第2話

 一週間後、私は村に戻ってきた。雪原の上に木造の家がぽつぽつと立ち並び、この村を取り囲むようにして山が広がっている。生まれた時からずっと変わらない見慣れた景色だ。けれど、以前のような静けさはもう無かった。制服姿の警察官や、スーツを着ている男性、女性。それに山の中へと入っていく人たちは等しく真っ白なレインコートのようなもので全身を覆われた服を着ている。民家沿いを歩いていた私は、何人ものそんな人達とすれ違っていた。


『世界から忘れ去られた村で行われていた悪魔の所業。製薬会社Sの血塗られた歴史』という見出しの記事が出たのは三日前のことだった。凛花さんが言うには日本の長い歴史でみても、まれにみるような事件だそうで、記事が出てからは日本中がこの話題で持ち切りなのだという。私はそれをどこか他人事のように聞いていた。この村で起きた出来事は私達の身に起きた出来事のはずなのに、無関係の人たちが全く関係ないのところで今この瞬間も私達の話をしている。私はそれを人から聞かされて、その話題の村で今も息をしている。世界から半分忘れ去られたというこの村で。


民家沿いを抜け、村の離れにある大きな建物へと辿り着いた。扉を開けてから受付にいた女性に病室を訪ねた。階段を登りながら病院特有のねっとりとした空気を足に感じ、扉を開ける前に一度深呼吸をした。せっかくのおめでたい日にこんな沈んだ顔を百合亜さんには見せられない。そう思ったのだ。


「あら、来てくれたのね」


 扉を開いた私の顔を見るなり、ベッドで横になっていた百合亜さんはふっと頬を緩めた。


「少し前に眠ったところなのよ」


 向けられた眼差しは、胸元で安らかな顔をしながら寝息を立てている赤ちゃんに向けられた。百合亜さんの子供が産まれたという事は、三日前に湊から聞いていた。けれど、出産という世界一尊い努めを果たしたばかりで、すぐに顔を出すのはよくないだろうという判断をして今日に至った。


「ほら、新奈ちゃんも座って」


 促されるままにベッド脇にある椅子に腰をおろした。


「赤ちゃん、可愛いです。百合亜さんに似てる」

「そうね。世界で一番の宝物を、あの人から受け取ったわ」


 緩やかに笑みを浮かべてから、気持ちの良さそう寝息を立てている赤ちゃんの頬に触れた。その向けられた眼差しは、愛に溢れる母親のそれだった。


「何かあった?」


 百合亜さんがふいに顔をあげてから、問い掛けてくる。


「えっ?」

「新奈ちゃんのその顔。初めて会った時と同じ顔してる」 

「そうですか?」

「湊くんから大体の事は聞いた。大変だったわね。私には想像も出来ないような辛い思いも沢山したんでしょう。でも、あなたが今悩んでいるのはそれじゃないんじゃないの?」


 綺麗な瞳の中に映る私が、揺れているようにみえた。


「なんで、分かるんですか?」

「あなたのことが好きだから」


 間髪入れずにそう答えられた。 


「それは理由になってないです。どうして分かるんですか?」

「だから言ってるじゃない。あなたのことが好きだから」

「ちが」

「あなたのお母さんには負けるかもしれないけど、ほとんど同じくらいにあなたのことを想ってるからよ。娘みたいにね。だから、話してみて」


 穏やかな、ひかりの中にいるみたいだった。私はこの人から出る空気感も、その言葉も、温もりも、全てが好きだ。改めて、そう思った。いつの間にか私は泣いていて、それから時折言葉を詰まらせながらもこの二週間で生まれた心の靄を百合亜さんに話した。 


「馬鹿ね」


 聞き終えた後、百合亜さんはただ一言そう口にした。私はあまりにも思いがけない言葉に、え、と声にもならないようなものを口から溢すので精一杯だった。


「あなたの選ぶ選択を、親であるあなたのお母さんが否定すると思う? いつだって子供が一番なの。私なんて親になったばかりのひよっこだけどね、それだけは分かるわ」


 はっきりと、私の瞳の中心を捉えながら百合亜さんは言った。あの日、別の次元へと通じる扉が閉じたあと、母が歌を歌うことは無くなり、僅かだが意思の疎通も行えるようになっていると湊や父からは聞かされていたが、今日久しぶりに村にきて私は真っ先に母の元へと向かい実際に会ったことで確信した。母は少しずつ、少しずつだが心を取り戻しつつある。向こうの世界の私は十八年もの間、母は一人で戦っていたと言っていた。きっと、そうなのだろう。扉が閉まったことで、その扉の一つを持っていた母の心にもいい影響が出ているのかもしれない。私はそれが心から嬉しかった。泣き崩れてしまう程に嬉しかった。もっと触れたい。もっと話したい。これまで過ごすことの出来なかった親子の時間を、もっと、もっと。そう思った。


 けれど、私は世界の広さを知りたいとも思っていた。生まれてからずっとこの村からほとんど出たことがない私は、世界の何も知らない。あのひかりを通してみたもの、別の次元で生きる私の目を通してみたものだって、あれは広い世界の一部に過ぎない。けれど、あの瞬間ですら私の心は大きく揺れ動いたのだ。この広い世界を、もっと知りたい。もっと触れたい。沙羅と一緒に見てみたい。私はあれ以来その想いが日に日に強くなっていた。だが、その選択を選ぶという事は、母とは一緒に住めなくなる。二つを天秤にかけた時、私は選ぶことが出来なかった。いや、天秤にかけることすら罪な気がした。消化することの出来ないその想いを、自分ではどうすることも出来なかったのだ。


「新奈ちゃん、親が子に想う一番の願いって何だと思う?」


 枕に頭を預けながら、百合亜さんが優しげな笑みを浮かべた。


 「……分かりません」


 俯きながらそう呟くと、頬に手が触れた。それから「じゃあ、教えてあげる」と胸の中に声が降ってくる。


「愛する我が子が幸せになってくれる事なの。自分がどうなろうと、どんな感情を抱こうと、そんなものはね全部二の次なの。子供が進みたい道に、少しでも多くの幸せを感じられる道に、進んで欲しいのよ。その背中を自分の手で押してあげたいのよ」


 なんで、この人の言葉はこんなにも私の心に染みてくるのだろう。目の中は涙でいっぱいで、耐えきれなくなったそれらは、ぽろぽろと溢れおちていった。


「もう、答えは出てるんでしょ? あなたはどうしたいの?」


 百合亜さんの言う通りだった。自分の中でもう答えは出ている。二つを天秤にかけた時、大きく傾いたその答えから私は目を逸らしていた。だけど、と手のひらで頬を拭い、それから顔をあげた。


「わた、しは、私は沙羅と広い世界をみてみたいっ!」


 涙ながらに抑え込んでいた感情を口にすると、目の前で眩い笑顔が咲いた。


「じゃあそれをあなたの本当のお母さんに伝えてあげて? きっと、背中を押してくれるから」


 私は嗚咽を漏らしながら、何度も頷いた。百合亜さんはそんな私の頭をずっと撫でてくれた。

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