくていいから」
「もし、もしだ。サイムスがアスピシアに発砲したとしたら、お前どうする?」
「その前に、サイムスの息の根が止まるよ」
突然、エアカーがぐらりと傾いた。
「うわあ。仮定の話でびびらないでよ」
「サイムスだけは勘弁してくれ」
アルトスは、呻くように声を絞り出した。
「サイムスは、いつも俺を守ってくれて、返しても返し切れない恩があるんだ。止めるなら、サイムスより俺の息の根にしてくれ」
こいつ、そんなこと考えていたのか。
「誰にもそんなことしないよ。それより喫緊の課題は、オッタヴィアだよ。どう思う?」
「それな。婿候補のヤツ、縁談が起きた途端に、それまでのご乱行を止めたそうだ。今はひたすら大真面目に暮らしてるんだとさ」
「賢い人?」
「いや、親父さんの命令だろう。とにかく正式に婚約まで漕ぎつければ、なんとかなると思っているようだ。
婚約した後でこちらから破談にすれば、たんまり慰謝料をもらえるという算段じゃないかな。結婚まで漕ぎつければ、後は商会乗っ取り作戦だな」
「婚約までになんとかしないとね。僕、そういう謀略っていうの? 苦手」
「俺もだ。できるとすれば、アダかセダだな」
「オッタヴィアさんは、母君の言うことを聞いてたら、一生独身だね。お眼鏡に叶う人はいないだろうな。優秀だそうだから、会長になるのもいいかも」
「それか、好きな人を見つけて駆け落ちか。ウリ・ジオンは戻る気あるか?」
エスカは沈黙した。そうこうしているうちに、別荘地が見えてきた。深夜である。街灯以外に明かりはない。
「あの三角屋根の家だよ」
その家は、別荘地の入り口に近い位置にあった。
「あまり奥だと、街まで遠くなるからね。大学に行くにも、仕事に行くにも。ここからならエアカーで一時間だ」
「ずっとあの家で暮らすつもりか?」
エスカは頷いた。門扉の中に空中から入り、着地する。エアカーの窓からエスカが手を伸ばして、車庫を解錠した。
「車庫からお家に入れるよ。アスピシア、ほらお入り。ここが僕たちのお家だ」
「手続きは、アダがやったのか」
「そう。セダは農場にいるから、身動きがとれなくてね」
「シェトゥーニャが見張っているしな」
アルトスは小声で言った。シェトゥーニャの名は、当分禁句だろう。
「お、リフォーム済みだな」
「全部お任せしたよ。取りあえず住めればいいから」
一階は車庫と物置きとキッチン、リビング。二階に、ベッドルームがふたつ。エスカと子ども、アスピシアが住むには充分だ。
アルトスが荷物を二階に運んでくれた。
「整理は明日やるから。お茶にしよう」
パントリーに、お茶とレトルトがたっぷり入っている。冷凍庫には、冷凍食品がびっしり。アニタの仕事だろう。
アスピシアは、早速農場から運んできたベッドで寛ぐ。ふたりは、熱いお茶を楽しんだ。
「朝まで少し時間があるから、眠ろうか」
アルトスの提案で、ふたりが階段を上ると、アスピシアがついて来た。主寝室にも、アスピシアのベッドがあるのだ。
「お、ベッドはキングサイズか。俺用か?」
エスカは笑うしかない。
「僕と赤ちゃんとアスピシア用だよ」
「一緒に寝るのか?」
「小さいうちはね」
「それがいいかもな」
エスカがベッドに横になると、当然のようにアルトスが隣に来た。と、アスピシアがふたりの間に入り込む。
「おいっ」
エスカは大笑いである。アスピシアの行動は、想定内だったからだ。
「真ん中なら、ふたりに撫で撫でしてもらえるもんね」
アルトスは苦笑して、アスピシアを撫でた。アスピシアは、エスカの次にアルトスに懐いているのだ。ふたりは、アスピシア越しに手を繋いで眠った。
翌朝、お茶と冷凍庫のパンで簡単な朝食を摂る。アルトスは満足そうだ。
「大学は?」
「今日は休むよ。一日休んだくらいで留年はしない」
エスカを見てにやりと笑う。エスカはふんと顎を突き出した。
「ここから通いたいな。農場から通うより近いだろう?」
「防音室がないから無理でしょ」
