第7話 日向晴香:これだけは譲れない(1)
【日向晴香 これだけは譲れない】
航の部屋から帰ってきたあたしは、ベッドの上でうずくまる。
葵に対して『ズルイ』なんて言葉が自分の口から出るとは思わなかった。
彼女がズルイんじゃなく、スゴイいんだってことは私が一番良く知っているのに。
あんなことを言ってしまったのは、自分がふがいなく、弱いからだ。
航に聞こえてなければいいんだけど……。
今日もまた自己嫌悪で沈んでいく。
明るく元気な日向晴香にしか価値はないっていうのに。
机の上に広げた問題集は、一問も進んでいない。
あたしは壁に飾られたチェキを見て、ため息をついた。
中学の学園祭で、葵と一緒に撮ったもの。
葵に誘われて、声優デビューオーディションを受ける前だ。
二人とも無邪気に笑っている。
あのオーディションを受けなければよかった?
今すぐ声優をやめればいい?
結果の変えられない問いと、答えの出ている問いが頭の中でぐるぐるまわる。
そんな思考を中断させたのは、リビングから響いてきた食器の割れる音だ。
「お茶碗のすみにご飯をこすらないでって何度言ったらわかるの!」
「細かいことにうるさいんだよ! しゃもじの米をどうとろうがいいだろ!」
「お箸でとってって言ってるでしょ!」
いつも帰りが遅く土日も出勤しがちな教師の父と、そもそも夜勤もあるシフト制である看護師の母は、あまり顔を合わせることがない。
しかし、たまに会えばいつもこうだ。
どうでもいいことで大喧嘩。
私にとって『家族』という単語で最初に連想される言葉は『怒鳴り声』である。
小さい頃はこうではなかった。
いつから両親が不仲になったのかはわからないし、知りたいとも思わなくなった。
とても厳しい両親だけど、学校の成績をある程度キープできていれば機嫌は悪くない。
勉強をきちんとしているうちはという条件付きで、反対されている声優の仕事も続けさせてもらっている。
両親の怒鳴り声から逃げるように、スマホに繋いだイヤホンで耳を塞ぎ、マネージャーから資料として送られてきたアニメを見る。
脇役ではあるけれど、久しぶりに決まったレギュラーだ。
何より、昔三人でよく見たアニメの十年ぶりの続編である。
思い出の作品――『ギャラクシーナース』に出られてとても嬉しい。
早く航に報告がしたい。情報解禁まで待ちきれない。
葵への報告は……機会があったとしても少し気まずいかもしれない。
あの娘は、この作品を本当に愛していたから。
『ギャラナス』はカルトな人気を誇る不条理ギャグアニメで、航とあたしはゲラゲラ笑いながら見ていた。葵だけはよくわからない感動のしかたをしていたけれど。
あの頃から葵は独特の感性を持っていた。
それが今は、VTuberとしての武器になっている。
顔出しの仕事が多いアイドル声優の私にとっても個性は大事だ。
お芝居は好きだけど、自分自身を切り売りするのは正直苦手だ。
作品を通して役になりきることはできても、自分を作ることは得意ではなかった。
それが、今の人気低迷の原因だとはわかっている。
演技を褒めてもらえることは多いけれど、それだけで生き残っていけるほどこの業界は甘くない。
事務所も、あたしが若いうちにファンを獲得してほしいと望んでいる。
わかってはいるけれど、どうしても上手くやれない。
悔しさで溢れそうになる涙をぐっとこらえ、画面に集中する。
葵(バイオレット)のような人気者ではないけれど、『ギャラナス』に声をあてられるのはあたしが声優だからなのだ。
この仕事だけは譲れない。
がんばるんだ。
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