-7- 其の弐
沖縄の海は、蒼くどこまでも透き通っていた。
僕はダイビングの装備を付けて、彼はそのままの格好で海に飛び込んだ。
ソラは言う。
「さあ、行こうか。君が行きたいと願う場所へ」
水の中で、彼は普通に話している。
レギュレーターの音があるのに、僕はそれをしっかりと認識できた。
ソラの白い手が波間にきらきらと光り、僕の手を掴む。
次の瞬間、あたりは真っ暗になった。
そして、自分の脚が深い砂の中に刺さったのを感じる。
「ここが、そうだよ」
暗い場所だった。
海の底、なのだろう。
蟹やよくわからない蟲のような生き物が静かに砂の上で眠っている。
目のない魚が、僕の前を通り過ぎていく。
恐ろしく、そして寒い場所だ。
かの話の主人公は、亀に連れられ、こんな恐ろしい――まるで墓地のような――場所を超えて、竜宮城にたどり着いたのだろうか。
あれで彼は楽園へとたどり着いた。
僕は、ただ世界の真実に触れる。
ソラは無邪気に僕の前を歩いていく。
いつの間にか、彼の傍らには一匹のクラゲ。どの水生生物図鑑にも載っていないような、強い光を放つクラゲだった。昔ルナの絵の中でだけ、似たようなクラゲを見たことがある気がする。ソラはそれをカンテラのようにして灯り代わりに使っている。
急に、目の前に大きな塊があるのが見えた。
海底の岩だと思っていたが、それは近づくほどの姿をはっきりとさせた。
人間だった。
人間が膝を抱え、こちらを向いて砂に埋まっている。目を閉じ、何かにおびえているようにも見えた。僕はそれが『人間の魂』なのだと瞬時に理解した。
生身であるなら、まともに五体を保てているわけがないからだ。
深海という飢餓の世界で、大きなエサを空腹な彼らが見逃すわけもない。
「あれは、なんだ?」と僕は尋ねる。
その声は、普通の空気のように響いた。
「あれは『たどり着けなかった者』だよ」
「『たどり着けなかった者』?」
僕の疑問に、彼はこう答える。
「後ろに回ってみればわかるよ」
「後ろに?」
彼が歩いていくのに従うように、後ろに回り込む。
「あっ」
僕は驚き、口元を抑えた。
肩甲骨の間から、黒くて巨大な六角形の柱が肉を突き破り、飛び出ている、さらにその柱から伸びた金属製のチューブが背中のいたるところへと延びて突き刺さり、皮膚を切り裂いていた。
六角形の柱は、僕の存在に気付いたかのように大きく震える。
ごぽ。
それが宿主である男には、痛むようで、彼の口から泡が頭上へと上がっていくのが見えた。
まるで生き物のように、蠢いている。
「これは……」
「世界的には、『機能拡張手術』というものが流行っているだろう? その施術者の成れの果てだよ」
「機能拡張手術……、でも、それって体の機能を補助するものだろう?」
「体とは、魂の入れ物だと思う?」
彼の顔は悲しそうに、しかし笑っていた。
「魂を入れるから、体なのか。体があるから魂があるのかってこと?」
「答えを言ってしまうと、それらは密接な関係であるからこそ、生きているんだと思うんだ。体があっただけでも、魂があっただけでも無駄なんだ」
「ソフトとハードっていうこと?」
「使われがちな例えだけど、正しいわけじゃない。両方が揃っていることが重要で、二つは互いに強く影響し合っている」
「つまり体の編成が、魂にも影響すると?」
「体に魂が引っ張られるように、魂もまた異物を受け入れる。ゆえに彼はここにいる」
「ここに……」
「逃げて来たんだね」
何から?
聞こうと思ったときに、ビュンと近くで何かが翻った。
昏い水の中であるが故に、姿は見えない。
大きな水の動きがあったのだけが、体で理解した。
何かがいる。
恐ろしく、大きなもの。
ごぽ。泡の音がして、近くにいるのを理解する。
「食べに来たんだ、彼が」
「『彼』?」
またも大きなうねりが起き、獣のようなものの気配と偉大なもの威圧感を体に受ける。
僕は言い知れぬ恐怖に、静かに震えていた。それが一度遠くなり、またさらに近づいてきた。
今度はまっすぐにこちらに向かって飛んできて、一瞬にして、目の前にいた人間の体を一口に飲み込んだ。
大きな口には、無数の歯が並ぶ。
人を飲み込まんとする、血走った目が僕を睨む。
太古の時代に生きていたような巨大な鮫だった。
十メートルをさらに超える巨体。
それゆえに、膝を抱えた人間をそのままに飲み込み、かみ砕いた。
口からは血ではない、灰色の何かを零れさせ、僕から一度離れていく。
ああ、僕を狙っている。
死ぬのだと理解させられる。
サメは、猛スピードでターンし、こちらへ突っ込んでくる。
逃げられるわけもない。
そんな僕の前に、ソラが体を投げ出した。
「待って」
サメは、直前まで開いていた口を閉じ、ぶつかるギリギリで止まった。
「何をする、ソラ」
サメが口を聞いた。
どういうことだ、それにソラって。
「この人は、食べてはいけない」
「何を言うんだ、ここにその姿でいるということは、落ちぶれた者だろうに」
「彼は、僕のお客だし、生者だよ」
「あ?」
サメが僕の姿をまじまじと見てくる。
先ほどよりもどこか人間らしい動きをしていた。
ソラは僕に向き直る。
「彼は、ウミ。ボクの兄弟だ」
「兄弟?」
「似てるでしょ?」
さすがに笑えない。
彼は、真面目な顔のままだ。
「ソラ、そんな場合じゃない。何故生きている人間を連れてきた」
「彼に世界の秘密を教えようと思ってね」
「秘密は、どこまでも秘密だから秘密なんだ。それを連れて去れ」
「それは大丈夫だと思うんだよ。彼は研究するとか、そういう秘密を明らかにするような人間ではないよ。ただただ自分の思いのために生きている。自分の利益のためじゃなく、他人への思いのために」
「オレが言うのは、そういうことじゃない。一人だけの例外が、秘密の崩壊につながると言っているんだ」
サメ――ウミは、思ったよりも冷静だ。
先ほどまでの動物的な獰猛さはなく、理知的に状況を判断している。
もしかすると、僕が食われるかと思ったのに。
いや、死はまだここにある。
彼の一存で、死ぬ可能性はゼロではない。
「ボクの願いなんだよ、これは」とソラは言う。
「オマエの?」
ソラは、頷く。
ウミは、短いヒレで頭を掻いた。
「分かった、飲もう」
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