アルトスは席を立って外を見た。庭でアスピシアが走り回っている。
「敷地が広いな。増築できるんじゃないか。金もあるんだろ」
エスカは呆れた。なんと図々しい男。
「一時的な恋人のために、そこまでのサービスはしないよ」
素早くアルトスが振り向いた。
「恋人?」
「だから、一時的……」
「恋人か!」
「いや、その」
まずい。アルトスは、エスカを抱きしめんばかりである。
「俺とキスしたら、エスカ妊娠するかな?」
「無理でしょ。先客がいるんだから」
アルトスは爆笑した。
「やっぱり午後の授業に出るよ。エスカはまだ未成年だからな。俺が理性を保たないと」
本気だか冗談だか分からないことを言って、アルトスは車庫に向かった。
「また来る。工事を進めてくれ」
屈託のない笑いを見せて、アルトスは引き上げて行った。
「図々しさの極みだな」
アルトスの言動は軽いようでいて、実は本気なのをエスカは知っている。今は、エスカの方が動揺しているのだ。
エスカは、自分の気持ちが分からなくなった。ウリ・ジオンにはっきりと拒否されて、エスカはどこへ行けばいいのか。
ソファに突っ伏して泣いていると、アスピシアが戻って来た。心配そうに、エスカにすりすりする。
「ありがとうアスピシア。やさしいね」
エスカはアスピシアを抱きしめて、またひとしきり泣いた。
午後アダから電話があった。
「これから行く。何か買っていく物あるか?」
エスカは野菜と牛乳を頼んだ。いつ越して来るか分からなかったのだから、生ものは用意できなかったのだろう。
アダは、少し慌ただしい様子でやって来た。
「大学に住所変更届け出したか?」
「いや、まだ」
「しばらくそのままにしておけ。仲間うちにも連絡しておいた」
「何かあったの?」
「クリステル陛下とお会いしただろう? 画面越しに」
「あ、あれね。アルトスが強引に」
「それを奥方つまり王妃が嗅ぎつけた。嫉妬深いお方だそうだ。いきなり刺客が来ることはないだろうが、気をつけろ。
陛下がエスカに目をつけられたのはな、ヴァニン子爵のどら息子のせいだ。お前、襲われただろう? それで、犯人たちがラヴェンナに強制送還された。
子爵親子は『次はない』と言われて、謹慎を喰らった。実行犯がどうなったかは知らん。
陛下は、アルトスがエスカを庇うのをごらんになって、興味をもたれたらしい」
「陛下の興味とどら息子の興味は、全然違うよ」
「どう違う?」
「あのどら息子からは、マリンカと同じニオイがした」
「いじめのターゲットか?」
エスカは頷いた。アダは唸った。
「王妃の狙いも、そんなところだろうな。拉致して苛めぬくとか?」
エスカは笑い出した。
「拉致なんかしたら、シルデスの軍警察が大喜びで乗り込むよ。大型ヘリでね」
「マーカスか!」
アダも大笑いである。
「陛下はね。マーカスと似ているかな。アダとセダにもね」
「どういう意味だ?」
「保護者に近いお気持ちだと思うよ。守ってくれようとしておられる」
アダは大きく頷いた。納得したようだ。
「とにかく、いざとなったら農場に駆け込め」
「ヤだ」
アダは呆れてエスカを見た。エスカの目が腫れぼったいのに気づいたようだ。
「泣いてたのか」
「そりゃあ、振られた直後だからね」
アダは頭を振りながら、持参した品々をエスカに渡した。
「これ野菜と牛乳な。それからホロのパン。グウェンのシフォンケーキ。アニタのクッキー。それに夕食」
エスカの目が、歓喜に輝いた。
「豪勢だね! お茶にしようよ」
アダがお茶の支度をしている間に、エスカはシフォンケーキを切り分けた。贅沢な時間である。美味しいケーキを食べて、エスカは元気を取り戻した。
「それでアルトスだけど。ここから通いたいって。どこまで本気なのか分からないけど。で、防音室作れって。図々しいよね?」
「アルトスは、最初っからエスカが好きだったもんな」
「はぁ? あんなに意地悪の数々やってたのに? 好きになったのは最近だと思ってた」
驚いた。
