第17話 森のくまさん

 マッチョベアーは顔と背を向けたまま走って来た。これを背面走行と呼んで良いのだろうか。肩の関節が不自然な形でくるりと回り、鋭い爪の生えた右手が振り下ろされる。


「なんとぉ!」


 ザッカスは転げ回ってなんとか避けた。無様である、泥臭くもある、しかし命こそが最優先だ。


 次は左手が、さらにまた右手がと交互に振り下ろされ、ザッカスは立ち上がるタイミングを掴めずにいた。


 ドン、と背に衝撃が走る。転げているうちに木の幹にぶつかってしまったようだ。


 背後には木、前方には化け物熊。転がって逃げる事は出来ない、立ち上がる暇もない。ならば残された道は何だ。


 死、という言葉が脳裡をよぎったその瞬間、視界にピンク色の影が飛び込んだ。


「どっせぇい!」


 ゴーレムだ、パットンだ、僕らのヒーローだ。


 飛び上がり、叫びながら右拳をマッチョベアーの横っ面に叩き込むパットン。勢いが乗り、急所に突き刺さった文句なしの一撃、そのはずだった。しかしマッチョベアーは倒れない、効いているのかどうかも怪しいものだ。


 コカトリスの骨で作った右手に損傷はない、それだけが救いだ。


「くそったれ!」


 パットンは大きく飛び退った。『彼』の攻撃は無駄であったのか。否、ザッカスが立ち上がるための時間は稼げた。怯えが怒りに変わる為の時間が稼げたのだ。


 ザッカスは脇に転がっていたカマキリの腕を掴んだ。こんな武器は嫌だ、使いたくないと思っていたのは過去の話で、この凶悪な形が今の気分にはピッタリであった。


 食材の調達を命じた上官、思い通りにならない仲間たち、凶悪な魔物、そして死の恐怖に怯えてしまった自分自身。ありとあらゆる苛立ちを込め、なかば八つ当たりのような形でカマキリの腕をマッチョベアーの頭に振り下ろした。


 鋭い刃はまるで隙間に吸い込まれるかのようにスルリとマッチョベアーの頭頂部から首までを切り裂いた。ワイン樽に穴を開けたかのように鮮血が吹き出し、マッチョベアーの動きがピタリと止まる。


 倒せたはずだ。いや、本当にこれで終わったのだろうか。とても信じられずザッカスはカマキリの腕をマッチョベアーの頭部に残したまま数メートルの距離を取った。


 信じられない気持ちであるのはパットンも同じようで、ザッカスと何度も顔を見合わせ視線を交わした。


『本当に死んだのか?』

『わからん、ちょっと確かめてくれ』


『嫌だよ、自分でやれよ!』

『俺だって嫌だ!』


 無言で罵り合った後、武器を持っていないというジェスチャーをしたザッカス。カマキリの腕はマッチョベアーの頭に刺さったままだ。パットンは軽く舌打ちしてからマッチョベアーの背後へ、そろそろと慎重に回った。


 ゴーレムらしからぬ白くしなやかな足を上げ、マッチョベアーの膝裏に蹴りを入れた。難攻不落の城砦とまで思われた巨体がぐらりと揺れ、地響きを立てて倒れた。


「呆気ない、なんて言っちゃあいけないんだろうがな……」


 ザッカスは癖だらけの髪を掻き、フケを落としながら呟くように言った。命のやり取り、その結果などこんなものだ。一歩間違えればあっさりと首を飛ばされていたのは自分の方であっただろう。


「……ま、とにかくこいつを解体しようぜ。持てるだけ持って行きゃあノルマは達成出来るだろ」


 ザッカスは頷きながら言い、腰からナイフを取り出しマッチョベアーの腹に突き立てた、つもりだった。毛皮が恐ろしく分厚く、しかも毛が絡んで切りづらい。


 ……なるほど、こいつは厄介だ。


 通常の剣で斬り付けたところで弾かれていただろう。マッチョベアーを倒す事が出来たのはカマキリの腕という特殊な武器があればこそだ。とはいえ、カマキリの腕に感謝する気になるかと言えばそんな事はない訳だが。切れ味は認める、それはそれとして敵から引き千切った腕をそのまま使うというのは何だか嫌だ。


 パットンとクグツもマッチョベアーの死体に駆け寄り、それぞれ解体作業を始めた。彼らも冒険者家業のベテランであり獲物の解体は慣れているはずだが、それでもマッチョベアーの毛皮には苦労させられていた。


 まずは切れ目を入れるのが一苦労であり、そこから裂いていくのも大変だった。解体用のナイフはすぐに血と脂でべとべとになり、拭う為の布もすぐにドロドロになってしまった。もう脂を拭っているのかナイフを汚しているのかわからないくらいだ。


 黙々と作業を続ける三人。あまり時間を掛けると血の匂いに引き寄せられて他の魔物が現れるかもしれない。この時ばかりは他の冒険者たちが魔物を退治してくれている事に感謝していた。


 ……いや、魔物退治をされていたから俺たちはこんな化け物を相手にしなきゃならなかったんだよな。


 ザッカスは心の中で感謝の気持ちを取り下げた。やはり冒険者はクソだ。恐らく自分たちも他の冒険者たちから似たような眼で見られているだろうが。


「おっ、この爪いいなぁ」


 良質な素材を見付けて喜ぶクグツを、ザッカスがジロリと睨み付けた。


「ダメだぞ。今は肉が最優先だ」


「いや、しかしこんなに良い物を……」


「俺はカマキリの腕だけでもかなり譲歩したつもりだが?」


 迷宮探索の目的は食材の確保であり、ゴーレム改造用素材を持ち帰ろうというのはクグツの個人的な事情に過ぎないのだ。道理はザッカスにあるとクグツも理解したようで、


「はい……」


 と、肩を落としながらも素直に頷いてくれた。ザッカスもそれ以上は何も言わなかった。話せばわかる相手というのはありがたいものだ。

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