第2話 さくら

 食料品売り場で、桃の缶チューハイと夕ご飯の食材を買って帰宅した。いつもは近所の安いスーパーで買うが、今日はもう面倒だったので、少し楽をしてしまった。

 チューハイの缶を開けると、カチリと気持ちの良い金属音が響いた。甘ったるい桃の匂いがふわっとただよう。久しぶりのアルコールに体が慣れていないのか、すぐに頭まで酔いが回って心地よい。お酒を片手に、まな板やフライパンやら、必要な道具を準備する。今日の晩御飯はオムライス。さくらの好きな料理だ。


 まずは、チキンライスから。冷凍庫から丸めておいたご飯を取り出し、レンジに突っ込む。ご飯を解凍している間に、玉ねぎと人参を細かく刻みはじめた。野菜を切り終わると、鶏肉も一口大に切っていく。


 IHの一口コンロがついた小さなキッチン。決して使い心地が良いとは言えないが、一人暮らしのさくらには充分だった。このアパートに住み始めてから、三年ほど経つだろうか。社会人になって、埼玉の実家を出て、東京で一人暮らしをはじめた。

 この物件に決めたのは、立地と家賃がちょうど良かったから。最寄り駅まで徒歩十五分と少し遠めだが、職場まで快速一本でいけるところで家賃がお手頃なところが気に入って、今の生活に落ち着いている。


 チーン


 電子レンジの音が1LDKの部屋に響く。温まったご飯を熱い熱いと言いながら取り出し、調理台の上で少し冷ます。


 一人暮らしは、最初は慣れないことも多かったが、今ではお気楽で最高だと思っている。好きな時間に好きなものを食べていいし、夜中までだらだらテレビを見ていても誰にも怒られない。家事は少し面倒に思う時もあるが、料理や掃除はわりと好きだ。家賃と光熱費さえちゃんと払えば、自由に暮らせる。まあ、その支払いが大変なのだが……。


 フライパンを火にかけ、バターを乗せると、じゅわぁ~とバターが溶けて、匂いが広がる。幸せな瞬間。フライパンをぐるりと回してバターを広げると、鶏肉を投入する。じゅわじゅわ、パチパチと肉が焼ける音がしてくる。

 肉の色が変わったら、野菜を入れて一緒に炒める。バターは焦げやすいので、火加減を調節しながら。その間に、卵を準備しよう。


 フライパンにご飯を投入し、ケチャップやら調味料を入れる。分量はだいたいだ。混ぜ合わせると、チキンライスの良い匂いがしてきた。ご飯を皿に一度よけると、さあここからが腕の見せ所。えいやっと卵をフライパンに広げる。緊張の瞬間だ。半熟になった良い感じのところで火を止める。うん、いい感じ。チキンライスをこんもり乗せて、卵で包む。くるっとひっくり返してお皿に乗せて、形を整えたら完成だ。


 部屋がチキンライスとバターと卵の美味しそうな匂いでいっぱいだ。さあ食べよう!小さく手を合わせて「いただきます」と一人でつぶやいた。


 この生活にもすっかり慣れてしまって、特に不満もなかった。でも、同僚からは、そんなに無理して一人暮らししなくてもいいじゃない、とよく言われる。実際、実家暮らしをしている子は多い。私たちのお給料で一人暮らしじゃ、全然貯まらないでしょうと言われる。たしかに、毎月諸々の支払いに追われて貯金どころではない。


 それでも一人暮らしがしたかったのは、何でだろう。別に実家が嫌いなわけではなかったが、いつまでも居座るには居心地が悪かったのだ。


 さくらは、会社員の父とパートの母、そして大学生の弟の四人家族だ。ご近所さんからすれば、東京近郊に住むごく一般的なサラリーマン家庭だ。だが、家庭の内情というのはそれぞれだ。

 さくらが三歳の時に生まれた弟は、顔立ちが整っていて目がくりくりしていて、どちらかというと可愛らしく、愛嬌もあった。はたから見ているぶんにはとても可愛らしかった。だが、この可愛らしい天使は、成長するにつれて存分に悪魔の心を開放するようになった。時には年齢不相応に泣き喚き、物を破壊し、相手を無視してしゃべり続け、周囲の人間を疲弊させた。そして小学校に行きはじめると、ついには担任に毎週のように呼び出されるようになり、母親は弟を病院へ連れて行った。総合病院の精神科だ。そこで色んな検査をしたところで、ついた診断はADHD。注意欠如・多動性障害だった。薬を飲んで、病院で治療を受け続けたところ、学校生活に馴染めるようになったようだが、家では相変わらず自由奔放だった。

 母親は、そんな弟に手を焼きながらも、人一倍愛情をかけていた。手がかかる子のほうが愛おしくなってしまうのだろうか。さくらは、徐々に家庭の中で存在感を消すようになった。そして、“良い子”になっていった。自分のことは自分でやるのはもちろん、弟の面倒を見たり、時には疲れ切っている母を気遣った。わがままを飲み込み、母親に構ってもらいたい気持ちを心の奥に押し込めた。

 家庭ではそんな幼少期を過ごしたもので、なんとなく家は弟のもののように感じる。それに自分は優等生でいなければというプレッシャーを感じてしまう。実家は、素の自分で心を開放できる場所ではなかった。


 缶チューハイの最後の一口を、ぐいっと飲み干した。桃の缶詰のシロップのような人工的な甘さが、食後の喉を通過していく。ほろ酔いの気分はなんとも心地が良い。なんとなく音が無いのが寂しかったので、テレビを付けた。適当にバラエティー番組を流す。一人暮らしは気楽なものだ。食べた後の食器をすぐに片づけなくても、誰も何も言ってこない。さくらは片づけを後回しにし、ソファにだらっと腰を下ろした。


 毎週のように繰り返す、平凡な金曜の夜。外は充分に暗くなっているはずだが、都会の夜はまだ明るく、雑踏の音が絶えず聞こえた。ぼんやりとテレビを眺めながら、やはり映画でも観ようかと考えたが、明日は友達とランチの約束があることを思い出した。今日は早めに寝よう。さくらはソファから重い腰を上げ、風呂場へと向かった。

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