第5話

  着込んでいたパーカーのフードを頭から目深に被っていた。私の病室は十三階にあり、本音でいえばエレベーターを使いたい所だが、エレベーターは医師や看護師も使用する。その密室の中で、それも触れ合えるような距離で誰かに気付かれてしまえば終わりだ。恐らく私は隔離措置がとられ、新奈を助け出すという目的を果たすことが出来なくなる。それだけは何があっても避けなければならない。


「ねぇ、今何階?」


 私は湊に手を引いてもらいながら、階段を駆け下りていた。階が変わる度にその階数は壁に表記されているが、フードを目深に被りながら極力顔をあげないようにしていた。二人の階段を踏み鳴らす音が反響しながら鼓膜に触れてくる。


「今は三階なので、あともう少しです」


 湊も息が上がっている。既に十三階から三階までとなると十階分の階段を降りていることになる。私も少しばかり荒くなった息を必死になだめながら足を動かしていると、途端に湊の歩みが遅くなった。疲れちゃったのかな、と思わず顔をあげてから、後悔した。何やら書類を手にしている二人の女性看護師と、今この瞬間にすれ違おうとしている所だったのだ。一瞬だが、目があった気がした。それに、そのうちの一人は何度も顔を合わせていた女性看護師だった。私は咄嗟に顔を下に向け、足を動かすことだけに意識を向けた。お願いだから気付かないで。踊り場に出てから、昇っていく女性看護師に手すり越しに目を向けた。その時だった。


「ちょっと待ってっ! その人に外出許可は出てませんよ」


 女性が大きな声を張り上げた。瞬間、私は駆け出していた。背中に「東條くん、何してるのっ」と湊に呼びかける声が鼓膜に触れて、湊の足が一瞬止まりかけた為に、私が身体を引きずるような勢いで駆け出した。


「警報を鳴らしてっ」


 上の階から女性達の声がして、程なくして鼓膜を切り裂くような大きな警報音が鳴った。こんな所で私は捕まる訳にはいかない。絶対に新奈を助けるのだ。片側の腕だけを大きく振り、足を必死に動かした。


「湊、どっちに行ったらいい?」


 一階に降りきった所で問い掛けた。左右に通路があり、正面には受付、その奥にはエントランスが広がっており、沢山の人が行き交っている。


「一階は駄目です」 

「なんで? もっかい昇るの?」

「警報が鳴ると正面玄関と通路には警備員が配置されます。だから」と振り向きながら再び階段に足をかけ、私の手を引いていく。私達は地下に降りていった。


「あそこに僕の車があります」


 湊が指を指し示した、銀色の小型車に私達は乗り込んだ。私は助手席に、湊は運転席に座った。素早くキーを差し込み、湊がアクセルを踏み込んだものだから車は物凄い勢いで急発進していく。地下から地上に差し掛かると赤い柵のようなものがあったが、それすらも突っ切っていった。


 地上に出ると、車内には前後左右から強いひかりが差し込んできて、映画を早送りしているみたいにぐんぐんと景色が移り変わっていく。みていると、気分が高揚してきた。外の景色をまともに見るのは久しぶりで、自然と笑みが溢れる。


「なに笑ってるんです」


 ハンドルを握りながら、信じられないという表情で湊がこちらをちらちらとみてくる。


「だって、さっき車が物凄いスピード出た時、楽しかったんだもん。それに私こんな風に外に出るのも久しぶりだしさ。あーやっぱり外は気持ちいいね。ねぇ、窓開けてもいい?」


 湊は小さく頷きながら、呆れたような笑みを浮かべる。窓が降りていくと、鼓膜に触れていた蝉時雨がわっと大きくなって、車内に風が流れ込んでくる。私の胸元まで流れていた髪が、ぱたぱたと服を打ち付け、それから、淡く、甘い匂いに包まれる。夏の匂いだ。風はぬるかったけれど、不思議と暑さは感じなかった。今は、ただこの季節ごと抱きしめていたい。目を閉じた。


「看護師である僕にここから連れ出すように説得して、ついさっきまで僕たちは捕まる所だったのに、今は笑ってる。あなたが分からなくなりました」

「私のこと、分かったことあるの?」 


 笑いながらそう問い掛けると、やれやれと言うような様子で湊が首を横に振る。私も湊も、昨日出会ったばかりだ。お互いのこともほとんど知らない。けれど、私達は中で繋がっていた。少なくとも冬の帳村という村で新奈と湊が生まれてから十八間は。ずっと中で繋がっていたのだ。


「行き先は決めてるんですか?」


 私達がさっきまでいたあの病院は街の郊外にある為に、窓の向こうでは一面に草原が広がっており、所々に大きな木が空に向かって枝や葉を伸ばしている。それらが風に揺られたことで生まれる動きは、まるで波打ち際に押し寄せる波のようで、命の輝きを陽の光と共に辺り一面に撒き散らしている。綺麗だ。みながら、ふいに新奈のことを思い浮かべた。雪に閉ざされたあの村にも夏はある。いつか新奈も、今の私みたいに自由を手にしてこんな景色を見てほしい。 


「瑠衣さん? 聞いてます?」


 私は窓から湊へと視線を滑らせて、睨みつけた。


「その名前で呼ばないでって言ったよね?」

「あぁ、そうでした。で、瑠奈さん、行き先は決めてますか? 新奈を助けに行くんですよね?」

「うん、でもその前に一つ確かめたいことがある。今はただこの道を真っ直ぐ車を走らせて。自由を、感じてたいの」

「分かりました」


 車は走り続けていく。地の果てまで続いているかと錯覚してしまうような広い平原を。夏の空気を身に纏い、澄んだ空と、私だけが、この車の行き先を知っている。

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