「あのな。ラヴェンナの王宮にいた時、アルトスは本音を言えば命がないような暮らしをしていたんだ。だから冗談めかして誤魔化して、生き延びてきた。なかなか素直にはなれないだろうな。分かってやってくれよ。
エスカがシェトゥーニャに怒って部屋を出て行った後、アルトスがひと言言ったそうだ。『愛人はシェトゥーニャの方だよ』と。
気づいているかもしれないが、アルトスは独特の考え方をする。頭が柔軟なんだな。それで一同気づいた。
シェトゥーニャの言ったことは、一見いいアイディアのようだが、実は的外れだということにな。ちなみに、ウリ・ジオンは初耳だったそうだ。
自分の暮らしは一切変えずに、親の立場になる。都合の悪い時は、実の親のエスカに子守りをさせてあげる。エスカが怒るのは無理もないよ。
子どもができて、それまでと同じ生活ができる親などいないよ。第一、シェトゥーニャは一年の半分は留守だろう? 育児などできるはずがない。アルトスの言うとおり、それでは愛人だ。妻はエスカだよ」
「僕、シェトゥーニャを追い出して後釜に座ろうなんて、考えたこともないよ。馬鹿だったな。大学のクラスメイトとワンナイトしたとでも、嘘つけばよかった」
アダは苦笑した。
「誰も信じやしないだろうな。エスカは、真逆の水で育っている。それにアルトスは冗談ぽく言っているが、ウリ・ジオンにエスカを渡す気は微塵もないと、セダが言っていた。むしろ、あれは宣戦布告だったと」
エスカも苦笑した。
「やっぱり。それにしてもアルトスは苦労人なんだね。僕は、せいぜい飯抜きになるくらいだったけど、それでもつらかったな。だから本心を隠していい子にしてた」
「それでも相当酷かったじゃないか。泣きたけりゃ泣いていいんだぞ」
「さっき泣いた」
ふたりは爆笑した。
「この家、総二階じゃないよな。車庫の上が空いてる。広い部屋ができるぞ。悪天候の時には、子どもの遊び部屋になる。ついでに防音しておいてもいいんじゃないか? エスカ音楽好きだろう? 音響機器置けるぞ」
「そっか! アルトス用じゃなくても使えるよね?」
「アルトスとはどうなんだ? そうなってもいいのか?」
途端に、エスカの歯切れが悪くなった。
「ウリ・ジオンに捨てられたから、今度はアルトスって?」
「いや、その」
アダは狼狽えた。
「僕、今混乱してて。理性的な判断ができないんだ。しばらくひとりにしておいてもらえると嬉しい」
「そうだな。みんなにも話しておくよ」
「贅沢ついでにもうひとつ。車庫から出入りできるように、つまりこのリビングと反対側になる位置ね。温室作れないかな? 農場より雪が降るから、ビニールハウスでなく、しっかりした温室」
「いいぞいいぞ。自分の家だ。好きにしろ。希望が湧いてきたな」
アダは嬉しそうだ。
「早速、業者を手配するよ。工事の間、アスピシアは隠しておく方がいいかも」
アダは足取りも軽く帰っていった。
翌早朝、アルトスから電話があった。
「あと五分で着く」
はぁ? そっとしておいてとアダに頼んだはずなのに。見上げるとエアカーに先導されて、エスカのエアバイクが来るではないか。運転しているのはサイムスのようだ。
嬉しさに、エスカは跳び上がった。車庫を開けて待つ。
「エスカのヘルメットは小さいな」
サイムスは、ヘルメットを被っていない。
「当たり前でしょ。身体のサイズが違うんだから」
アルトスが笑いながら、エアカーからエスカのヘルメットを持って降りてきた。
「農場からも市街地からも、一時間か。いい位置だな」
サイムスは、笑顔で家を眺めた。
「遅刻するぞ」
アルトスの言葉で、サイムスはエアバイクを車庫に入れると、エアカーに向かう。
「ありがとう。すごく助かる」
ふたりは、エアバイクをエスカに届けるために、早起きをしてくれたのだ。「また来るよ」などと言わず、手を振ってエアカーに乗り込み、飛び去った。
気を使ってくれているのだ。本当にありがたい。みんな敵だなどと思っていた自分が間違っていた。
昼近くに、アダから電話があった。
