第6話 中村航:アイドル声優の先生というと語弊がある(2)

 時計を見ると、十九時を過ぎている。

 葵がうちに来るのは数ヶ月ぶりな上、女子高生が一人で男子の家を訪ねるには遅い時間だ。

 半年前まではこの時間まで三人でいたのだが、妙に緊張してしまう。


「え? 葵?」


 モニターを覗き込んだ晴香の顔が一瞬こわばったが、すぐいつもの笑顔に戻る。

 晴香の反応は気になるが、葵を無視するという選択肢はない。

 それに、二人の仲がよくなるきっかけになれば嬉しいしな。


「よかった。開けてくれなかったらどうしようかと思っちゃった」


 ドアを開けると、学校指定のジャージを着た葵がほっと胸をなでおろしていた。


「いやいや、葵を無視するとかないから」

「でも、晴香が来てるんでしょ?」

「なんで晴香がいると葵を無視するんだよ」


 そんな風に思われるのはちょっと悲しい。


「だってほら、健康な男女が二人きりなんて……」

「おいおいおいおい」


 何を言い出す気だ?


「ホットヨガをしてるに決まってる! えっち!」

「ヨガ……うん、してないけどな。あとホットヨガは別にえっちじゃない」


 たしかにあのコスチュームは……いやいや、あくまで動きやすい格好なだけだし。


「ほんと? 二人仲良く火を吹く練習したりしてない?」

「ホットヨガのホットってそういう意味じゃないから」


 火を吹く練習がえっち?


「え!?」


 葵だったわ。

 これが学校では、よく知らない連中からクールビューティー扱いされているというのだから、他人の評価はあてにならない。


「ホットヨガ、やりたいのか?」

「そりゃそ――ちがうよ! そんなえっちなこと考えてないからね! それに、やるとしても航とだけだから!」

「お、おう? ……うちで一緒にやってくか?」


 ホットヨガのやり方なんてしらないが、レッスン動画ならいくらでもころがっているだろう。


「え?」


 一瞬、葵の顔がぱあっと明るくなったが、すぐに困惑に変わる。

 これは押せばいけるのでは。

 葵と晴香を会わせるチャンスだ。


「これから夕飯だけど、もう一人分くらいならすぐ用意できるからさ」

「もう一人……ううん、やめとく」


 ああしまった……。

 招かれざる客だと思われてしまったかも。


「遠慮はいらないんだぞ。三人で食べた方が楽しいしさ」

「やめとく。部屋の片付けもあるし」


 今度は、頭に「今日は」などもつかないはっきりとした拒絶だ。


「そうか。いつでも来てくれよ」

「うん、時間ができたらそうする」


 何度聞いたかわからない断り文句だ。


「今日は引っ越しの挨拶に来ただけだから」

「引っ越しって……まさか隣に!?」

「うん、これからはお隣さんだからよろしくね」

「前のマンションは?」


 よほどの事情がないと、あの高級マンションからここに引っ越してはこないと思うのだが。


「パパとママが住んでるよ?」

「ん?」

「ほあ?」


 会話がかみあってない気が……。


「まさか一人暮らしするのか?」

「自分で稼いでるんだし、航の隣の部屋ならいいよってパパがとママが許可をくれたの」

「相変わらず放任主義だなあ」


 それにしても行動力ありすぎでは?

「ほら、Vのお仕事って大きい声をだすからさ。この機会に防音室も買っちゃったの」

「高校生のする買い物とは思えんなあ」


 内容的にも、おそらく金額的にも。


「というわけではいこれ」


 葵が手渡してきたのは、近所にあるケーキ屋の箱だった。


「ええと……誕生日はまだだが?」

「誕生日は私と一緒にケーキを食べたいって、コト?」

「そんなこと言ってないが。いや、ぜひそうしたいな」


 三人で。


「あ……」


 一瞬目を泳がせた葵は、ケーキの箱をぐいっと差し出してきた。


「引っ越しモンブラン。二人で食べて」

「ソバの間違いでは?」

「でもほら、形は麺っぽいし、こっちの方が強いよ?」

「つよ……? う、うん……?」


 この葵ぶし、久しぶりに聞いた気がする。

 何を言っているのかは相変わらずよくわからないが。

『バイオレット語録』なんてものがネットに作られてるくらいだし、いまさら驚くことではない。

 とりあえず、全国のそば屋さんに謝った方がいいんじゃなかろうか。

 なんならモンブランにも失礼かもしれない。


「それじゃあね」


 葵はモンブランをオレに押し付けると、自分の部屋へと帰っていった。

 一緒にご飯はだめで、隣に引っ越してくるのはOKという謎基準が実に葵らしい。

 リビングに戻ると、勉強道具を胸にかかえた晴香とぶつかりそうになった。

 玄関でのやりとりに聞き耳を立てていたのだろう。


「帰るのか?」

「うん、また明日も来ていい?」

「それはもちろんだが、コレを食べていかないか? 二つ入ってるみたいだ」

「でも……航が葵からもらったものでしょ」

「言ったろ。二つ入ってるって」


 二人分用意されているのはどういう意味なのだろう。

 少なくとも葵は、晴香がここにいることがわっていて、二つ買ってきてくれた。

 それでも「晴香と一緒に食べてね」と言われなかったことが、二人の距離感を物語っている。

 引っ越し蕎麦二杯は露骨すぎるからモンブランにした、というのは……葵だしなあ……さすがに考えすぎだろう。


「あたし、ダイエット中なんだけど……」


 皿に移したモンブランを前に、晴香は浮かない顔でフォークを彷徨わせている。


「じゃあ半分」


 オレは食器棚から皿を取り出し、晴香のモンブランを半分、自分の皿に移した。


「なあ晴香、葵と何があったか聞いてもいいか?」


 二人の様子がおかしくなった直後、軽く聞いてみたことはある。

 その時にぐらかされて以来、聞けずにいたことだ。

 最初はすぐに落ち着くだろうと思っていた。

 しかし長引くにつれ、触れにくくなってしまった。

 でも、このままでは絶対にダメだ。


「それは……」

「言いたくなかったらいいんだけど」


 晴香を苦しめたいわけじゃない。


「ごめん、言いたくない」

「いやいいんだ。ただ、前みたいに晴香と葵が仲良くしてくれたら嬉しいと思っただけだよ」

「うん……ごめんね」


 晴香はしゅんと俯いてしまった。


「こっちこそごめんな。こんな雰囲気にしたかったわけじゃないんだ。引っ越しモンブラン食べようぜ」

「うん」


 晴香は小さく切り取ったモンブランを口に運んだ。


「美味しい」


 寂しそうでありながらも優しい微笑み。

 この表情をみるかぎり、また昔みたいに笑える日はくると思うんだよな。

 引っ越しモンブランをペロリと平らげ、二人分の皿をキッチンに下げる。


「葵はズルイなあ……」


 晴香がそう小さく呟いた言葉の意味を、オレは推し量ることができなかった。


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