「明日から工事が始まるぞ。まずは二階からだ。工期は二週間」
「さすが仕事が速いね。ありがとう」
今日はいい日だ。にこにこして過ごそう。
二週間の工期中、アスピシアは早朝と夜以外はリビングで静かに過ごした。工事の終わった翌日、ソファとティーテーブルが配送されてきた。
防音室に設置してもらい、エスカはご機嫌である。趣味のいい家具を選んだのは、エヴリンだろう。
早速園芸センターにプランター、土、肥料、各種の種を注文する。
明日で今年度の授業は終わり。進級が確定したら、一年間の休学届けを出す。出産を終えたら復学したいが、それはお腹の子の状態による。
正常なら、学内の託児所に預けて、エスカは通学部に通う。もしエスカのような子どもなら、手元で育て、幼児のうちに手術を受けさせる。
シボレスのプレイグ医師にお願いしよう。喜んでくださるだろう。あの時の先生の決断は、正しかったのだ。エスカは、今では感謝の気持ちでいっぱいである。
だが、エスカはまだ迷っていた。自分とウリ・ジオン、そしてシェトゥーニャ。この三人が幸せになる方法はないものか。
シェトゥーニャは、気づき始めているのではないか。自分とウリ・ジオンに子どもは産まれないことを。
子どもが欲しいなら、遠くない将来、シェトゥーニャは出ていくかも知れない。
ウリ・ジオンへの愛が勝るなら、子どもは諦めて、今の生活を続けるだろう。
シェトゥーニャは、相手が代われば妊娠する可能性は高いと思われる。何れにせよ、ウリ・ジオンに子どもはいないことになる。
セダとサイムスは、いつか農場から出て行くかもしれない。農場に通える位置に、ふたりで暮らすようになるだろう。
では、ウリ・ジオンはあの広い農場で、ひとりぼっちで暮らすのか? あんなにいい人が、そんなさびしい人生を送るのか? そう考えると、エスカはいたたまれなかった。
エスカは、自分がやるべきことは、まずウリ・ジオンを幸せにすることだと思った。
翌日、エスカはエアバイクで大学に向かった。しばらく通えないかもしれないと思うと、授業にも身が入る。帰りに買い物をしようと、マーケットに寄った。
用を済ませて駐輪場に行くと、ふたりの若い男女がエスカのエアバイクの近くにいる。ラヴェンナ人のようだ。男はナイフ、女は小型のスタンガンを隠し持っているのが、エスカには見えた。
あの武器だと、脅して拉致するつもりだな。気づかないふりをして、エスカはエアバイクに近づいた。男がエスカの前に立ちはだかる。エスカは瞬時にふたりに『金縛り』をかけた。
ふたりの動きが止まると同時に、エスカはエアバイクに飛び乗り発進。即座に舞い上がった。『金縛り』を解き、ついでに男の膝を砕き、女の足首を骨折させる。『粉骨砕身』。これで動けまい。
倒れてもがいているふたりに、数人が駆け寄るのが見えた。エスカは無視して帰路を急ぐ。またニルズ曹長から連絡があるかも。本当にもううんざりだった。
曹長から連絡が来たのは、翌朝である。
「昨日のエアバイクは君? 今どこにいるの?」
「出頭します」
曹長は、驚いたようだ。エスカは、家に来てもらいたくないので、こちらから行くしかないのだ。午後に行く約束をして、アダに連絡した。
アダからセダへ。セダからサイムスへ。サイムスからアルトスへ。そしてアルトスからクリステル国王へ。今後こういうことがないように、せいぜい脅してもらおう。
「またお留守番だよ」
エスカは、寂しがるアスピシアを宥めて、ラドレイ署に向かった。曹長は当惑していた。
「昨日、マーケットの店長から通報があってね。男女ふたりが倒れていると聞いて、駆けつけたそうだ。救急車を呼ぼうとしたが、ふたりが手にしている物を見て、こちらに連絡が来た。
近くで見ていた人によると、ふたりが倒れる直前に、エアバイクが発進したと言うんだな。関係ないかもしれないとも言っていた。
だが、エアバイクに乗っていたのは、銀髪の若い子だったと。急いだのか、ヘルメットを被っていなかったそうだ。
また襲われたのかい? あのふたりははラヴェンナ人だったが」
エスカは無言で頷いた。曹長は唸った。
「ふたりとも骨折していてね。それは知ってる?」
エスカは首を横に振った。こうなると千三つに近い。
「君が急発進した弾みで転倒したか。いずれにせよ、君に責任はないから。一応監視付きで警察病院にいるが、おふたりさん黙秘しているんだ」
「ふたりともプロですね」
さすが王妃。経費をケチらなかったとみえる。
「王妃の手の者かも。うっかり手は出せないなぁ」
「王妃? それはまた」
「原因は、ラヴェンナの国王だよ」
エスカは、国王とネット越しに会った時の話をした。
「国王は、僕に会いたいとか仰って、アルトスをからかわれたんだ。お茶目なお人だね。アルトスが慌てるのをごらんになって、愉快そうに笑っておられたよ。
それを見たか、盗聴器を仕掛けたかしたバカが、王妃にチクったんだろう。嫉妬深い王妃が『そいつを連れて来い。顔を見てやる』みたいなことになったんだね。後先考えずにさ」
「本当にラヴェンナの国王は、元殿下をからかっただけなのか?」
曹長は、疑わしげにエスカを見た。
「それ以外にないでしょ。ラヴェンナの理想的な美人の条件は、まず豊満であることだって聞いたことがあるよ。それでいったら僕なんか直線的だから」
ふたりは笑った。ドア前のマローン伍長も笑った。
「デブの一步手前の女性ばかり見て、気分転換したくなったのかもな。蓼食う虫も好き好きとも言うし」
「う。さっさと強制送還した方がいいんじゃない? 着払いで」
曹長は笑ったが、着払いに関連して思い出したようだ。
「そう言えば、署長が今月、定年退職するんだが。代わりに異動して来るのが、その、パルツィ准将……」
「マーカスが来るの?」
エスカは、嬉しさに跳び上がらんばかりである。気のせいか、曹長は縮こまっている。
「本人のたっての希望だそうだ。みんな戦々恐々だよ」
「え、なんで? 仕事の進め方は多少強引かもだけど、真面目に働いている人に、理不尽に八つ当たりしたりしないよ」
「え、そうなの?」
「今よりずっと仕事がやりやすくなると思うけどな」
「そうか!」
急に元気が出た曹長である。
一週間ほどして、単位取得証明書が届いた。進級に充分な単位が取れている。『進級許可』の文字。エスカは歓声を上げ、アスピシアとダンスを踊った。
早速『一年間の休学届』を送ろうとしていた時に、アダから電話が来た。
「これから行く。ラヴェンナの件で進展があった。ホロの食事持って行くよ」
実にありがたい。
「さて、まずはオッタヴィアの件からだ」
アダは、お茶を飲みながら話し始めた。
「アルトスにハニートラップを仕掛けてもらうという案が出ている」
「ハニートラップって?」
「色仕掛けでオッタヴィアを落とす。人質事件の時に、オッタヴィアはアルトスをお気に召したようだったからな。アルトスの魅力で、オッタヴィアを恋人から引き離すんだ」
「アルトスの魅力って? 顔と歌以外にあるかなぁ?」
「あるんじゃないか。ん〜んと」
アダは考えこんだ。考えないと出て来ない時点で終わっている。
「考えなくちゃ分からない複雑な魅力ってことだね。で、成功した暁には?」
「『アルトスはオッタヴィアと結婚しなくちゃいけなくなるかな?』とサイムスが言ったら『あのおばさんにいびられるのは勘弁』というアルトスの返答だ。それで、この計画は頓挫中」
エスカは吹き出した。
「で、本題のラヴェンナだが。アルトスが国王に談判するのを、セダとサイムスがカメラに写らない位置で聞いていたそうだ。アルトスにしては珍しく、きつい口調だったという。
『エスカが、イシネスの王族に連なる者だということは、ご存知ですよね? 前回のヴァニン子爵の件については、イシネスにはまだ報告しておりません。ですが、再び同じことを繰り返した今回。言わないわけにはいきませんよ。まして命じたのは王妃。ご自分の妻の動向を把握していないとは、夫としてどういうものかなぁ?
エスカはヴァルス公爵の掌中の珠。公爵がなんと言われるでしょうね』
『脅すなよ。分かった。早急に対処する』
ということになった。イシネスはレアメタルの宝庫だ。貿易に影響が出ると、困るのはラヴェンナだからな。
それで、ラヴェンナからの報告だが。国王はすぐに自分の居間や寝室を徹底的に調べさせた。これについては、シルデスの軍警察から連絡が入っていたそうだ」
アダは、いたずらっぽい目でエスカを見た。
「驚いたことに、複数の盗聴器が見つかったそうだ。そこで国王は、王妃を呼びつけて問い詰めた。無論、王妃は否定。
だが国王は、問答無用で王妃を『奥の離れ』に軟禁。通信機器をすべて取り上げた。
続いて、王妃に忠実な侍女を国家憲兵隊に調べさせたそうだ。王妃の命令で、その侍女が中継ぎ役を探したのではないかと疑ったのさ。なかなか口を割らないようだが、時間の問題だろう」
エスカは黙って聞いていた。つと、顔を上げる。笑顔である。
「いい方向に風が吹いて来たかも。アルトスをスケープ・ゴートに差し出さなくても済むかな」
「おおっ!」
と、アダの目が輝いた。
翌日の午後、珍しいことにヘンリエッタからビデオ電話があった。
「話は聞いているわ。少しは回復した?」
「ええ、まぁ」
エヘと笑って誤魔化そうとしたが、相手はヘンリエッタ。じっと見つめられ、エスカは小さくなった。
「出産はどこでするつもりなの?」
「ここです。子どもが僕みたいだったらまずいので。お願いしていいですか?」
「もちろん、そのつもりでいるわ。あなたのことだから、出産日は分かるでしょう? 分かり次第、連絡してね」
「はい。ああよかった」
ほっとしたエスカの様子に、ヘンリエッタは微笑んだ。
「それとは別にね、真面目な話なんだけど。あなた男性経験ないでしょう?」
「ないです」
「すると、処女で懐妊したことになるわね。出産の時なんだけど、苦しいのは聞いてるわね?
普通、処女膜は外から破るのよ。でもあなたの場合は、内側から破ることになるの。どちらか一方だけでも苦しいのに、同時に両方は相当きついはずよ」
そこまでは考えていなかった。
「痛みで失神したら大変よ。母親が踏ん張らなかったら、赤ちゃんは産まれることができなくなるの。そこで産むなら、帝王切開の設備はないしね。
でも、出口付近は痺れているから、そっちの痛みは感じないかもしれない。前例がないから、予想できないのよ。
医師としてはね、安全線でいかなくてはならない。だから言いにくいけどエスカ。その前に経験しておいてちょうだい」
「はぁ?」
エスカは、目を真ん丸にしてヘンリエッタを見つめた。
「早い方がいいわね。人選はお好きなように」
ここで初めて、ヘンリエッタは笑顔を見せた。
「な、なんのことですか? 人選って」
「バナナの方がいい?」
からかいモードに見えるが、ヘンリエッタは大真面目のようだ。そこでやっと、エスカは事態がのみ込めた。
「あ、あの、そんな、僕」
動転して言葉が出ない。
「そちらで独り者は、アルトスだけでしょ。あ、マーカスが異動してそちらに行くとか。もう着任したのかしら」
そう言えば、マーカスも独り者だ。二名から人選って。ヘンリエッタはくすりと笑った。
「自分からは言いにくいでしょうから、わたしから下話をしておきましょうか? いずれにせよ治療だから。割り切ってね」
「お願いします」
え、何言ってんの僕。
「どちらがいい?」
返事ができない。想像もできない。第一、覚悟ができていない。
「ではアルトスでね。グッドラック」
あああ〜! 通話は一方的に切られてしまった。落ち着かなくては。エスカはお茶を入れ、クッキーをつまんだ。
一番の適任者はウリ・ジオンだ。今さら遅いけど。ウリ・ジオンに振られたから、次はアルトスって? これではただの尻軽女だ。
そういうことをせず、本番で頑張るのがいいと思う。できることならば。だがエスカには、自身の未来はまるで見えないのだった。
これまでも、危機に陥るたびにエスカは、臨機応変に切り抜けてきた。その場に相応しいと思われるダメージを相手に与えて。
これからも、それでいくしかない。今悩んでもどうにもならない。行き当たりばったり、もとい、臨機応変作戦でいこう。
誰がやるにしても、治療なのだ。やることは同じである。 エスカは、少しの間我慢していればいいだけだ。肚が決まったら、落ち着いた。
すると、また電話である。サイムスだった。
「急で悪い。これからマーカスを案内してそちらに行くから」
そこで電話は切れた。隣にマーカスがいるのだろう。そっとしておいてと言ったのになぁ。
どのみち、マーカスに言われたのでは、サイムスは断われないかも。それにしても、今日は千客万来である。
エアカーは二台。サイムスは地上に降りず、そのままUターンして農場に帰って行った。マーカスはエスカの誘導で車庫に入る。
「昨日越して来たんだ。早速農場に行ったのに、エスカが出て行ったと言う。事情は聞いたよ」
マーカスは、チョコレートの箱を差し出した。包み紙がなく、箱がむき出しである。
「すまん。幾つか減っている。子どもの頃と同じあの目で見られると、つい、な」
エスカは笑い出した。白バラと黒バラのロゴ。
「このお店のチョコレート、アルトスの大好物なんです」
「そうか。アルトスだけにやるのもナンだから、他の者にも分けた。シボレスに行くことがあったら、また買って来るよ」
大甘のお兄さんなのだ。アルトスの甘ったれめ。
「ウリ・ジオンはあの場に居づらいだろうに、ちゃんと説明してくれたよ。若いのに大した男だ」
そう。僕のウリ・ジオンは立派な人間なんです。
「シェトゥーニャは、シボレスで舞台稽古ということで留守だった」
「あのふたりは、大丈夫かな」
「エスカでもわからないか」
「身近な人のことは分からないんです。客観的に判断できないから」
マーカスは頷いた。
「ウリ・ジオンは、カラ元気出してるように見えたよ」
「何度も思い出しては、考えていたんです。あの場合、僕が怒らずにソフトに断わっていたら、こんなに拗れることはなかったのにって。
でも僕は、我慢できなかったんです。お腹の子のためでなく、自分のために。僕にも誇りがあったんだということを、初めて知りました」
「確かに、一見いい提案だったな。エスカの気持ちを除けば」
エスカはうなだれた。
「ところで、 人質事件の時に話していただろう? 大怪我をさせられたって。わたしだけ見せてもらってないんだな」
「見るほどのものでは」
マーカスは、身を乗り出した。やれやれ。この調子だと、シルデス中の人に見せなくてはならなくなるような気がする。
エスカは、左の袖を捲った。マーカスが唸る。
「エスカ。これな、皮膚の移植手術でなんとかなるんじゃないか」
「僕、手術はもう嫌だ。ドレス着る機会はないしね。このままで生活に支障はないので」
「准将夫人なら、機会はあるぞ」
本気で言ってんのか。話題を変えよう。
「僕ね。ウリ・ジオンに幸せになってもらいたいんです。ウリ・ジオンには、タンツ商会に戻る気はあるんでしょうか?」
「セダが言っていたよ。ウリ・ジオンは、農場に来てからの方がのびのびしてるって。首根っこを押さえる人間がいなくなったんだから、当然と言えば当然だが。
今は農繁期だから、毎日懸命に働いているよ。だが、仕事として向いているかどうかは、まだ未知数だな」
今夜七時から、署で歓迎会があるそうだ。慌ただしく帰ろうとするマーカスの背に、エスカは言葉をかけた。
「あの、ニルズ曹長とマローン伍長は真っ当な人です」
マーカスはにっこり笑って頷いた。
七月半ば、農場では初めての小麦の収穫作業で、さぞ忙しいことだろう。手伝いたい気はあるが、できない相談だ。エスカ自ら断ち切ったのだから。短気は損気。後悔先に立たず。
ただ多忙なために、アルトスにはヘンリエッタの忠告を実行する機会はないとみえる。しばらくは無事だな。アルトスが拒否した可能性もあるが、考えないことにしよう。
二、三日前に、エスカは眠っているお腹の子を目覚めさせた。ぎりぎり成人してからの子ということになる。
エスカはその日、エアカーの運転免許を取った。農場にいる時に、セダとウリ・ジオンから実技を教えてもらっていたから楽勝。筆記も同様。
アダに付き添ってもらって、エアカーを買った。これで生活必需品は、すべて揃ったことになる。
つわりは、ほとんど治まっている。出産までヒマだな〜。子どもの頃から働いていたのだから、ここでのんびりしてもバチは当たらないだろう。
だが、やはり世の中そうは甘くない。その夜、サイムスから電話がきた。出てみると、相手はウリ・ジオンだった。
「ごめんエスカ。僕の携帯だと出ないと思って、サイムスのを借りた。実はオッタヴィアから連絡があって」
緊急事態だな。
「会長が倒れたそうだ。高熱が続いて、医師の処方した解熱剤が効かない。原因は分からないそうだ。
僕が言えた義理じゃないのは分かるよ。そこを曲げて、シボレスに行ってくれないか」
得体の知れない霊媒師を呼ぶのか?
「それ、会長は承知してるの?」
「会長からオッタヴィアに頼んだそうだ。本人が直接電話で話せる状態ではないと」
これは本当だな。エスカの頭脳が高速回転する。
「分かった。行くよ。但し条件付き。アルトスを見習いシャーマンとして連れていきたい。治療を実際に見せたいんだ。
それとウリ・ジオンも同道すること。必ず必要になる。これまでのしがらみを、一時的でいいから忘れてほしい。補佐にアダかセダ」
「僕とアルトスが抜けるだけでも大変だ。なんとかアダに頼もう」
「そうして。ふたりともスーツ用意してね。それからアスピシアを農場で預かってもらえるかな」
「もちろんだよ。すぐにアダに連絡する。少し待ってくれ」
待つ間に、エスカはアスピシアのベッドとフードを買ったばかりのエアカーに押し込んだ。アスピシアは、不安そうにエスカを見上げる。数分後、再びウリ・ジオンから連絡が来た。
「オーケーだ。ラドレイ支社がヘリを出してくれる。すぐ出られるか? サイムスとそちらに向かう。アスピシアを農場に連れてってもらうよ」
一旦農場にアスピシアを連れて行こうと思っていたが、ありがたい。ここから、エスカのエアカーでヘリポートに向かおう。
しがみつくアスピシアに言い聞かせるのに、思いの外手こずった。心を鬼にして、サイムスのエアカーにグッズと一緒に乗せる。
サイムスに同乗して来たアルトスが、エスカの車を見て、ご機嫌になった。
「お、新車だな。運転させてくれ」
まるで子どもである。大きめのボストンバッグを持って、ウリ・ジオンが後部座席に乗り込んできた。エスカは、助手席に乗る。
「アルトスと打ち合わせするから」
ウリ・ジオンを避けるための言い訳に聞こえたかもしれない。
「いいぞ。快調快調。ウリ・ジオン。うちのも一台買い換えないか? 相当ボロいぞ」
「今年の収穫によるな」
苦笑いのウリ・ジオン。
「あのねアルトス。僕、会長の熱を下げる治療をするんだ。その時に、僕の手と会長の身体の触れているところを、よく見ていて。普通の人には分からなくても、アルトスなら何か感じるはずだ」
「分かった」
「それでウリ・ジオン」
エスカは後部座席を振り向いた。
「明日の朝九時に、見習いシャーマンとふたりで行くから、会長の都合を聞いておいて」
ウリ・ジオンは、携帯を取り出した。相手はオッタヴィアだろう。
「オーケーだ。シボレスに着くのは深夜になるが、ヘリポートでエアカーが待機。商会近くのホテルに運んでくれる。ひとり一室、よく眠れるよ。
朝八時半に、エアカーがウチまで送迎してくれるそうだ」
「病院じゃないの?」
「プレスがうるさいからな。自宅だ」
ヘリポートでアダが待っていた。やはり大きめのボストンバッグを持っている。スーツが入っているのだろう。パイロットがスタンバイしていてくれたため、ヘリはすぐに離陸した。
「商会に頼んで、農場に助っ人を頼んだよ。作業員二名とコックをな」
さすがアダ。これで後顧の憂いなく、シボレスで仕事ができるというものだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます